第19話 聖女の不在①

 ダンジョンを出てから少し揉めた。プリンセスの扱いについてティティと揉めた。プリンセスは民間業者に売れば五十万はくだらない。訓練をして家事等を覚え絶対避妊処理を施されたプリンセスは約百五十万前後で取引される。ただ売られた先で必ず幸せになるとは限らないし、奉仕を求められても応じなければならない。所謂奴隷と言う奴。

 二十万前後を支払えば民間、機関を問わず訓練処理してもらえ手元に置ける。ただぼくはプリンセスを手元に置きたいとは……必要ないからだ。

 最後に機関に引き取ってもらう事ができる。引き取ってもらうと言っても報酬として二十万前後が貰えるわけで実質取引だ。機関は万年人手不足。プリンセスを訓練して裏方で働いてもらい、骨髄からは定期的に必要な人工抗体も貰おうと一石二鳥の判断だ。

 その代わりにプリンセスは仕事以外の時間を自由に過ごせるようになる。とは言ってもやっぱり訓練処理はされるし首に行動制御装置をはめられる。避妊処理も。

 民間管理なら許される行為も機関管理では絶対に許されない。街で誰かを傷つけるという行為が機関管理では絶対に許されないからだ。

 人が本能と理性を持つように、魔物は種臓の本能と生物としての本能を持っている。

 人とミトコンドリアの関係に似ていると論文を見たことがある。

 残念だけれど街中で魔物が人と同等に扱われることはない。

 犬や猫を家族だと言う人がいるように引き取った魔物を家族のように扱う人はいる。

 でも魔物に身内を殺されて憎んでいる人からしてみれば、街中で魔物を見ただけでも憤りを感じて怒りを覚えると、ぼくだってそうだ。という説明をティティに包み隠さずしたところ、民間に売ろうぜと言った。やっぱ言うんじゃなかった。でもいずれわかる事だ。

 ぼくは民間には売りたくない。この街ではさすがに食べる人はいないと思うけれど、セックススレイブや切り売りする人はいる。動物愛護法は魔物には適用されない。

 魔物を買って憂さ晴らしや殺しをする人もいる。魔物を殺しても犯罪にはならないからだ。

 現在の人類は生存するだけで手一杯。

 出生率が下がったから結婚できる年も男子は十六歳、女子は十三歳に下がった。

 機関は最低限の法しか提示しないしできない。まぁ、これ、どれも動画で見た情報をただ言っているだけで実際細かい法がどうなっているのかは見て見ないと何とも言えないのだけれど、カードを出して法律一蘭を表示したら眩暈がしてきた。

 他の街だと一夫多妻制なども解禁されているらしい。この国でも解禁しようと言う動きはあるけれど、ぼくは反対だ。結局犠牲になるのは次世代の子供になるって考えている。

 まぁ……盗賊であるぼくにとって次世代の子供については関係の無い話だ。


 ぶっちゃけて言うとプリンセスは機関に寄贈でもいいと考えている。

 命の売り買いにはやっぱり抵抗がある。

 金か名誉か愛かという選択肢があるけれど、ぼくにはどれも縁がなさそう。ちなみにこの中で一番なのはどれかと問われれば、それは名誉だと答える。

 なぜかと言われれば、知名度が高ければ金は稼げるからだ。動画やライブは名誉がそのまま金になるものだと考える。知名度が高く知っている人が多ければ、それだけ女性との出会いも多くなる。必然的に良い女性から愛され愛する確率も高くなると考える。

 お金は生活を豊かにするけれど、愛は得られないと考える。金で愛は買えるというけれど、その愛情が向いているのはお金にだけ。それは愛されているとは言えない。就職するのと一緒だ。

 愛は……一番何も得られないと思う。愛はお金にならないし名誉にもならない。

 でも誰かに心の底から愛される。命をかけて愛されると言う事は幸せな事だと感じる。こういう考えは重いと言われるけれど、ぼくは愛する女性に命を賭けたいし、命を賭けるほど愛されたい。命を賭けさせてほしい。それほど愛させて欲しい。そしてそれほど愛されたい。そこにはお金も名誉もないけれど、なぜだか、なぜだかそれが一番幸せなのだと……。ロマンチストと言われたらそれまででリアリストからすれば馬鹿なのかもしれない。

 まぁ……やっぱり盗賊のぼくには無縁な事なのだけれど。

 機関に売るのを前提として民間に査定して貰い、その差額分をティティに支払う事で納得して貰った。経吉は面倒くさそうにしていてなんでも良さそうだった。この人は多分戦いにしか興味がない。侍って生粋の戦闘狂って話しだから経吉も例に漏れないのかもしれない。

 事情を知ってか知らずか業者にはめっちゃ吹っ掛けられた。七十二万って何。普段そんな高値で買ってくれないじゃん。機関内での査定だから盛ったのだと察する。

 天使は残酷な行為が基本的に嫌いだ。奴隷や虐待も嫌いだ。業者としても優良な企業ですよってアピールしているのだと察する。こんな時ばっかりアピールするんだから。所謂貧乏くじを引いた。ある意味運が良く、ある意味不運だ。


 クィーンの種臓やゴブリンの種臓等諸々から税金などを引いて約八十六万が提示されていた。三等分すれば一人頭約二十八万になる。でも実際にはプリンセスは約二十万で引き取られる。実際に貰える全体の金額は約三十六万しかない。

 三等分しても一人十二万で、残り十六万ずつティティと経吉に支払わなければいけない。

 ティティに二十八万を渡すとまだ不満そうだった。二十八万でも一日一つのダンジョンで稼いだ額としては破格だ。正確には二十八万六千六百六十六円。

 経吉は十万で良いと言ってきたけど二十八万しっかり渡した。一番活躍したのは経吉だからだ。

 三年も探索者をやっていれば多少の貯蓄はある。正直断腸の思いだし苦しい。馬鹿だよね。お金ってすぐ無くなる。

 連れていかれるプリンセスを見送った。

 ファニエルさんは始終ニコニコしていて機嫌が良かった。何か良い事があったのかな。

 でもファニエルさんの機嫌がいいほど逆に不安にもなる。どうして機嫌がいいの。

 他の男の人と仲良く談笑していたり、同じ男性と決まった時間にやり取りをしたりしている姿を見ると勘ぐってしまう自分がいや。今日はデートだから機嫌がいいのかな。なんてもう心が死ぬ。踏んだり蹴ったりだ。

 そしてそれは自分に一切関係ない事で余計に落ち込む。理性に反して勝手に落ち込んで嫌だ。ぼくには一切関係ないのに。


 パーティを解散して二人と別れる。もうパーティは組みたくない。

 話しが終わると椅子で大人しく待っていてくれたムギが駆けよって来て服に埋もれてこようとするので手で制する。手で制するとムギの顔が若干強張るのを感じた。

「ごめんね。今、服が汚いから」

 服や靴は支給品なので機関に返せば洗濯してくれるし洗濯したものをまた借りられる。申し訳なく思いながら泥まみれの服を洗濯籠に入れ、ムギと一緒にシャワーを浴びた。ムギには湯船に浸かってほしいけれど、機関のシャワールームに椅子はあっても湯船は無い。

 服を脱いだらムギはおずおずと抱き着いてきて、いっぱい抱きしめたり頬やおでこにキスしたりした。拒否されたのがちょっとショックだったみたいだ。

 男女兼用のシャワー室がみんな個室で良かった。

「お腹空いたでしょ」

 膝の上に乗せたムギの頭や体を洗う。ムギがぴったりと体を寄せて来て不安だったのかなと申し訳なくなった。

 午後十八時を過ぎていた。

 新しい下着を備え付けの自販機で購入してムギともども着替えたら機関にお別れをする。自販機で温かいコーンスープを買ってムギに飲んでもらった。ムギは無表情で好みなのか嫌いなのか判断に迷ってしまった。少なくとも食べられなくはない、コーンが嫌いではないと認識する。

 受付のファニエルさんが微笑みながら手を振っていて、ぼくもムギも手を振り返さなかった。

 きっとその手はぼくに振られたものじゃない。

 路面電車に乗る。スーパーに寄って夕食の準備。行きつけのスーパーへ向かい麻婆茄子の材料と謎肉ジャーキーを買う。お菓子はいらないかムギに聞いたけれどムギは首を振るだけだった。

 ムギは辛(から)いのは大丈夫だろうか。茄子は食べられるのかな。色々思い浮かぶけれどとりあえずご飯が進むものを選んだつもり。

「ムギは茄子食べられるかな?」

 そう聞くとムギは目を丸くしていた。野菜コーナーで茄子を取って見せる。食べた事ないかな。

「ムギは辛いの食べられるかな?」

 そう聞くとムギは少し目を細めて袖を引っ張った。それはどっちの反応なのかな。頬を両手で摘まんでムニムニすると、ムギは少し驚いた表情をして抱き着いてきた。

 キャベツとゴマ油、それにミネラルソルトも買う。

 スーパーを出て帰路へ。


 部屋に到着して鍵を探すところで引っ越したのを思い出して愕然とする。

「あー……やっちゃった……。ごめんムギ」

 なんでそんな大切な事を忘れたのか不思議でしょうがない。

「部屋間違えちゃった。ごめんねムギ」

 ムギを見て謝ると、ムギは不思議そうな顔をして見上げるだけだった。

 改めて新居に向かうために発着場に歩き路面電車に乗る。時刻は午後七時を過ぎていた。電車の中は人があまりいなかったので、謎肉ジャーキーを出してムギに渡す。謎肉とは言っているけれど正確にはオークの肉だ。高タンパク低カロリー。腹持ちもいいし特殊な脂が脂肪を燃焼させやすくする。

 今日はダンジョン四つ回るつもりだったのに結局一つしか回れなかった。何もかもうまく行かない気がする。

 最後尾出口付近、端っこの席にムギを座らせて前に立つ。

 ジャーキーをガジガジするムギの髪に指を這わせる。

「大丈夫? 食べられそう?」

 返事は帰って来なかったけれど、ガジガジしているので大丈夫だろうと思う。甘辛いタレが美味しいよね。子供の頃、良くイミナと二人でガジガジしていた。あの時は良くイミナに買って貰っていた。懐かしくて申し訳ない気持ちになる。恩返しがしたいけれど、今のぼくが近づかないのも恩返しなのかもしれない。

 思いの他新居は旧居からは遠いと感じた。

「全員動くな‼」

 路面電車は基本一両。先頭の方で大声が聞こえ息を吸う。電車ジャックに引っかかったと察するのに十秒もかからなかった。ため息が漏れそうになりムギを立たせて隣にある遮蔽物へ押しのけて上から覆いかぶさる。この手の手合いに歯向かうのは得策じゃない。言うより早く身を潜めて敵意をなるべくそぐ。

「我々は人類至高主義団体ヒューマンレイスである‼ 我々人類は天使により不当な拘束、洗脳を受けている‼ 我らは立ち上がらなければならない‼」

 また始まったよ。遮蔽物から顔だけを向ける。長髪コートの男が手に何かもって立っていた。押さえつけられている女性は中学生ぐらいだろうか。

 サングラス、マスク、手袋、長髪はおそらくウィッグ。

 手に持っているのは銃……かな。

 乗客はぼくを含めて六人。捕らえられている女生徒、蹲っている中年の男性が一人、ぼくの隣に女性が一人、少年が一人。そしてムギ。

「我々の要求はただ一つ‼ 天使がこの街から去ることである‼ 要求が呑まれない場合、乗客を一人ずつ殺す‼」

 路面電車の運転席は自動だから無人だしここで怒鳴っても伝える人がいるのか不明。この犯人の真の要求は天使の追放じゃない。ぼくたちの金品だろう。たかだがこの人数を救うために機関が街全体を危険にさらすなんて事は絶対にありえない。コラテラルダメージとか言われそう。

「安心してほしい。お前たちは偉大な犠牲になるだろう‼ さぁ死にたくなければ荷物をまとめてこちらへ置き最後尾にかたまるように‼」

 またわけのわからない事を言っている。

 腰を前後させ、女性に押し付けるような動き。これは金品を払っても女の子は解放されないだろうな。

 財布には大して金品は入っていないけれど、コートを取られるのは困る。人質の女生徒や男の能力が未知数なこと、ムギの安全に……そこまで考えて考えるのをやめた。

 答えはもう出ている。

 闘気法――お守りお姫を握る。

 天使はまだ見ていない。今、この場に天使はいない。

「うぉおおおお‼」

 少年が雄叫びを挙げて駆けた。しかし男に顔を蹴られて椅子に叩きつけられる。衝撃で隣の女性の口から若干の悲鳴が漏れた。

「てめぇ‼ 死にてぇのか‼」

 少年の向けられた銃口と、口の端から血を流す少年は銃口と男をギラギラとした目で見ていた。正しいけれど正しくない。

 次いで男は銃口を女生徒の頭に押し付けてグリグリと擦った。

「ひっ‼ ひぃっ‼」

 女生徒の口から悲鳴のような、恐怖で喉が痙攣しているかのような音が出た。

「うわああああ‼」

 少年が駆けだし。

「この野郎‼」

 男は再び銃口を少年向ける。

 真正面から行かないでよ――思った時にはすでに切っていた。銃を突き出した男の腕がだらりと垂れ下がる。お姫で男の腕のヌースを斬り飛ばした。

「なんだ?」

 男の間抜けな銃声が響く――床を撃ち抜いていた。ヌースを失った腕は感覚を失う。何気なく動かす動作を認識できなくなる。ゴーストペインの逆の現象が起こる。

 男は少年に押し倒され馬乗り、何度も殴られていた。掴まっていた女生徒は転がり腹や頭を壁にぶつけて転がって来る。転がって来た頭を手で支え少し衝撃があり甲が痛い。転がって行くビニール袋、散乱するマーボ豆腐の材料。

 男と少年には体格に差がある。男は左手で少年の襟を掴み、左足で蹴り飛ばした。

「この野郎‼ 殺してやる‼ 殺してやる‼」

 銃を探して視線をさ迷わせる男。転がった銃を拾おうと伸ばした左手を闘気法で斬り飛ばす。

「なっなんだ……うごかねぇ。なんなんだ‼」

 右足のヌースを斬り飛ばす。左足のヌースを斬り飛ばす。男は立ち膝を付き、のけ反るように上を向いた。本当は首から下を斬り飛ばすだけでいい。でも犯罪者には苦しんでほしい。少なくともぼくは今時間を取られているしストレスを感じている。貴方がこんな事をしなければ、ぼくはストレスを感じずに済んだのに。ぼく一人だったのなら無関心だったかもしれないけれど、でもムギがいたらそうは言っていられない。ムギに何かあることはぼくにとって強いストレスだ。そう感じる。だから容赦しない。

「ひぃっひぃっ。なんなんだ‼ なんなんだよぉ‼」

「うぉおおおお‼」

 少年が駆けていき男の顔を蹴り飛ばした。エグイけど自業自得だ。殺されても文句言えないよ。隣の女性がカードを使って通報しているのが見えた。ため息が漏れる。ムギに向き直ると、ムギは服を掴んで目をぎゅっと瞑っていた。

「大丈夫だよ」

 頭を撫でる。

 頭を支えていた女の子を抱えて座席に横たえ乱れていたスカートを整える。黒髪ロングのストレート。いい匂い。上着を脱いでもらいスカートの上に覆いかぶせる。御デコと口に出血。

 この人――眉が太い。しかも書いてない。良い眉だ。

「大丈夫……かい?」

 中年の男性が女生徒を見て頬を引きつらせていた。

「何か拭く物はありませんか?」

「あっあぁ‼ あるっ。ちょっちょっと待ってくれ。これっこれっ」

 ポケットから取り出して来たのは少し湿ったハンカチだった。

「あっ‼ いやっ‼ 待ってくれ‼ 確かこっちに‼」

 次いで鞄からティッシュ箱を取り出してきた。ティッシュ箱丸ごと持ち歩いているんだ。

 ティッシュを受け取り傷口を拭う――銃口を押し付けられた時に出来た切り傷。次元ポケットから緊急傷薬を取り出して傷口に塗り、数秒待ち拭いとると綺麗に傷口は塞がっていた。口は歯で切れただけかな。これなら大丈夫だろう。

 転がっていた女の子のカバンを頭と座席の間に挟み、ムギの傍へ。

「何処も怪我してない? 大丈夫?」

 視認と触診。何処も怪我していないのに安堵する。

 一息入れて近くの窓を全開にする。

 カードに着信。経吉からチャット。とりあえず保留。

 通報しなくても天使は来る。来るけれど強力な介入はしない。公安が来るのに五分から十分かかる。早くて三分。街中での事件で天使が守ってくれないのは人側が天使の介入を拒んでいるから。天使にとっても死は自然なもの。天使の考えでは訪れる死がどんな理不尽なものであっても訪れたのなら自然なものという認識がある。らしいというのはテレビで言っていたのを見ただけだからだ。実際天使が何を考えているのかを本人達が教えてくれないし、でも実際に街中で死があるのかと言えばそんな事はなく、天使ポイントがあれば体が失われていても蘇生はできる。街中で理不尽な死はほとんど訪れない。

 死すら覆せる天使が人の生に介入するのをよしとしない人類至上主義側と、逆に天使がいれば死んでも復活できるし病気も治して貰えるので天使至上主義派も生まれている。

 この天秤のバランスがネックだとテレビで言っていた。中間の保守派もいる。

 天使は寿命までは克服してくれないし蘇生を拒否する時もある。天使ポイントがなければ蘇生をしてくれない。

 多くの人から天使ポイントを少しずつ集めて提供するというエンジェルバンクを作った人はいたけれど、天使は天使ポイントを分割して使う事を許していない。

 全員のため、全体のためという考えはぼくも好きじゃない。そう告げられる人は大体その全員と全体の中には含まれていないからだ。皮肉を言えばぼくとか。

 天使ポイントは一ヶ月に一度更新されてカードに表示される。プラスはあってもマイナスはない。点数方式は公開されていない。自分が何をして加点されたのかがわからない仕組みになっているとテレビで言っていた。天使もポイントに関しては善意によってとしか明言していない。生涯ゼロ点の人もいたとかいないとか。

 ムギは不思議そうに顔を傾けていて、何処も怪我をしていないのを再度確認。次の駅に到着する前に空いた窓から天使がガラスを一切割らずに乱入してきた。散乱した買い物袋と中身をかき集め身を潜めて目立たないように立ち振る舞う。

 次の駅に到着するとぼくはムギを抱えてすぐに駅を離れた。事情聴取とかほんと無理。

 戦う方法を得ても負けない自信があっても、社会に背いてぼくは生きていけない。できない事があまりにも多すぎるし、心の平穏には色々な意味で他者が必要だ。

 他の電車に乗ってしばらく――新居に着いて抱えるムギの重さと手に食い込むビニール袋の重さが鮮明になり疲れたと強く実感してしまった。

 入り口でカードをかざしロックをはずす。

 階段を下りる。街灯の明かり、家が見えていて、犬のシルエットがあった。

 五匹いるみたいだ。

 誰かが食事を提供していて見上げてこちらを見た。手を振って来る。ロザリタ。ちゃんと引っ越し先に来られたみたいで安堵した。

「おかえり」

 家の前まで来ると向こうからこっちへ駆けて来た。尻尾が揺れている。

「むぐ」

 ムギごと抱きしめられてびっくりした。

「待ってたわよ。いい家ねぇ。まさかこんな所に何時の間にか引っ越していたなんて全然気が付かなかったわ。気が付かないわけだわ」

 深呼吸のように気の抜けた息が長く漏れた。力が抜ける。そこで緊張していたことを知った。

「ただいま……」

 そう告げるとロザリタはぼくから離れ、少し離れて顔をまじまじと見た後、ニマニマと笑みを浮かべて顔を撫でまわしてきた。

「お疲れだねぇ」

「疲れたよ」

「ふふっ。荷物もってあげよっか」

「ご飯食べた? 遅くなったけどこれから作るよ」

「お風呂の準備だけはしてあるから、先にお風呂入りなよ」

「そうなの?」

「ついでに……おっぱい触る?」

「それ触るって答えたらどうするの?」

「触る人には聞かないわよ。触る? いいわよ?」

「……触らない」

「ふふふっ。残念」

 胸に触れるよりもその手で頬に触れてほしいと思ってしまった。手を握りたい。恋人握りがしたい。そう強く思ってしまった。

 家の中へ一度入り、荷物とムギを置いて外へ。犬一体一体に挨拶だけはしておく。

 ハウディ(ドーベルマン)、ラッツェル(エアデールテリア)、ヴェルニカ(ラブラドールレトリバー)、アンヴァーズ(ゴールデンレトリバー)、さくら(柴犬)。

 ごめんね。ぼくはぼくの都合だけでこの犬たちを束縛する。

 ごめんねと、それしか言えなくて申し訳なくなる。罪悪感から逃げようとしていると実感してどんな顔をすればいいのか混乱してしまった。

 ……さくら、一番年上だけれどプルプル震えている。頑固お爺ちゃんそう。これでも護衛犬だったらしい。


 シャワーは浴びたけれど、せっかく湯船を貯めてくれていたので湯船だけは頂くことに。ムギと一緒に湯船に浸かった。ムギが懐いてくれてよかった。ムギが大人しい子で良かった。ムギが密着してくる。少し離れて密着、少し離れて密着、頬を鎖骨に擦りつけたり、背中に手を回したりしてくる。子供の頃、母親に抱きしめられている幼馴染を見て、喉が渇くような羨ましさを感じた。マリアンヌさんに頭を撫でて貰った時は、抱きしめられたいと強く願ってしまった。思わず伸ばしてしまった手がマリアンヌさんの服を掴んでいて、申し訳なくて離れた。

 ムギも抱きしめられたいのかもしれない。

 ムギの背中に手を回して抱きしめる。ムギの肌が肌に擦れる。ムギの深く長い呼吸がくすぐったくて、ムギも力を入れて抱きしめてくれる。掴もうと開閉を繰り返す指の感触を背中に感じる。

「今日はいっぱい疲れたね」

 頭に何度もキスをする。偽りの兄妹ではあるけれど、ムギにも愛情を感じて欲しかった。

 あの時、ぼくが母にこうして愛して欲しかったように。マリアンヌさんにそうされたかった時のように。ぼく事態が愛情という物を理解しているのかは不明だけれど。

「ちょっと‼ 二人だけでお風呂入るわけ? あたしは?」

 その後リタがお風呂に乱入してきて三人でまったりと湯船に浸かった。


 夕食に麻婆茄子を作る。麻婆茄子と言ってもレシピはほとんど適当だ。

 油をそんなに使いたくないし――コンロをガスだと思っていたら電磁調理器だった。

 ダンボールから大きなフライパンを出して軽く水ですすぎ油を敷く。茄子を半分に切り皮に隠し包丁を入れて四等分、油で炒め表面をコーティング、鍋から取り出す。ショウガ、ニンニク、長ネギをみじん切り、茄子を炒めた油でそのままニンニクを炒め、ひき肉を加える。赤味噌、一味唐辛子の粉末、シイタケの粉末(少々)、ショウガ、甜面醤、豆板醤に鳥ガラスープの素を入れた水を加えて料理酒をサッと回しかける。胡椒少々に茄子を戻して長ネギのみじん切りと溶き片栗粉を加えたら出来上がり。

 味見したけれど悪くない。醤油を探して見つけ掴みタラリと回しがけ。

 茄子を齧り、アク抜きを忘れていた事に気づいた。塩を軽く断面にふるだけでいいのに忘れた。少し癖があるけれど、ムギは食べてくれるだろうか。

 電子レンジを取り出して市販、レトルトのお米を温める。

 キャベツを適当に切って同じく電子レンジで軽く温める。温めたらミネラルソルトを振ってゴマ油をたらり。洗ったトマトを皿にもって出来上がり。

 よそってムギに差し出す。

「小さい茄子なのね」

「大きいとムギが食べにくいと思って。水ナスと十全茄子」

「麻婆茄子というか不思議な味ね。茄子が茄子だわ」

「うっ……実は茄子のアク抜きを忘れたの。リタは辛いの平気?」

「……今日はリタなのね。いいけれど。平気よ。あー辛いのはって話しね。でもワサビは無理だわ。鼻がガビガビにしちゃうから。笑っちゃうでしょ?」

 茄子が小さいのでスプーンですくって食べられる。

 ムギはこちらを見ていて、食べていいよと食事を促す。許可を得ないと安心して食べられないのかもしれない。

 お米と茄子を交互に、そして一緒に食べはじめ、スプーンが止まることはなかったので安堵する。子供の味覚は鋭敏らしいからちょっとした癖で苦手になるとテレビで見た気がする。

「食べられる?」

 そう言いながら頭を撫でると、ムギはこちらを見ながらいっぱい食べてくれた。

 食事をしながらカードを開く。経吉からのチャットに返事をする。ティティはもう連絡をくれないかもしれないとなんとなくそう考えてしまった。

 明日暇ならフリーマーケットに行きましょうと書いてあり、ムギの服を揃えたかったので丁度いいと了承の旨を伝える。犬の餌も買わないといけない。

「なに? 彼女からのメール? あたしが目の前にいるのにいい度胸だね」

「後輩だよ」

「でも女の子なのでしょう?」

「そうだけど……」

「ふーん」

「なんて返事をしてもからかわれそう……」

「もっと嫉妬させなよ。あんためちゃくちゃになるから」

「すぐそう言う事言う」

「ひひひっ」

 美味しそうに料理を食べてくれる二人を見ていて、なんかいいなと笑みが漏れてしまう。一人だったから。二人を失ったら苦しくて嫌になるんだろうなと喪失の痛みの予測も味わう。二人が何時いなくなっても大丈夫なように覚悟だけはしておかなきゃいけない。

「このキャベツ……めちゃくちゃ美味しいわね」

「いっぱい食べてね」

「あむあむあむあむあむ」

 キャベツを夢中で食べるムギの頭を撫でる。

「いっぱいあるから、食べてね」

 正直言って温めたキャベツに塩とゴマ油をあえたものは最強に美味しい。ご飯が進む。スーパーで廃棄するキャベツの葉を貰って食べていたのが懐かしい。

 食べ終えたら片づけと寝る準備。

 何処で寝ようか迷ったけれど、地下のガラス前に敷布団を敷いて寝ることに。

 地下は真っ暗かと思ったけれどそんなことはなくて、水を透過して月明かりと街灯の明かりが部屋の中を薄く照らしていた。

 三人川の字になって真ん中にはムギ。

 リザと向かいあっていると、リザの口からショウガの匂いがして笑ってしまった。

「仕方ないでしょ。言っとくけど貴方の息だってショウガ臭いからね」

「わかってる」

 右手でムギを腕枕。ムギが身を寄せて来る。左手をリザが掴んで握っている。指の間に指を通されて、弱く握ったり強く握ったり。目を閉じて思ったよりも疲れていてあっと言う間に落ちて行った。


 夜中に目が覚める。ムギが身じろぎするのに気が付いて反応してしまった。相変わらずリザは起きていてカードを眺めたり、時折ぼくの頭を撫でたり。

 ムギが顔を歪めていて、どうしたのか不安になったけれど、どうやら成長痛で足が痛いらしい。起きてムギの足をさする。

「ここ? 痛い?」

 ムギは不安そうに痛みに顔をしかめていたけれど、撫でていると顔は穏やかになりはじめやがてまた目を閉じて深い呼吸が聞こえはじめる。

「今何時?」

 リザにそう聞くと、リザはカードを裏返し表を見せて来た。午前三時。

 リザの見ていたカードの画面にはニュースが流れていて、その文面に目を擦る。

 お手柄高校生――電車ジャック犯より女子中学生を守る。

 次いで――聖女が行方不明と書かれていた。

 リザの手をとってカードを引き寄せる。引き寄せて目を擦る。

 まさか……ね。

 まさか。まさかまさか――そこには数日前よりメインダンジョン紫谷(しこく)へ挑んだ一行が戻ったけれど、聖女だけが未帰還と書いてあった。

 マリアンヌさんの言葉が脳裏をよぎる。

 あの馬鹿、とうとう外泊しやがった。

 まさか、まさかまさかまさか――聖女行方不明の文言はぼくの心を簡単に焦らせた。

 立ち上がりながら自分のカードを取り、マリアンヌさんにコンタクトを取る。

 午前三時にコンタクトを取るのは非常識だと脳裏を過る。けれど――マリアンヌさんは通話に出なかった。おじさん(いみな父親)の通話コードを入力する。

 しばらく通話音の後、おじさんは通話に出た。

「あの、もしもし……」

「あぁ、寧々君か。悪い。今忙しくてな」

「すみません。どうしても、これだけ、そのっ聖女が行方不明って」

「その件か。心配をかけてすまない。これから捜索パーティを組むつもりだ。必ず連れ帰るから心配しないでほしい。追って連絡する」

 頭の中が真っ白になる感覚ってこういう時の事を言うのかな。

 なんてそんな馬鹿な事をぼんやりと考えてしまった。

 段々と心臓の鼓動が早くなってきて耳が痛い。

 的中してしまったそのまさかが心臓の鼓動を強め、半分が欠けるような痛みのない感覚に襲われる。喉が渇くような――飲み込んだ唾。

 小さい頃からずっと一緒だった。そのイミナと距離が出来てしまった時の渇き。その時の渇きがまた繰り返して襲ってくるかのように。あの、途方もない、喪失感。

「ごめんリザ。ぼく用事があるからムギをお願い」

「……聖女が行方不明ね。心配なの?」

「イミナは……ぼくにとっては恩人の娘さんで、それで、それでね、家族のように思っているんだ」

 ぼくだけかもしれないけれど。

 その言葉に涙がでそうになった。

「へぇ……聖女が幼馴染なんだ。大切なの?」

「大切というか……お世話になったから」

 リザがぼくの頬を突いてきて、見るとニマニマしていた。

「大切なんだ」

「……そう言うんじゃないけど」

「何? 大切じゃないわけ?」

「……そっそうは言ってないじゃん」

「ふーん……好きなの?」

「好きっていうか……」

「好きなんでしょ?」

「好きっていうか……」

 ニマニマしないでよ。

「……悪いし、本当に申し訳ないんだけど、ムギの事、少しお願いしてもいい? 五万ぐらいで足りる?」

「そうねぇ。食事作るなら材料費込みで四万円ぐらいかしらね。朝昼晩だしね。材料費一日五千円だとして三日で一万五千円。私の雇い料が一日八千円だとして二万四千円。合わせて三万九千円ぐらいかしらねぇ」

 あれ、リザに三日間ぐらいって言ったっけ。

 五万をリザに支払う。

「五万で本当に大丈夫?」

「差額でデートでもするから大丈夫よ」

 誰と――一瞬そう思ったけれど、それはリザのプライベートだ。喉元当たりが少し重くなって目を反らしてしまう。ぼくには関係ない。ぼくの問題じゃない。

「そっか」

「ふふふ。ムギちゃんと何処行こうかなぁ」

 リザがニマニマしながらぼくを見ていた。

「わ……イミナの事が大好きで愛しちゃってる寧々君」

「そっそういうんじゃない……。それに、イミナはぼくの事好きじゃない」

「ふーん。そう言う事言っちゃうんだね。ふーん」

 何が苦しいのか時々脳が正しく認識しない時がある。脳を正常にするために再起動する。何が問題で、何をしなければいけないのか。


 イミナと離れた時は心臓が裂けるように痛かった。

 それを痛くない痛くない、大丈夫大丈夫と、未だに言い聞かせている。

 好きとか、嫌いとかじゃないんだ。

 だってずっと一緒にいたんだもの。

 ぼくだけかもしれない。それでも、それでも、この気持ちが無くなったのならぼくは本当にダメになってしまう気がした。イミナを失う事は、ぼくから優しさを奪う行為だ。

 もうすでにダメなのかもしれない。


 部屋を出て準備を済ませコートを羽織る。お守りお姫と……厳重に梱包したダンボールから鞄を出して開ける。【CorosNe666】を取り出す。

 呪われた銃。リボルバー。

 念のために持ち出す。名前はぼくが付けた。殺すね。666は銃の側面に刻まれた数字だ。

 この銃はヌースを弾として打ち出すことのできる特殊な銃だ。

 制作年代不明、制作者不明。金属製。

 ラグに装飾があり、デリンジャーのようになっている。

 スイングアウト式でシリンダーの傍にあるスイッチを押す事でスライドを可能にし、弾を込めたら振る事で戻す。シリンダーが戻るとスイッチが戻り、カチリと音がする。

 シングルアクション。チャンバーは6つ。

 引き金を引いてもハンマーが起こされず、シリンダーが回転するのみとなり、ハンマーを起こし、引金を引く事で撃発される。

 重量666g。銃身長6インチ。

 明らかに6インチではないけれど測ると6インチになる。ちなみに1インチは約2.54㎝。約25.4㎜。

 六発目は必ず自分のコメカミに銃口が向く。

 六発目を激発したらぼくは死ぬ。

 この銃は良くない……。所持するだけでも良くない。手に良く馴染み愛でたくなる。依存したくなる。それが嫌。女性が己の全て捧げて奉仕してくるかのような錯覚がある。

 ケースの中に銃と銃型注射器、アンプルを納めてダンボールを梱包し直す。

 アンプルには銃型注射器に込めて使う薬剤が入っている。

 回復とか探索に使う物だ。特に名前は無い。色分けはしてある。青はトレース系、緑は回復系、赤は状態異常系。アンプルの数は青三本、緑四本、赤五本。

 ダンボールをガムテープで雁字搦めにし、疑似空間登録してコートのポケットにつなげる。

 繋げたら備え付けのロッカーに入れてカードでロック。二重の密閉を施す。

「それじゃ行ってくる。三日以内に戻るよ」

「いってらっしゃい。気をつけるのよ」

 リタは少し笑っていて、自分の唇に指を付けると、そっとその指をぼくの口に押し付けてきた。精一杯の激励なのかもしれない。

「……もう」

 そう言うとリタはニマニマ笑って。

「可愛い奴」

 とそう言った。可愛くない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る