第16話 母
「ところでなんでテメェがいるんだよ。ツネオ」
「ツネオ……。先輩がお姫を譲ってくれるまで引き下がらないためにいます。経吉です‼ ツネキチ‼」
「なんでもいいだろ」
「良くない‼ ツネキチ‼ もしくはツネ‼ 覚えてください‼ 次から返事しませんからね」
「ケイじゃダメなのかよ」
「ダメ」
「えぇ……」
「ムギを見ていてくれてありがとう。ツネキチ」
「いいですよ」
ムギは目を覚ましたのか、寝ぼけ眼で抱き着いてきたので腕の中に抱えて座る。頭を撫でて唇を頭に付ける。
「それで先輩。譲ってくださるんですよね?」
そう言われてもね。ぼくにはお姫が必要だし譲ったら殺されそうだし無理だよね。普通に考えて。でも無理だと言っても納得してくれなさそうだ。
「そう言われてもね……逆に聞くけどどうしてそんなにお姫が欲しいの? お姫じゃないとダメなの? 他で自分のお気に入りを探してみたら?」
「それ、助六シリーズですよね。隠しても私にはわかりますぅ」
「隠してないけど。隠してないけどね」
助六と言うのは所謂名無しという意味だ。作り手不明。そしてその不明な刀の中で特定の人物が作ったとされるものを助六シリーズとマニアが呼んでいる。
人の世界を破壊したとされる引き金、燈彼がこの助六シリーズを用いていたというのは知られているところ。だから曰くつきの品として助六シリーズは一部で深く知られている。
助六刀は包丁や小刀のような小物ばかりで刀のような大物がほとんど無い。刀身は硬くややソリがあり重く、鞘や柄に鮮やかな細工がされているものが多い。地味な刀身に比べて鞘や柄が艶やかなであるのは、鞘と柄をのちの持ち主が用意したためだと言われている。
つまり助六刀の刀身を作った人物と、鞘や柄を用意した人物は違うということ。
ぼくの持っている【お守りお姫】もその例に漏れない。
お姫を見ればわかるけれど、この助六シリーズを作った人、助六が農鍛冶だった事が伺える。農鍛冶と言うのは簡単に言ってしまえば武器じゃなくて、農機具などの生活が便利になるような道具を作っていた鍛冶師の事だ。
鞘や柄を見れば助六刀が姫に愛着を持って使われていたことが良くわかる。
「私より詳しい人はいないんじゃないですかねぇ」
「へぇーそうなんだね」
「いいですか? 助六は刀鍛冶や鉄砲衆とかとはほど遠い農鍛冶だったんですよ。だから彼が作った刀とかそういうのは存在しないんです。粗雑な鉄を使わなければいけなかったから原始的な方法で良質な鉄を作らなければいけなかったんです。でも彼は腕が良かった。何千何万回と叩いて不純物を飛ばした鋼鉄から包丁や小刀、クワやスキを作ったんです」
「農鍛冶だったのはなんとなくわかるよ」
「なんで包丁や小刀ばかりでお金になる刀や鉄砲を作らなかったと思います?」
「農鍛冶だったからでしょ?」
「違います。叩いて不純物を飛ばしたって言っても限度があるんです。その鉄で刀を作ってもナマクラしか作れなかった。助六刀はその成分よりこの形が一番いいんです。助六刀のすごいところはその成分でもっとも強度の高い形に作られていることなんです」
「あれだね。鉱石がなりたい形を鍛冶師に教える。みたいな」
「まさにそれです。助六は天性の才でそれを見抜いていたんです。だから現存し、いまだに現役なんですよ」
「そうなんだね」
「……先輩。なんで知らないんですか? お姫に恥ずかしくないんですか? じゃあ、なんで助六刀が妖刀なのかわかります?」
お姫に恥ずかしいってなんだ。
「最初から妖刀だったんじゃないの?」
「違いますよ。助六刀は悉(ことごと)く優れていたんです。そして持ち主が不幸になったものだけが妖刀となり現存しているんです」
いや、さっき助六刀自体が優れているから現存しているって言った気がする。呪われたから現存しているの。どっちなの。言おうとしたけど経吉が拗ねそうだからやめておいた。ティティがポカンとした顔をして、目が合うと渋い顔をする。
いくら小刀や包丁だと言っても何かを斬る事には変わりはない。
お姫が山を散策するさいに邪魔な枝や葉を避けるために作られたと言うのは良くわかる。実際そう使う場面が一番多いし、助六が人を斬るために小刀や包丁を作っていたわけじゃないのもお姫を見れば理解できる。生活が便利になるようにと製造されたのが使ってみてよくわかる。
お姫の柄に【我子我子斬者ドモ】と書いてある。
自分の作った武器が家族を殺してしまう事になったとしてもその覚悟を持って刀を打つという意味らしい。助六にとって自分の作った道具は我が子も同然。我が子が我が子を斬る者であったとしてもと言う意味らしい。自分の作った道具が人を殺せるものであることを理解しその道具が他人を、そして自分の家族を殺す可能性を覚悟して作った。
それは使い手が云々ではなく作る者としての覚悟とぼくは受け取っている。
「私、助六シリーズ一本も持ってないんです」
「そうなんだ。意外」
「だから下さい‼」
「意味がわかりません。ティティ変な顔しないで」
「変な顔なんかしてねぇよ‼」
「鼻ほじらないで」
「ほじってねぇ‼」
「持ち主がみんな気に入ってて譲ってくれないんです‼ 私もお姫を見て確信しました‼」
「いや、フリマで二万で買ったけど」
そう告げると経吉は膝から崩れ落ちてメソメソ泣き出してしまった。
「ひどい。あんまりにもひどい」
「お前最低だな」
なんでなの。
「でもまぁお姫は譲れないかな。多分他の持ち主もそうなんだと思うけれど、妖刀だから手放すと殺されちゃうんだよ」
「……そうなんですか?」
「君が持って帰った日、ぼく耳ちょっと斬られたからね」
「ますます欲しいです」
この子、大丈夫かな。
「話しはこれで終わり? ティティ、本当に必要な時だけ連絡してね。あと、ぼくに頼ってもあんまり役には立てないから。そうだ。他の人にもう一度ダンジョン探索の実演を受けてみてよ。ぼくより全然いいと思うから」
「あ? なんでお前より役に立つんだよ‼ なんでもう一回実演を受けないといけないんだよ‼」
ダメだこの子。ぼくの話を全然聞いていない。盗賊であるぼくより同じ性質の方やもっと優れた方に習った方が良いと言っているのに全然聞いていない。
なんやかんや言ってもぼくは独学だ。
当時ぼくの実演をしてくれる人はいなかったから全て自分で試して調整した。言っていて悲しくなってきた。涙でそう。
ぼくは天才ではないし盗賊だ。もっと良いやり方や伝統的なやり方なんかもあるはず。
「次着信拒否したら家行くからな」
なんで家に来るの。家に来たらなんなの。新手の嫌がらせなの。
「それはどうかと思うよ……。経、いつかまた気に入ったのが見つかるよ」
「慰めの言葉なんていらないですよぉ」
「わかった。もし次助六シリーズを見かけたら真っ先に教えるから」
「本当ですか?」
「嘘つく意味がないでしょ」
「絶対ですよ」
「それじゃぼくは機関に用があるから行くね。あっ念のためだけれど、首元にこの印がある人から実演を受けてね」
「なんでですかぁ?」
「君たち先生の話し、あんまり聞いてないでしょ? この印は絶印て言ってせっ……すぅ。欲を抑えられるの。君たちも絶印は押して貰った方がいいよ。機関で押して貰えるから」
「なんで欲を抑えるんだよ」
全部説明しないとダメなのかな。
「色々問題があったの。兎にも角にも押して貰って。そして絶印がある人から実演を受けてね。機関に言えば紹介して貰えるから。ぼくができるのはここまでだよ」
「なんでだよ‼ 欲ってなんだよはっきり言えよ‼」
しつこいな。ティティが服を掴んでくる。
「せっ性欲を抑える印なのっ」
「せっ‼ せっ‼ なっ‼」
ティティの口がモニョモニョ震えて耳が赤くなっていく。やっと服を離してくれたのでその場を後にして再びカウンターへ向かう。ムギを預かってもらわなければならないことを考えて予め慣れてもらうために少しだけ預かってもらうことにした。
新しい住居の相談もしなければいけない。
「ムギ、これから少しだけ離れるけれど心配しないでね」
そう告げながら頭を撫でる。ムギは若干不安そうにしながらもファニエルさんの手を掴んだ。
「ではお預かりしますね」
唐突だった。
離れた所で肩を掴まれ視線を向けた先にぼくは絶句した。
「たわけぇ……。貴様、一週間に一回は顔を出せと言ったよな? たわけぇ……。今何月何日だ? なぁたわけぇ? おかしいなぁ? 前回から二カ月も経っているよな? なぁ? たわけぇえ。そうだよなぁ⁉」
幼馴染(いみな)の母親がぼくを掴んで睨んでいた。
ふわふわとした黒のロング。すらりとした体系。おへそを出した少しパンクな衣装。マリアンヌおばさんは年齢を感じさせない。
肌は雪のように白くて瞳が黒いから黒と白のコントラストが良く栄える。お腹にある妊娠線がキラキラして綺麗で気に入っているんだって。
「美味しいか?」
マリアンヌおばさんに会うと少し困る。幼い頃は嬉しかったけれど大人になるにつれて申し訳なさが勝って来た。機関内の食堂でラザニアをご馳走になっている。ムギにもご馳走したいけれど、これ以上おばさんに迷惑をかけるわけにはいかないのでムギの事は言わない。伸びて来た手が頬を撫でてくれた。
「ちゃんと食べているのか? 少し痩せたんじゃないか」
「ちゃんと食べています。トマトを多めにしています」
「そうか? ふふふっ。学業は頑張っているのか?」
「できる限りは……ですけど」
「そうか」
「ちゃんと布団をかけて寝るのだぞ」
「はい……」
「いい子だ」
頭を撫でられる。傷だらけの手だ。マリアンヌおばさんは若い時、ディアブロマリアと呼ばれて恐れられていたらしい。探索者はもう引退したけれど、おじさん、イミナのお父さんは現役の軍人だ。民間のだけど。医療軍人。
「相変わらずだねぇお前は……二カ月も顔を出さなかったけど」
「……すみません。勉強と探索が重なってしまって」
「ふーん……勉強に探索ねぇ。それもいいけれど、無理をしてはダメだぞ」
根に持っていらっしゃる。マリアンヌおばさんには一週間に一度顔を出すように言われている。だけれど、できればぼくはこのまま距離を置きたい。お世話になっていて心苦しいけれど、それが一番いいと思うから。
頭を撫でられて困る。瞳が嬉しそうで困る。頬に触れられて困る。言葉がいらないのが困る。甘えたい衝動に駆られて困る。抱き着きたい衝動に駆られて困る。頭をよしよしされたくて困る。
マリアンヌおか……おばさんに出会ったのは三歳ぐらい時だ。出会いに関しては物心もそぞろであまり良く覚えていない。ただそれ以降、多大なお世話になってしまって、ぼくはそれを理解していなくて、理解した時には返せないほどの恩になってしまっていた。
「ごめんなさい。お……おばさん」
マリアンヌお母さんと呼べればどれほど幸せだろうか。こみあげて来たもので食べ物が喉を通らず口元を抑えてしまう。
「すみません。ちょっとお手洗いです」
「あぁ」
トイレに駆け込んでしまった。
どうしてあの人がぼくの母親ではないのだろうか。
どうしてマリアンヌさんがぼくの母親じゃないのだろうか。
どう足掻いてもマリアンヌさんは母親ではなくて、どう頑張っても血は繋がっていなくて。どう足掻いても血は繋がってはいなくて。血が繋がっていなくて。どう足掻いても赤の他人で、それを考えるたびに思い知り苦しくなる。
愛されたいと喉から手が出てきそうになる。お母さん愛しているって言って。生まれて来てありがとうって言って。貴方がいて幸せだっていって。望まれて生まれて来たって言って。ハッピーバースディって言って。
そんなぐちゃぐちゃしたものがないまぜになって苦しくて苦しい。
もう十分なものを貰ったでしょう。これ以上望まないでと自分に言い聞かせる。
子供じゃないんだからと自分に言い聞かせる。
イミナからこれ以上愛情を奪わないで。奪うわけにはいかないと自分に言い聞かせる。
戻らないと――個室のドアを出る時、ふと扉の上に数字と名前が書いてあった。
×××-××××-××××。
ア〇ルみどり♡。
落ち込んだ気分のせいもあってか、普段は気にも止めないような落書きに嫌悪感がましてしまった。ここは公共のトイレ。こんな落書きしないで。トイレの個室は安全で無意識が許されるべきだと、その落書きが心底気持ち悪いものに見えてしまった。
ただの悪戯でしょう。
気持ちを切り替える。
距離を置くためにも、呼び名はマリアンヌさんでもお母さんでもなく、おばさんと呼ばなければいけない。おばさんと呼ぶのは抵抗があるけれど、ここは譲れない。
戻ってラザニアを食べつつ、おばさんに良くして貰った。
「一週間に一度必ず顔を見せるように。いいな?」
「善処します……」
「しっ――はぁ……まぁいい。ところでイミナの馬鹿を見なかったか?」
「どうかしたんですか?」
「あの馬鹿、とうとう外泊しやがった」
「そうなのですか」
それで機関に来たんだ。
ラザニアを食べ終えるまで、しばらくマリアンヌさんと他愛のない会話をした。
「悪かったね」
抱きしめられて悲鳴をあげそうになってしまった。もっとぎゅって抱きしめてって腕に力が入りそうになり抗った。お母さん。お母さん。お母さん。違うって。
これ以上距離を感じたくない。苦しくて仕方がない。望んでも手に入らない。またねと頭にキスされて、別れてから誰にも見られないよう隅っこで少し泣いてしまった。泣きたくなんてないのにどうしてこんなに涙が出てくるのかわからず、袖で拭って治まるのを待った。
どうしてあの人がぼくの母親ではないのだろう。
ただそれだけのことに打ちのめされた。
幾度も同じ感想を持ち、幾度も打ちのめされる。いい加減にして。もういいじゃない。何度そう言い聞かせても虚しさは消えなかった。
何時もぼくを気遣って程よい距離をとってくれる。心配しすぎたり、だからと言って突き放したりもしない。ぼくが一人で歩いていける距離を後ろからそっと見守ってくれる。距離を取りたいとぼくが態度に出せば、今日のように距離をつめてくれる。
こんなぼくを抱きしめてくれる。体をロストした時は変わりに天使ポイントを支払ってもくれた。ぼくの生活に基準を設けてくれたのはマリアンヌさんだ。料理も掃除の仕方も、抱きしめられる温かさも撫でられる嬉しさも、与えてくれたのはマリアンヌさんだ。
嬉しいのか悲しいのかよくわからない感情の波に襲われて感謝しているんだか辛いんだかよくわからずに涙だけが浮かぶ。
ぼくが今、こうして歩いていけるのはこの人達のおかげだ。
感謝しかないというのも事実で、この御恩は何時か、何時か必ずお返ししますと何時も頭を下げる。でもぼくに一体何が返せるだろう。
イミナの外泊を考えると心臓が少し痛い。
外泊ならまだいい。何か事件や事故に巻き込まれてないといいけれど。
ムギを迎えにいく。連れてこられたムギは下を向いていた。立ち膝になって目線を合わせる。ファニエルさんと手を繋いでいるムギは、右手で自分の服を握ってこちらを見ようとはしなかった。
「ごめんねムギ」
頭を撫でると少しこちらを見る。ゆっくりと手を伸ばしてきて、ぼくの反応を見ているのか手がぼくを掴んで、ファニエルさんと手を離すと抱き着いてきた。新しい服を何着か買わないといけない。
「不安にさせちゃったね。ごめんごめん」
頭を撫でながら何度も頭に唇をつける。腕の中に抱きしめて背中を撫でる。額に何度も唇をつけ音をわざとたて繰り返す。貴方が大事ですよ。貴方が大切ですよって態度で示す。
貴方を愛していますよ。ぼくがマリアンヌさんにしてもらった事をムギへ繰り返す。そしてぼくがマリアンヌさんに感じていることをムギが感じないように気を付けようと考える。
自分に言い聞かせているみたいで嫌だな。
ファニエルさんを待たせている。ほどほどに顔を上げる。
「それで、お時間を取らせてしまって申し訳ないのですが、機関にお願いがありまして」
そう告げるとファニエルさんはにっこりと笑みを浮かべた。
「わかりました。こちらへどうぞ。伺います」
通されたカウンターで天使にお願いをする。
「実は新しい新居を探しておりまして……」
新しい新居ってなんだ。緊張しているかもしれない。
「そうなのですね」
「あの、現在借りている借家が機関に紹介されたものですので、できれば新居を紹介してほしいですが」
「そうですね。現在の新居は一人暮らしで申請されています。わかりました。二人暮らしできる部屋を見積もります」
「それで、その、足りるかどうかわからないのですが、天使ポイントでお願いしたいです。それとできれば犬を五、六頭飼えるぐらいの広さが欲しいです」
「犬を五、六頭ですか。それでは結構な広さが必要ですね。天使ポイント換算でも二百から三百ほど消費することになりますがよろしいですか?」
「はい。かまいません」
前は天使ポイントを貯めていた。千ポイントになれば性質を変えられる可能性があったからだ。でももういい。それに盗賊という性質を捨てる事を自分を捨てることのように感じる。
「そうですね。これなどいかがでしょうか」
中空に表示されたのは一軒家だった。
「水力発電所の近くに建てられた一軒家です。主要な施設から少々距離がありますが、その分お安くなっています。また電力に関して多少融通がありますし、広さも十分にあります。庭はそれほどではありませんが、内周がそれなりの広さを持っています。散歩コースとして利用できるでしょう。近くには公園もあります」
内周ってどういう意味なのか映像を見ていたらその理由がわかった。円形コンクリートの中にある一軒家だ。円形コンクリート建造物の中に水が流れ、その水を利用した水力発電所と建物が隣接している。流れた水が溜まって全体が池のように、その池の上に足場を作って家と発電所がある。家というより発電所を管理する人が寝泊まりするように作られたものだと感じる。
内周というのは円形コンクリートの内側にある通路の事だ。階段とエレベーターがある。
街からは少し遠い。
「これって……発電所の方が利用するものでは?」
「実はそうなのですが、現在は寝泊まりする必要がありませんので貸し出しています。売り出してはありませんが、この家でしたら十年間を天使ポイント換算百五十程度で借り入れられます」
「見学はできますか?」
「大丈夫ですよ。これから向かいますか?」
「これから大丈夫なんですか?」
「もちろんです」
「あっあと、もう一つお願いありまして」
「なんでしょう」
「退役した軍用犬を五、六頭譲ってほしいです。天使ポイントで……」
「変わったお願いですね。わかりました。現在退役犬は……三十六頭おりますね。資料をお渡ししますので選んでください。一頭に付き五ポイント頂きます」
「あっありがとうございます」
「念のため申し上げておきますが、動物を虐待する行為は犯罪にあたります。十分注意してください」
「はい。肝に銘じます」
通勤に時間がかかったり街が遠かったりするのには足が重くなるけれど、なまけ癖を正すにはちょうどいい。ファニエルさんと連れ立って街の外へ。外はもう夕日色だった。
ムギを席にファニエルさんと二人で立って夕日色を眺めていた。周りの人達が天使を見て少し緊張している。警察と一緒にいるのと同じ感覚なのかな。
発電所に到着すると壁から直通で中へ入れるようだった。一番上から降りると思っていたものだから、少し困惑する。エレベーターはダムの構造点検用らしい。電車は発電所の前までちゃんと通っていた。これなら大丈夫そう。
トンネルの入り口に門があり車の通れる大きな扉と人の通る小さな扉がある。ロック式でカードをかざせば開くようだ。警備員も常駐している。発電所だからかな。
トンネルを通り内部へ――抜けた先は内周の通路だった。内側の手すりに近寄ると池が見える。池、湖、ダム湖、どれだろう。青くて波があり底が見えない。人工の河川。流れる音が響いていた。それでも滝ほど大音量と言うわけじゃない。
電車を降り扉のロックをはずしトンネルを通って階段を下り、物件に到着するまでの時間は約五分。階段は滑らかに建設してあるけれどムギには少し幅が高そうだった。
発電所は可動しており、しかし無骨なフェンスによって中へ入ることはできないようだ。
ファニエルさんに案内され建物の中へ入った。
ちょっと洒落た一軒家だ。
足場はコンクリートだけれど建物自体は木造で二階建て、地下もあるらしい。玄関を入って広間があり太い柱が何本か見える。
広間左側に男女別トイレと地下と二階への階段。奥に通路。
右側にも長い通路があり、通路の前に立ち左側に等間隔で個室が四つ。中は仮眠室で六畳ほどの部屋に二段ベッドが二つずつ配置されていた。本当に寝るだけの部屋みたいだ。
廊下の右側にはスペースが二つ。座るところがあり窓から外が見える。
通路を一番奥まで行くと台所。台所と居間が少し離れている。台所にはスペースがありテーブルが備え付けられていた。居間は食べるところじゃなくて寛ぐスペースのよう。
驚いたのが防音機能。建物内に入るとほぼ無音。
地下にはお風呂場と脱衣所、八畳ぐらいの部屋が一つあり、お風呂場は浴槽の壁が一面だけガラス張りで池の内部が覗ける。シャワースペースが四つに浴槽も広く、光が池の水を通ってゆらゆらと揺れて不思議な感覚だった。
脱衣所には最新の洗濯機があり、洗いから乾燥、さらには自動畳み機能まで完備されている。洗濯に出してスイッチを押すだけで全てこなしてくれるらしい。
もう一つの部屋、八畳の部屋も一面がガラス張りで床には柔らかいマット。歩くと沈み込み休憩室とのこと。
二階には六畳の部屋が二つ。一部屋は全面タイル張りで水質調査に使われていたとの事。もう一つの部屋もフローリングと言うよりは実験室のような内観をしていた。
「普通に住めるお家ではなさそうですね」
「そうですね。普通に住める家ではありませんね。昔はそれなりに使用されていたのですが、発電所がサテライト化しましたので係員が減りました。取り壊すにも費用がかかりますし、年間の維持費も馬鹿になりません。それならば貸し出してみてはどうかという話を私がさきほど通しました」
さきほど通したんだ。
「もともと放置されておりましたから、掃除や設備の点検は必要かもしれません。寧々さんのご期待に添える物件はここだけだと思います」
「結構お値段張りそうですが……」
「売り出すわけではありませんし、あくまでも借家です。十年間は天使ポイント百五十ポイント分で賄われます。それ以降住むには別途料金が必要になりますのでご了承ください。なお電気代、水道代は無料になっております。下水処理も発電所が併設して行いますので月二百八十円とお安くなっております。また冷却に使用したお湯を無償で提供しております。熱いお湯をいつでも使用できますし、床暖房にも使用できます」
「すごい……ぼくなんかが借りても大丈夫なのでしょうか?」
「街から少し離れておりますし、水の音が全くないと言うわけではありません。発電所の駆動音が時折聞こえる場合もございますし、何より発電所に何かあった場合、被害に会う可能性がございます。ですので借りる人が厳選されるのも事実です」
「そうなのですね。では……ここ、お借りできますか?」
「承りました。では天使ポイント百五十ポイントを使用します。こちらの書類にサインを」
ぼくにはもったいない物件だ。天使ポイントでなければ話にすら出ないと思う。十年後継続して住むのに必要な料金が少し怖いけれど、その時は多分転居しても大丈夫だ。
何より地下の寛ぎスペースが良かった。仮眠室も四部屋あるのはいい。
何より天使は詐欺行為をしない。これが一番安全で信頼できる。
部屋が広すぎて困ることはない。他者が侵入した時隠れる場所が多いからだ。最後に家の地下から通れる避難経路を教えて貰った。暗い道を進むと百メートルほどで近くの橋の下に出られた。
「引っ越し業者はすでにお決まりでしょうか?」
「すみませんまだ……」
「では手配しておきます。明日引っ越しでよろしいですか? 料金はのちほど請求させて頂きます」
「はい。わかりました。ありがとうございます」
「時間は何時ごろがよろしいですか? 午前中は授業がありますよね。ではその間に済ませますので朝に元の住まいの鍵を機関へご返却ください」
「はい。わかりました」
「ではこちらへサインを」
「はい。これで大丈夫ですか?」
「はい大丈夫です。ところで……手の治療はなさらなくてよろしいのですか?」
今更ながら怪我をした手を見る。処置はして貰った。痛みはあるけれど、その程度だ。肉体をロストしていないのなら問題ない。
「大丈夫です。もしひどくなるようでしたら、お願いしますので」
「わかりました」
「ファニエルさん、本日は本当にありがとうございました」
「いいえ、貴方がまた機関にいらっしゃるのを首を長くしてお待ちしておりますね」
いらっしゃるなんて尊敬語、初めて聞いたかも。ぼくは機関の人達が好きだ。全員と言うわけではないけれど、天使は基本人を上にも下にも見ない。こんなぼくにも丁寧な言葉使いをしてくれる。相手が自分に敬意を払ってくれるのなら、ぼくも敬意を返したい。
お返しに深々とお辞儀をしてファニエルさんと別れた。
その日はそれで終わり。帰りは二十一時を過ぎていた。帰りに飲食店に寄る。ぼくだけラザニアを食べてしまった。天使に預けている間に食事は済ませていたようだけれど、好きな物を頼んでいいよと告げると、ムギは何度も仕草でぼくに確認し、遠慮がちにチョコアイスを頼んだ。
「それでいいの?」
そう告げるとムギは歯がゆそうにコクリと頷く。良いのか悪いのかを一つ一つ確かめて、石橋を渡るような仕草だった。
アイスを食べるムギを眺め手を伸ばす。ムギの持つスプーンが震え、手を向けられたら暴力を振るわれると思っているのを改めて実感する。
食事よりアイスを頼んだのは甘い物と食事を天秤にかけて、普段食べられない方を選んだからだろう。
ストレスを与えてしまうけれど、時間が解決してくれるはず。伸ばした手でムギの頭を撫でたり、頬を撫でたりして過ごした。大丈夫。叩いたり殴ったりしないよ。大丈夫大丈夫。
食べ終えたら帰る。良い時間だよね。眠いけれど頑張って歩こうとするムギを背負い帰路についた。
リザいるかな。いてほしいと思っている自分がいる。単純に心配している自分がいる。なんで心配しているの。目の届く所にいてほしいと思っていて嫌になる。
部屋の明かりが点いていて、リザがいることに安堵する。
「おかえり」
「ご飯食べた?」
「貴方のお金でいいもの食べたわ」
「ご飯がなかったら作るし、ちゃんと食べてね」
そう言うとリザは目を丸くした。
「ふふふっどうしたの? おっぱい触る?」
思考が停止した。
今、なんて言ったのだろう。
「今なんて言ったの?」
「おっぱい触る?」
おっぱい触るってなんだ。
「……触らない」
「触らないんだ。ひひひっ。触っていいのに」
おっぱいって単語があんまりに恥ずかしくて唇が震えて直視できずに顔を反らしてしまった。多分変な顔をしている。部屋に入り、落ち着かせるために深呼吸する。
あんまり思い入れはないけれど、この部屋ともお別れだ。そう思うと少し名残惜しい気もした。マリアンヌさんと離れて、それからずっとこの部屋で暮らしていた。なるべく汚さないように自分が何時死んでも大丈夫なように荷物は少なめ、持っていくものがあるとしたら自分を慰めるために買っていたぬいぐるみと、ちょっとばかしグレーゾーンに片足を突っ込んだ襖(ふすま)の中身ぐらいだ。
「起きて、ムギ、お風呂入ろうね」
お風呂に入り湯上りに歯を磨かせる。水流を利用する機械を口に含ませ歯茎の溝までしっかり掃除。トイレに行かせたらロフトでおやすみ。
一人で寝て貰おうかと思ったのだけれど、ムギが寝間着の裾を掴んで離さず、一緒に横になって眠るのを待った。
なかなか眠ってくれなくて困った。
「よしよ~し……よしよし。大丈夫大丈夫」
じっとこちらを見て体を擦りつけて来る。頬にキスをしたり頭を撫でたり、表情が緩んできて手を掴むと頬に寄せて、ムギの唇の小さな感触と唇で手の平を噛まれる。
柔らかい唇に手の表面が引っ張られる感覚。引き寄せてムギの頭に何度も唇をつける。
眠いのに眠れないのかな。
とっておきだ。
起き上がるとムギは不安な様子で服を掴んできた。そう見えるだけなのかもしれない。
座り直して正座。正座では少し高いかもしれない。とんび座りをしてムギの頭を乗せる。頭を撫で、両手の平で両耳を柔らかく塞ぐ。緩急をつけて柔らかく耳を塞ぐ。
リザも頭を乗せて来た。
「リザ?」
「なに?」
別にいいけど。
ムギに向き直る。
「いい子いい子」
右手で頬を撫でつつ、左手で耳を塞ぐ。左手で頬を撫でつつ右手で耳を塞ぐ。
繰り返しているうちにムギの鼻が小さく鳴り、くたりと眠りに落ちてくれた。体力も消耗しているだろうし、色々な情報を見たから脳も限界だったはず。気絶するみたいに眠ってしまったので少し心配になったけれど、口に手を当てると息をちゃんとしていた。
「あたしにもしなよ」
リザの頭を撫でる。気を許してくれている感じがする。何かあっても対処できるだけの強さを持っているから余裕があるのかもしれない。実際獣人の中には男性より女性の方が強い種族が複数いる。
ムギとリザの頭をモモから降ろし枕へ。ロフトから降りる。明日のための荷物整理をしなければいけない。
「あら寝ないの?」
リザがロフトから顔を覗かせて来た。
「そういえば、言わないといけないんだけど、引っ越すことにしたから」
「そうなの?」
リザの顔が少し不安気になるのを見逃さなかった。
「新しい家には部屋がいくつかあるから、良かったらリザも一緒に住まない?」
「ふーん……あたしに来てほしいんだ」
「毎日買うって約束でしょ?」
「ひひひっ」
ロフトから降りてくるリザ。尾が揺れている。傍に来ると頬を突いて来た。
なぜ頬を突くし。
リザは笑みを浮かべてぼくの頬を突いた。リザ、今日は機嫌が良さそう。ニコニコしている。
「下腹におちんちんグリグリしたいもんね。乙女のあたしの下腹におちんちんグリグリしたいもんね」
その台詞を聞いた途端、頭の中が真っ白になった。おちんちんグリグリってなんだ。
「……何、言っているの?」
顔が、赤くなっていくのを感じる。おちんちんグリグリってなんだ。
「乙女の下腹におちんちんグリグリしたいもんね?」
下腹におちんちんグリグリってなんだ。どういう行為なの。顔が、赤くなっていくのを感じる。イミナが頭に浮かんで嫌になる。外泊……。
「……ほんとに、何、言っているの? 怒るよ?」
「グリグリしたいくせに」
ぼくの顔は真っ赤になっていると推測される。
「おこっ……くっ。うー……」
ダメだ。大声出したらムギが起きちゃう。
「……可愛い奴」
落ち着いて。
「からかってるの?」
「でも好きでしょ? 下腹にグリグリ押し付けるの。あんたのニオイをべったりつけてよ」
「……うーッ」
ぼくはなぜだか牙を剥きだしてリザを威嚇していた。なぜ威嚇するのか自分でも理解できなかったけれど、なぜだか牙を剥きだしてリザを威嚇していた。エッチなのはよくない。エッチなのは良くないです。ぼくだってエッチですが、エッチなのはダメです。
その様子を見て、リザは心底面白いって顔をしてお腹を抱えて声も出さずに笑っていた。
からかわれたと気付いてため息をこぼす。
「……もう添い寝屋はやめて。何時か絶対ひどい目に会うから」
顔を背けながらそう伝えると、リザの手が伸びきて頬に触れた。力を入れて自分の方へ視線が向くように顔を誘導してくる。目が合うとリザは肉食獣の顔をしていた。
「ふーん……まぁでも、ひどい目に会わせるのは君だと思うけどねー」
「……なんで?」
「これから私を買うのは君だけだからね」
「あー……まぁ、そういう意味では確率が一番高いのはぼくかもね」
「そうだよねぇ。そうだよねぇえ?」
頬を突くのはやめてほしい。
「ほらっ。約束でしょ? ぎゅってしなよ。ぎゅって抱きしめなよ」
手を広げるリザ――誘導されるように傍により、手を背中へそっと回す。柔らかい体毛に体が沈みこむ感覚。内側にある硬くて上質な筋肉の感覚。その筋肉に体が密着し、お互いの体がお互いの体の干渉を受けて沈みこみ反発する感覚。体温。温もり。鼓動。脳みそが揺さぶられる感覚。感情が麻痺させられる感覚。彼女が女性であることを体が強く認識している感覚。もっと強く抱きしめられたい。抱きしめたいと衝動的になる感覚。それらを理性で押し込め制御する己。異性に触れていると言うだけで、こんなに気持ちいいのは何なの。
背の高いリザ。それらを押し込めて自分を大切にしてねと抱きしめる。
押し付けられた下腹と下腹。密着してお互いがお互いを支え合うような体勢。
理性と本能の狭間でダンスを踊るみたいに。
「……いいわねぇ。こう言うの」
しばらくそうした後、離れるとリザはニンマリしていた。
カードを出して一万五千円を表示する。
「ムギにもぎゅっとしてあげて」
そう告げるとリザが耳元に顔を寄せて来て。
「あんたのそう言うところ好きよ」
と言われて動揺した。
「もう……」
「ひひひっ」
リザがロフトへ上がっていくのを確認。ため息をつき、コートのポケットに手を入れ、さすがに機関に見られたらまずいものを取り出してダンボールに積める作業を繰り返す。
リザが来る前の全財産はカード残高で160万程度だった。だいぶ減ったかもしれない。
天使ポイントも今回で大幅に消費してしまった。
394ポイントから97ポイント引いて今日は150ポイントに加えて犬代30ポイント。
残り117ポイント。
貯めるのに時間はかかっても消費するのは一瞬だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます