第15話 義妹③

 夢を見た。

 当てられた指が口をなぞるのがあまりに気持ち良かったから。

 でも見た夢は、そんな指の感触とはかけ離れたものだった。

 虫がいた。芋虫のような白い虫に黒い虫が取り付いていた。寄生なのか捕食なのか、ぼくはそれを見て何もしなかった。これは自然で夢の話だ。

 自然界では弱い者から捕食され殺される。

 だから白い虫が殺されてしまうのも寄生されてしまうのも自然な事で、それに手を伸ばそうと考えるのは間違えだと感じた。

 黒い虫だって生きている。生きるためには白い虫を殺さなければいけない。そこに善悪はないのかもしれない。

 実際はただの脱皮で、白い幼虫から黒い幼虫が姿を現しただけだったのかもしれない。

 そうであって欲しいと願う。

 浅い眠りを繰り返しムギが傍で寝ていることを確認する。

 リザの息が口にかかっている。瞳はぼくを捕らえていた。お互いの息を行き来させるような距離にいる。口を付き出せば触れてしまいそうな距離に唇が尖りそうになり噤む。その様子を見てリザは悪魔のような笑みを浮かべた。

「あっ‼ あーっ‼ あぁあ‼」

 突如ムギが奇声を上げて目を覚ました。手をさ迷わせ、今にも崩れ落ちそうな視線で過呼吸を繰り返す。

 ぼくを見て掴み強く掴んで暴れ回り離さなかった。過呼吸と大きな瞳でぼくを見ていた。

「大丈夫大丈夫。ムギ。寧々だよ。大丈夫大丈夫」

 リザの手を放して起き上がり、ムギを引き寄せ頬に頬を擦り合わせる。

「大丈夫大丈夫」

 弱い握力で爪を立てて来る。

「ムギ。大丈夫だよ。大丈夫大丈夫。いい子いい子」

 緩急をつけて服を握り、段々と過呼吸が治まってゆく。

 怖い夢でも見たのだろうか。

 フラッシュバックを引き起こしたのかもしれない。

 ぼくだってたまにある。そういう時は起きた後、心の底からそれが現実でなくて良かったと思う。

 一度離れて顔を見る。ムギの口から涎が垂れて崩した顔は泣きそうなのに涙はなくてひどく不自然で、体に不調があるのではないかと不安になる。放心したような瞳は宙を見て、しかし瞳の中に宙はおそらくない。

 気が付いたように視線が合い顔は崩れ埋もれてくる。

 嫌だ嫌だと言わないばかりに強く強く求めてくる。服を引っ張られる感覚、必要とされる感覚。沸き上がるそれらを払い退ける。ナイチンゲール症候群なんて嫌いだ。ミュンヒハウゼン症候群なんてもっと嫌いだ。

 天使に検査して貰ったばかりだから体の具合が悪いと言う事は無いと認識する。薬も与えられているだろうし天使が問題ないと言えば問題ない。とは言い切れないかもしれない。けれど少なくとも天使は嘘をつかない。

 ムギは何も言わず、ただ服を強く掴んで埋もれてきた。指の感覚、服の擦れる音、体温、高い体温、他人がいる。獣っぽいと思ってしまった。

 頭を撫でる。少なくとも嫌われてはいないはず。

「大丈夫大丈夫」

 涎を拭いて、抱きしめて頬を擦り合わせる。

 呼吸が落ち着いてきて、ムギは気を失うように目を閉じた。夜泣きってこんな感じなのだろうか。カードを見て時刻を表示。午前四時。

「しっかりお兄ちゃんだね」

「ちゃんとできてたらいいけど……」

「心配なら明日機関で見て貰えばいいじゃない」

「そうするよ」

 抱きかかえたムギを眺める。良く眠っている。眠っている間だけが幸せなのかもしれない。

 カードに表示。ティティから着信が来ていた。羅列が長い。着信履歴の羅列が長い。暇なのかな。あと経吉から何処にいるのとか会いたいとかチャットが来ていた。こっちも長い。何処って台詞だけで連打されている。ファルからどうすれば強くなれますかとチャットも来ていた。

 レベルを上げようと返す。性質のレベルを上げればおのずと強くなれるよと返す。遠隔攻撃系は怪我をするリスクを減らせるのでレベルを上げやすい。索敵から敵を撃破。まずは索敵を鍛えてと送る。黒魔術師の先達が運営する動画チャンネルのコードを付けて送信する。

 ティティへ着信連打をやめるようにチャットを流す。

 即既読で即着信履歴が付く。だから通話できないって言っているのにもう。通話には出られないと返す。今日の朝八時機関にて待つとチャットが来た。いや学校だから無理と返す。君も学校でしょう。次に十二時ときた。だから学校だってば。十四時とチャットで返し渋々了承する。

 経吉に今日十四時に機関に寄る旨を伝える。了解了解と返事が来た。

「人気ものなんだ」

「違う。後輩なの。昨日試験があってC級に上がった時の」

「あー……同行教官試験ね」

「ごめん。これ、言わなかったけど、ぼく性質が盗賊なんだ。だから本当に今まで人付き合いがなかったの」

「ふーん。じゃあ、私が初めなんだ」

「他人だと……リザが初めてかもね」

「……可愛い奴。ほらっあたしって獣人だからそういう人間の性質? みたいなことはわからないのよ」

「そうなの?」

「そうなのよ」

「バーサーカーって言ったのに?」

「ひひひっ。獣人なんてみんなバーサーカーみたいなもんじゃない」

「自分でそれを言うの?」

 手が伸びて来て頬を撫でられる。

「気を付けろよ? 他の女のニオイなんて纏わせたら即ヤツザキだよ」

「すぐそう言う事言う」

 二人共。経吉とティティ。もしかしたらチャットで起こしちゃったのかもしれない。今度から時間には気を付けないとダメかもしれない。起こしちゃっていたらごめんねとチャットを返す。二人とも既読はついたけれど返事はなかった。ファルは既読が付かないからちゃんと寝ているかな。

 良く考えなくても午前学校があるし、午後はダンジョンに入ってお金を稼がないといけない。その間のムギをどうするのか先を考えていなかった。

 以前学校をさぼって機関へ行ったらファニエルさんやイミナの両親に怒られた経験がある。だから学校をさぼって機関へ行くのは無理だ。怒られる。

 保育園を探さないといけないかもしれない。抱えムギごと布団に突っ伏す。仰向けになりムギを上に。

 ムギは早生まれだ。初等部は六歳になったら義務教育。

 ムギだけでお留守番できるかな。どうしてこんなわかることを先に考えていなかったのか。ぼくって本当に頭が悪い。

「馬鹿なんだから……」

 思わず口で呟いてしまった。頭を撫でられていてリザがぼくを見ていた。恥ずかしい。そういう表情をしてしまったのか、リザはまたニマニマ笑っていた。

「君初々しくていいよね」

 そう言う事言われると困る。恥ずかしくて視線を逸らしてしまった。

 先の事を考えるとムギの性質の事が脳裏をよぎる。

「まだ四時なんだから、もう少し仕事させてよ」

 リザに促されてムギを中心に横になる。

 性質を十三歳以下で発現させるのは法に触れる。天使の法じゃない。人の法で禁止されている。性質を発現させるには天使の力が必要だ。だから天使が認めなければ性質を発現させることはできない。

「リザ」

「なに?」

「一緒に寝てよ」

「寝てるじゃない?」

「起きてるでしょ? 一緒に寝て」

「ねんねして欲しいんだ。いいよ。ねんねしてあげる」

 リザが目を閉じる。目を閉じたリザも何処か神秘的で綺麗な形をしていた。少し口元が笑っていて、唇を枕に擦りつけるようにする。少し目を開けて目が合うとリザはまた少し笑って目を閉じた。

 リザが頬に手を当て撫でてくる。それをなすがままにした。


 ぼくは性質を知る方法を知っている。

 通常カードと性質は十三歳にならなければ貰えない。カードは機関が発行している。

 カードがなければ性質を把握することはできない。レベルもだ。

 手に持ったカードに性質情報把握画面を表示。本来は自分の性質を把握するための画面だ。情報を別途保存し初期化しまっさらにする。

 左手にカードを持ちながら右腕の延長上に自らのヌースを肉体から剥離する。伸ばしたヌースでムギの右手からヌースを掴み肉体から剥離、カードの情報読み取り位置へ誘導して乗せる。

 世界三大嫌われ性質だけは来ないで。盗賊と死霊術士だけはこないで。お願い。心の中で何度も願う。世界三大嫌われ職業はある。盗賊、死霊術士、バーサーカーだ。

 盗賊は言わずもがな。死霊術士は数こそ少ないものの魂を冒涜するとして嫌われている。人を使役するのは人の法でも天使の法でもダメだしビジュアルも悪い。

 世界三大テロリストに死霊術士がいたのも問題だ。ある人物が起こした事件が人類史上もっとも凄惨な事件だった言われている。

 バーサーカーは理性を殺すために嫌われている。この性質が発露したものは性質自体を封印される。理性を失い本能だけを伴って敵味方の判断がつかなくなるためだ。強い性質だけれど嫌われている。発動するのに許可証を貰わなければいけないし、理性を保つ特殊な飴を舐めなければいけない。

 他にも嫌われている性質はあるけれど、この三つが筆頭とされている。

 世界三大嫌われ職業の中でバーサーカーだけは別格だ。

 この街で一番強いとされる人物チェコリッサ・ハウーゼンがバーサーカーだからだ。バーサーカーは嫌われているけれど純粋に強い。性質鬼人鬼丸綱国……バーサーカーと連動して思い出した名前。嫌な気分になり息を吐いて思考を切り替える。


 表示された性質にクソッと悪態をつきたくなってしまった。

 ムギの性質はよりによって死霊術士だ。

 頭を抱えそうになってしまう。死霊術士は定期的に検査を受けなければいけない。人を使役していないか検査される。死霊術士が人の魂を扱う行為はどんな理由があろうとも禁止されている。犯罪者の魂でもダメだ。特に人側の人権団体が黙っていない。最悪性質の封印もありえる。その分社会からは優遇されるけれど恋愛関係全般が破綻する可能性はある。

 それほど死霊術士が起こした事件が凄惨だったと記憶されているし、この街ではそうでもないものの迫害意識も強い。

 死霊術士ミナハーカー。幾重もの英雄の魂を捕らえコレクションとしあまたの街を襲い滅ぼした地上最悪のテロリスト。

 性能をカードに表示する。性能を見る限り、ぼくがヌースを扱うのに近い。肉体を失った魂を自身の能力で捕縛し、姿形を与え扱うようだ。魂を一時的に保存する封魂瓶を自らの性質で作る能力を持っている。ただしその封魂瓶は入れた魂の性質を持ち、本人の意思にかかわらず自在に操れる。

 魔術系全般が扱う魔力をエレメントや事象ではなく器として扱い魂を入れ使役するのが死霊術士みたいだ。

 死霊術士の特性を利用した魂回収業を民間業として認めて貰えれば、死霊術士が食いっぱぐれることはないと書いてある。しかし残念ながらダンジョン内における魂の回収は可能な限り義務なのでお金を取れない事になっている。

 又ダンジョン内で亡くなった者を使役し悪用する者がいるため抑止力のためにも認めて貰えない。

 ぼくが性質を知っていると言う事を天使に知られるわけにはいかない。カード情報を初期化し、再び保存していたぼくの情報を表示する。

 この子の将来のために、できることを考えなきゃ。


 朝食は食パンとスープにする。ムギには色々な食材を食べてもらいたい。焼いた食パンとオーツミルクのコンソメ風スープ。後トマト。

「君、本当にトマト好きなのね」

「……だから服着てよ」

「昨日も激しかったね」

「……変なこと言わないで」

「吸い付きたくなるようなえっちな乳首してるくせに」

「……?????」

 えっちな乳首ってなんだ。ぼくは男だ。エッチな乳首ってなんだ。顔が赤くなるのを感じる。エッチな乳首ってなんだ。リザを睨みつけるとリザはニンマリと笑った。

 オーツミルクはオーツ麦から作られたミルクで牛乳の苦手なぼくにとって、このオーツミルクや豆乳は牛乳の代替えとして欠かせない。牛乳は高いからオーツミルクを飲む人は多いけれど、やっぱりミルクの滑らかな感じとはちょっと違う。

 昔はオーツミルクの方が高かったという話。でも今は牛自体が高級だ。

 豆乳でもいいけれど、豆乳にはコーヒーと劇的に合わないという弱点がある。

 お肉を買ってなかったのでキノコで代用する。乾燥させた市販のボロヴィック(ヤマドリタケ)を削ってスープに入れて、トランペット(エリンギ)は食べやすい大きさに切ってこちらもスープに入れた。

 ムギのお腹の調子も考えて大根おろしを加えて火を通す。大根おろしは消化に良い。辛味の抜き方は知っている。

 料理をしているとムギが起きたのを感じた。

「おはようムギ。ロフトから降りる時は気を付けてね」

 家(うち)六畳しかないからね。廊下やトイレ、お風呂を抜いてだけれど。

 ムギが階段を下りるのを見守りつつ料理。

 タマゴは必需品。普段は割った生をそのまま食べてしまうけれど、さすがにムギに同じように食べてもらうわけにはいかない。

 白身のドロッとした感じとか匂いとか苦手になったら大変だ。ゆで卵でいいか。

 ムギは下まで降りてくるとぼくを見上げていた。振り返り膝を折って目線を合わせる。

「良く眠れた?」

 ムギの手が伸びて来てぼくの服を握る。おぼつかない感じ。うまく握れなくて何度も握り直して来る。脇に手を入れて引き寄せる。胸に抱きしめてコメカミに唇をつける。

「歯磨きしよっか。朝起きたら、歯磨きね」

 ムギのおぼつかない様子から何が暴力の引き金か探っている印象がある。こればかりは時間をかけて大丈夫だと認識してもらうほかない。

 頭に何度か唇をつけて離すと、ムギは大きく目を見開いてぼくを見ていた。

「歯磨きしたらご飯ね」

 頭を撫でて火を一度止め、洗面所兼脱衣所へ。昨日の夜のようにムギに歯磨きをしてもらう。ムギを置いて洗面所から出ようとするとムギの表情が一瞬曇った。

 傍に行って背後から抱きしめる。

「歯を磨く時は歯茎を傷めないように力を抜いて。しゃかしゃか、ふふっ、はい、しゃかしゃか。綺麗綺麗しようね。はいしゃかしゃか」

 歯磨きはしっかり癖になるようにしないと。繰り返していれば歯が汚れていると気持ち悪いと感じるようになる。

「もっと小さい歯磨き買ってこないとね」

 歯磨きが終わったらウガイ後にトイレへ。ムギがトイレに入っている間に料理を再開。出来たものをテーブルへ並べる。

 トイレから出来てムギがそのままこちらへ来たので洗面所へ連れて行き手を洗わせる。

「トイレから出たら、手を洗おうね」

 台が無いとムギには洗面所が少し高い。

 ムギの手の上から手を合わせ一緒に手を洗う。ついでに頭に唇をつける。シャンプーの匂いも一晩立つと薄くなる。

 洗い終えたら朝ご飯。

 リザにも差し出す――リザは微笑んでくれた。足に何か――リザの足。見るとリザがニマニマしながら足を擦りつけてきた。

 ちょっとと睨みつけ。

「良く噛んで食べてね」

 ムギの頭を撫で一緒に朝食。噛んでと言うと一生噛み続けるので、ちょっとずつ指示を変える。

「大丈夫? 食べられる? 苦手なものは無理して食べなくていいからね」

 香ばしく焼いたパンをちぎってスープに入れる。音を立てないように食べる様を上品だねと褒めればいいのか、音を立てられない環境だった事を嘆けばいいのか言葉に詰まる。

 スプーンに乗せたパンを零したムギは刹那痙攣し恐る恐るぼくを見た。

 笑みを崩さないように気を付けながら零れたパンを指で拾い口へ運び、備え付けの布巾で手を拭い、そのまま緊張を見せるムギの頬を撫でた。頬をなぞり、もみあげを撫で、移って耳を撫でる。こそばゆいのかムギは身をよじり、逃げないのは嫌われていないからなのか、それとも嫌がると殴られると思っているのかを一瞬悩んでしまう。

「いっぱい食べてね」

 ムギに触れながら笑みを浮かべ、これが良いかはわからないけれど、愛でさせてもらいながらご飯を食べてもらった。


 どうしよう。午前中は学校へ行かなければいけない。でもいざムギを家に一人残すとなると不安になってくる。別に部屋を荒らしても食器を割っても問題はないけれど、ロフトの階段から落ちたり、怪我をしたりするのが心配だ。

 リザがいるけれど――リザに任せるわけにもいかない。それはさすがに都合が良すぎる。

 用意しなければいけないものや決めなければいけないことが多すぎる。とは言っても学校をサボるわけにはいかない。どうしようか考えた結果、ムギを一度機関に預けてから学校へ行くことにした。本当は保育園に預けるのがいいけれど、当日すぐに預かってもらうのは無理だ。

 機関には子供を預かってくれるシステムがあったはず。ダンジョン探索者には子供がいる方も多いから。

 ただ機関は探索者の子供しか預かってはくれないし料金も割高だったはず。人の情操教育は人が行うべきと言う批判も多い。預かってくれるのが天使だからだ。

 子供の頃に天使に育てられた子供は天使と同じ感性を持つと言うのは有名な話で、天使と人の感性は当然違うので人同士の繋がりというものが苦手になると聞いた。

 ムギの事、これからの事、ムギの性格、ムギに用意してあげなければいけない事や物、ムギの未来のために何ができるのか、性質の問題、色々ありすぎて頭がパンクしそうだ。

 一つ一つ順に解決しようと考える。

「準備出来た?」

 申し訳ないけれど適当なぼくの服を着て貰う。小さい頃にぼくが着ていたものが押し入れの奥にあった。Tシャツとハーフパンツだ。

 玄関にて目線を合わせるために立膝になる。これからの説明をムギにする。

「お兄ちゃん、午前中は学校があるから、ムギには機関でお留守番しててほしいの。お留守番、できる?」

 ムギが頷くのを確認し頭を撫でる。

「昨日の今日で、ごめんね?」

 ムギが首を振るのを確認し頬を撫でる。

「じゃあリザ、ぼくたちは出るから」

「んー……はいはい。いってらっしゃい」

「お昼は大丈夫? 冷蔵庫にあるものは食べていいから」

「ひひひっ。大丈夫よ。気を付けていってらっしゃい」

 家を出て玄関の扉に鍵をかける。手を繋いで路面電車を待つ。路面電車は車輪が地面に埋まっているので入り口に段差もない。ムギを抱えて乗り込むと、禁煙席なのにタバコを吹かしている女性を見かけて乗るのをやめ次を待った。

 次に来た車両に乗り込む。

 ムギを先に座らせて自分も隣に座る。備え付けのソファーは弾力がありほのかに温かかった。ムギが体を寄せて来て見ると恐る恐るという視線をぼくに向けてきた。笑みを浮かべて頭を撫でる。耳を撫でたり頬を摘まんだり、ムギは安心したのか体をもっと寄せて来る。でもムギは無理をしている。

 ぼくに気に入られようと無理をしているのを感じる。

 今はそれでもかまわない。

 こればかりは時間が必要だ。

 それが自然になるのには時間がかかると体感しているから。

「あのね。ムギ。お兄ちゃん頑張るけれど、ムギにも頑張って貰わないといけないんだ。お兄ちゃん頑張るから、ムギも頑張ってくれるかな?」

 そう告げるとムギは不安そうな顔をして服を掴んだ。

 ムギ自身の問題はぼくにはどうしようもない。これから先ずっとムギを守り続けることができると約束できればいいけれど、そうはできない。

 ぼくも探索者だ。何時か不意に帰れなくなるかもしれない。そんな時でも一人で生きていけるようにムギには強くなってもらわないといけない。こればかりは避けられない。

 ムギを訓練しないといけない。将来死霊術士としても、そうでないとしてもやっていけるように。

「やめてよ。降りるから」

 声が聞こえてみると男の子が電車から降りようとしているのに数人が邪魔をして降りられないようにしていた。

「おい、押すなよ」

「せめぇからうごけねぇって」

 ニヤニヤしながらそう呟くおそらく男数人。誰も助けない。見て見ぬふりをする。ぼくも助けない。男の子のプライドはきっとズタズタになる。でも命が無くなるわけじゃない。プライドを支払ってどうにかなる問題なのならぼくは助けない。それでもプライドを優先したいのなら殴りかかって勝ち取るしかない。ぼくもやられた。土下座させられた。それでもお腹を蹴られた。

 助けてって言え。

 イジメはダメだ。虐めている方が絶対に百パーセント悪い。

 でもいざ自分が虐められた時、誰か助けてくれるかと言えば否だ。

 そして今は助けて貰えても、次助けて貰えるとは限らない。

 助けてって言え。

 大事にしたくないのわかるよ。でもそれだったらやっぱり我慢しなきゃいけない。

 降りる場所を通り過ぎてやっと降りられた男の子は泣いていた。世の中は理不尽で悪い事をしても必ずは罰せられない。こちらが目を付けられないように体でムギを隠す。

 自分でも立ち向かわなければダメだ。

 助けてもらうにしても、助けてってちゃんと言わないとダメだ。

 そうじゃないと他人は貴方を助けてあげられない。

 勇気を出して、助けてって言って。そう言えば、誰かは必ず助けてくれる。少なくとも天使は必ず助けてくれる。

 ため息が漏れる。

 刹那、電車が浮きあがるのを感じた。ムギを座席へ押し付けて鉄棒を片手で強く掴み体を固定する。回る視界の中、手を放して左手でムギを抱きしめ固定しながら右手で向かってくる異物を払う。止まった電車の中は散々足るものだった。特にガラス。炎も見えた。

「ムギ? 大丈夫?」

 ムギは気を失っていた。手の平に痛み。ガラスが手の平に刺さっていた。左手で引き抜く。痛い。流れる血と痛みが鬱陶しかった。

 煙とうめき声、悪いけれどムギが最優先。ムギを抱えて電車を離れベンチへ寝かせる。車体を見るとなんと言うか見るも無残だった。朝から何なの。ムギが無事でよかった。

「お前らが‼ お前らが悪いんだ‼ お前らが‼」

 さっきまで虐められていた男子が少し離れた場所からそう叫んでいるのが見えた。性質による意趣返しと認識。

 天使が飛んでくる。早い。乗客救助を手伝う。事故の原因になった男子三人がいて、見捨てたい気持ちにかられたけれど、助けないわけにはいかないので背負って下ろした。

 すぐに消火が行われ、救護車もやってきた。

 犯人は逃亡したみたいだけれど、火系統の性質を持った術者か何かだったのかな。ぼくも手の負傷があったので救護車にムギともども乗せられた。

 巻かれたリボンは黄色。トリアージって言うんだっけ。ムギは緑だった。

 性質犯罪は身近なもの。犯人は未成年でも重罪に問われる。ぼくが止めに入って止まっただろうか。一緒に殴られてその写真を撮られて結局はこうなっていたと過去を予測。

 怪我をしたのはぼくのせいじゃないのに医療費は普通に請求された。

 ムギの脳も検査したから余計に費用がかかった。ぼくは救護院の先生が嫌いだ。偉そうだから。料金を払う取引なので関係は対等なはずなのに頭ごなしに言ってくる。これが嫌いだ。もちろん全ての先生がそう言うわけじゃないけれど。

 終わったら午後で学校に電話して事情を説明。

 ジュリアンナ先生に後で届け出と証明書を提出するように言われた。

 治療が終わったら事情聴取されて学校に電話して――朝からとんだ災難だ。

 けどムギに怪我がなくて良かった。

 やっと機関についてぐったり。

 二人との約束の時間までまだ一時間ある。

 機関の中に入ると少し安堵した。空気の質というのか居心地が良い。天使がいるせいなのか背筋がピンとなる。

「ムギ? 喉乾いてない? 何か飲もうか」

 ムギは眠そうにしていた。とりあえず天然水を自販機で買い飲ませてから横にする。膝に頭を乗せて寝るムギの頭を撫でていた。

 視線を巡らせる。うっそ。珍しい。チェコリッサがいる。この街最強と名高い探索者だ。鮮やかで濃いめの赤い髪をまとめ御でこが露出している。背中には大きな斧。

 エンジェリックウェポン。天使の武器だ。

「先輩、何見てるんですかぁ?」

 経吉の声。ぼくの視線に経吉が視線を添わせる。

「あーチェコリッサですね。世界最強の女」

 世界最強はさすがに言いすぎだ。世界最強に一番近いのは勇者マッケンハウジーだと言われている。イケメンと評判だ。

「良い武器ですよね。エンジェリックウェポン」

「天使の武器だからね」

「お姫、譲ってくれる気になったんですよね?」

「なるわけないでしょ」

 こちらに話を向けつつも経吉の視線はずっとチェコリッサを追っていた。チェコリッサの視線がこちらを通る。二人でじっと見つめ合いチェコリッサが少し笑った。途端経吉が苦々しい表情を浮かべる。

「あと半歩足りませんでした」

 半歩ってなんだ。

 チェコリッサの視線がこちらへ下がったので視線を逸らす。そういえば視線を逸らした方が負けという意味不明なルールが街の中にはあると聞いた。柴犬かな。

 そろそろ視線を逸らしたかなと思ったので顔を上げるとチェコリッサは不可解な表情でぼくを見ていた。目が合ってしまった。すみません空気です。すみません。なんで謝っているのか自分でも理解不能だけれどとりあえず謝って視線を完全に逸らした。

「譲ってくれるんですよね?」

「そんなわけないでしょ」

「なんで⁉」

「なんでもも何もないでしょ。そもそもお姫に君は選ばれてないからダメだよ」

「ほしい‼ ねぇ欲しい‼」

「ちょっと声が大きいってば。ムギが起きちゃうでしょ」

「先輩……さすがに子供を誘拐するのはダメでしょ。あ‼ 黙っててほしかったら」

「妹だから……ちょっと席をはずすからこの子見てて」

「えー? いいですけどぉ」

 カウンターに行き、ムギを一時的に預かって貰えるよう交渉する。ファニエルさんが対応してくれて最長半日様子を見てくれることになった。料金は一万八千円。高い。ほんとに高い。天使価格だから仕方がない。

 戻ってくると丁度ティティが入り口から入って来るのが見えた。

 ぼくと目を合わせたティティがこちらへとやってくる。傍に来ると胸ぐらを掴まれた。

「てめぇ‼ なんで電話でねぇーんだよ。殺すぞ‼」

「タイミングが合わなかったんだよ」

「着拒しただろ‼ てめぇ‼ なんで着拒したんだよ‼」

「通話ボタン押しすぎだよ。さすがにあれはダメだから」

「えー? ダメなんですかぁ?」

 経吉、今は茶々入れないで。

「あのね。カード貰って嬉しいのはわかるけれど、まずはマナーを守ってよ」

「はぁ⁉ んな話聞いてねーよ‼ なんで着拒したんだよ‼ 俺が嫌なのかよ‼」

「あのね。寝てる時に何度も音たてられたら嫌でしょ? 大事な着信を待っている時に連打されたら本当に大事な着信を見逃すかもしれないし、別にティティは嫌じゃないよ。ていうかぼくの方が盗賊だから、正直言うと双方にとって関わっても良いことがないよ」

「盗賊だとなんでダメなんですかぁ? 先輩強いですよね」

「そうだよ‼ なんで盗賊だとダメなんだよ‼ なんで盗賊だと双方にとって良くないんだよ‼」

 いや、君、盗賊について知っている風に言っていたじゃん。実はにわかだったのかな。

「静かにしてよ。他の人に迷惑でしょ。ほら、受付の天使さんもこっち見てるじゃん。これから説明するからとりあえず大人しく聞いてよ」

 とりあえずカードの機能と性質について二人に説明した。なかなか納得してくれなかったのでわかるように一からちゃんと説明した。盗賊がなぜ嫌われているのかを懇切丁寧に説明した。なぜ自分が嫌われている理由を懇切丁寧に説明しているのか謎だ。

 盗賊が嫌われる要素は泥棒以外にもう一つある。

 睡眠薬を作れるからだ。この補正というのがヤバい。薬局の市販の風邪薬等から何の知識もなしに作れる。見ればどの成分が睡眠薬になるのかを理解できてしまう。

 これによる睡眠薬の違法販売や女性被害が後を絶たない。

 目薬の中身を睡眠薬に入れ替えてお洒落なバーなどで女性に使用し昏睡したところをお持ち帰りのちに襲うなんて行為がざらにある。

 睡眠耐性なんてないしね。それあったら夜すら眠れなくなるよ。

 中でも深睡香という睡眠薬が最高にヤバい。

 だから盗賊と言うだけで警戒される。

「着信連打は迷惑になるんですねぇ」

 経吉はわかってくれたようだけれど、ティティは納得していないようだった。

「チッ。でもおめぇが悪いよな? 通話でないお前が悪いよな」

「連打したティティが悪い」

「んだと‼ 次は通話でろよなぁ⁉」

「出られたら出るよ」

「コイツ……腹立ってきた。一発殴らせろ‼」

「それはさすがに理不尽だよ」

「一発‼ 一発でいいからやらせろ‼」

「その言い方はやめて‼」

 ティティをなだめるのにもう少し時間がかかってしまった。

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