第14話 義妹②


 手持無沙汰になり動画を見る。

 これからの生活を考えてもっとも念頭に来るのはお金だと感じる。

 お金を稼がないといけないけれど非正規ルートは治安が悪い。ムギの事も考えて後ろ暗いお金はなるべく得たくないし弱点を作りたくない。これからは正規ルートでお金を稼ぐべきだと考える。

 サブダンジョンの攻略が順当だと考える。

 妖精のバラ。レアなアイテムの映像が脳裏をよぎった。

 妖精のバラは妖精が育てているバラに良く似た植物の事で、ダンジョン内にて妖精と遭遇し友好関係を結んだあと物々交換で入手する可能性のあるアイテムだ。このバラは薬効に優れ、また人を覚醒させる効能を持つ。

 覚醒と言うのは能力の向上を意味し、比率にして約二十%もの全体的なステータスの底上げが期待できる。デメリットはあり時間制限やカロリーの消費も激しい。

 そのデメリットあってなお高値が付くのは、そのうちの数%のステータスが永続的に上昇するからだ。そんなアイテムが高値にならないわけもなく、しばしば妖精からの略奪行為が行われ問題になっている。全ての人が略奪に及んでいるわけではないし、妖精にとって一番の脅威は獣人でもあり、ただ妖精自体も人と獣人の区別がついていないようでもあった。人類と妖精はそこまで仲良くない。

 妖精と人とでは言語も全く違う。だから妖精と友好関係を結ぶのはかなり難しく、妖精自体が謎なのでたびたび人族なのかそれ以外の種族なのかが論争になっている。

 迫害を恐れてかダンジョンで暮らす妖精は多い。

 妖精と魔物の区別がつかなかった事例はいくつもあり、また妖精の姿をした魔物もいるので緊張状態にあれば誤って攻撃してしまうことも多々ある。

 ぼくも初期の頃に一回やらかした。

 その時は何とか許して貰えたけれど未だに申し訳なかったと後悔の念を抱く。

 サブダンジョンで妖精と出会うのは稀だし保護対象。破壊してしまうので中に妖精がいた場合は目も当てられない。

 もっとも天使達とは友好関係にあり、サブダンジョンに転送されてしまった妖精は人が入ってくると破壊されることを察知するので一目散に逃げだすし何より天使が保護する。

 上手に……上手に仲良く生活できるだろうか。早計だった。でもだからと言ってこの選択肢以外はなかったはず。保護センターの方はもしかしたらぼくの心配もしてくれていたのかもしれないし余計な事をしたのかもしれない。

 一時間が妙に長かった。

 戻って来たムギと再会し次いでファニエルさんより説明を受けた。

 栄養失調の兆候が見られ、実際に栄養失調なので食事には気を付けてほしいと言われた。あとアレルギーに関しては、アナフィラキシーショックを起こすような強いアレルギー反応はなかったけれど、ぼくと同じで牛乳に少しのアレルギーと甲殻類に少々拒否反応があると言われた。食事に関しては特に気にしなくて良いとも言われた。海産物の消化に優れており、ノリを消化できると言われた。それに何の意味があるのか疑問を浮かべてしまう。

 腕に火傷の跡があると言われた。袖の奥、丸い跡が点々とあった。一言で言ってしまえば苦かった。全ての感情をため息で吐き出しそうになり呑み込む。

 髪が白いのは栄養失調と精神疾患によるものだと言われた。脳が少し萎縮しているとも言われた。

 ぼくは曲りなりにも母に猫可愛がりされていた。だからぼくは叩かれれば泣きわめいたし我儘も言った。母がぼくを愛していないと気付くのにそう時間はかからなかったけれど。

 この子は何も言わない。何も言わないのだ。子供らしさが無い。

 この子はおそらく生まれた時から愛情というものを受けて育っていない。

 誰しもが生まれて来て最初に受け取るべきプレゼントをこの子は受け取っていない。

 生まれて来てくれてありがとうと愛しているとそれを受け取っていないと感じた。そういうのを受け取っている子供と受け取っていない子供の違いをぼくは知っている。

 それがどれだけ悲しいことか。それがどれだけ虚しいことかぼくは知っている。

 皮肉にも幼馴染とその両親を見ることで、ぼくもそれを思い知ったからだ。

 ぼくの愛情なんていらないかもしれない。

 それでもぼくはこの子の頭を撫で、そしてつむじ付近に唇をつけた。

 臭くて少しべたついて、自分を重ねて見てしまっていた。

 そこからちょこちょこ注意事項を聞いて公共料金や家賃などの支払い手続きや解約手続きなどを終えて気づいたら機関の前に立っていた。

 長かった。もう夕方だ。

 少女の手を引いて歩く。そのまま電車に乗り、席へ座らせようか悩んだけれど、少女の汚れた様相では席を汚してしまう可能性があったので抱えた。

「ルールを決めようか」

 少女に語り掛ける。体重をまるで感じない軽さにこの子が子供である事を強く感じる。

「トイレに行きたい時はトイレに行っていい。お腹が減ったらぼくに伝えて。何かしてほしい時もぼくに言ってね。喋るのが嫌だったら喋らなくていいから。一回強く服を握れば肯定、はいって意味ね。二回握ればいいえって意味。大丈夫?」

 少女がぼくの服を一回握るのを感じた。

 引っ越ししないといけない。契約違反になるからだ。頭が少し重い。

 電車の中は人が多かった。疲れて眠る人、友人と談笑する人、カードで投影した映像を眺める人、どの人もリラックスして平和な時間が流れていた。

 この人達にはこの人達なりの苦労があり人生がある。もちろん同じ環境の人だっているはずで、もっとひどい環境の人だっているはずで、それなのにそれなのに、それでも、それなのにぼくはひどく、この人達を妬ましいと羨ましいと感じてしまった。

 理不尽だ。何かを受け取れなかった分、その分何かを与えられるべきだ。

 友達がいる人間が妬ましい。楽しそうに談笑している人達が妬ましい。

 幸せな奴はその分の反動で不幸になるべきだ。

 不幸な者はその分に何処かで幸せを与えられるべきだ。

 天秤につり合っていて欲しい。

 だけれど世の中は残酷で理不尽で幸せな奴はずっと幸せで、不幸な奴はずっと不幸だ。大した事もないのに人々に愛され認められ選ばれる人達が憎たらしい。それがひどく妬ましく、ひどく惨めだ。

 泣き叫びたい衝動に駆られて……駆られるだけだ。

 泣いても何も変わらない。与えられるものなんて何もない。自ら手を伸ばさなければ手に入るものなど何もない。手を伸ばしたって手に入らない事の方が多い。

 世の中にはもっと不幸な人達がいる。その人達に申し訳ないと思わないのか。変な理由で自分を納得させる。

 ぼくだってぼくだって。子供みたいだね。そういうのはやめなよ。甘えるなよ。

 ぼくの感情と、この子は関係ない。

 想像すると何時も心がぐちゃぐちゃになる。それを必死に大丈夫。大丈夫って自分に言い聞かせて宥める。自分の頭を大丈夫だよって撫でる。

 せめてこの子には、ぼくのような生き方、考え方をしてほしくない。

 そう考えて笑ってしまった。

 この子の事を何も知らない癖に偉そうだなと笑ってしまった。

 何がぼくのような生き方、考え方をしてほしくないだ。その子がそう言ったのか。ぼくの思い込みだよ。ぼくにできる事なんて初めからない。でも捨てた両親よりはお世話をできるはずだ。ぼくにできるのはそれだけだよ。暴力を連想させる振る舞いにだって気を付けなきゃいけない。

 すでに起こってしまった現象は消せない。だからそこからは目を反らすことにした。

 電車を降りて見えて来たアパート。玄関のドアを開けて閉じると、空気の抜けていく風船のような気持になってしまった。

「あらおかえりなさい」

 リザがいた。

「出かけなかったの?」

「少し出かけたわよ? でも鍵をかけないまま何処か行くのは良くないでしょう?」

「気にしなくていいのに」

 てっきりもういないかと存在すら頭になくて、そして存在していることに少し安堵して、良くない、良くない傾向だと自分でも感じる。

「そういうわけにはいかないわ。あら、そちらの子は?」

「ちょっとね」

「さすがに初潮を迎えて」

「違うから。妹なの。そう言うのはやめて」

「……可愛い奴」

 強引に遮るとリザは笑った。

「今夜も買ってくれるのでしょう?」

「パパ活みたい……」

「あら人聞きの悪い。これは正当なビジネスよ。教会だってやっているのだから。それにパパ活をしなければ生きていけない女の子だっているのよ。悪いのは悪用している人だわ。それに見て? これ? マッチングアプリ。男性側はお金がかかるのよ? あらあら? やっていることはパパ活と……それと比べたらあたしは健全じゃないかしら?」

「やめてよ……そう言う難しい話」

「ひひひっ……泣いていたの?」

 その笑い声は悪魔みたい。

「……欠伸しただけだよ」

 リザの手が伸びて来て目元を拭ってくれた。ただそれだけの動作で少しだけ救われた気がした。


 まずはお風呂だ。ムギにお風呂に入ってもらう。

 ムギにお風呂に入るように伝えると脱衣所を素通りし、そのままお風呂場へ入ってしまった。違う。そうじゃない。服を脱ぐように伝え、服を脱ぐように言うことでムギはその場で服を脱ぎ始めた。違う。お風呂場で脱がないで脱衣所で脱いでほしい。

 この子は多分、おそらく、自分からは何もさせてもらえなかった。自分から何かすることを恐れている。

「ちょっと待って」

 最初から伝える。脱衣所で立ち膝になる。

「ここが脱衣所。ここで服を脱いでね」

 目線を合わせ、こちらへやってきたムギと目が合う。ムギの大きく開いた目の中にぼくの姿が映っていた。ムギの視線が少しずれ、こちらを向いた。少しずれ、こちらを見た。

 年齢は五歳と言うことだけれど知らない言葉もあるだろう。服を脱ぐという言葉の意味を理解してくれていると認識する。

 腕が服から抜けないムギを手伝い、服を脱いだムギの体には複数の青痣が見て沸騰し目元が少しピクピクとしてしまった。何も知らぬように頭を撫で、おでこへ唇を寄せる。臭くて苦い味だ。獣みたいな過呼吸になりそうだ。

 言われた事以外の行動は即暴力だったのだろう。だからこの子は自分からは何もしなくなった。お風呂へ入ってと言われればそのままお風呂へ入り、服を脱いでとは言われていないので服を脱がないでそのままお風呂へ入った。

 でもお風呂へ入れと言われてそのままお風呂へ入っても彼女は殴られたのだろう。何が正解なのかわからなくなって何もできなくなった。一挙手一投足に不安とストレスが付きまとう。ぼくを見ている。

 ため息をつきそうになり押し殺す。ため息が、少女のストレスになるかもしれない。

 シャワーの使い方を教える。しかしムギはシャワーを浴びるだけで頭も体も洗わなかった。シャワーに打たれてそのまま動かない。

 ムギはあまりお風呂へ入ったことがないのかもしれない。自分から入ったことがない。

 この際一緒に入ったほうがいいのかもしれない。脱衣所で服を脱ぎムギの服と一緒に洗濯機を回す……リザの下着、服は分けて置いた。

「あたしのは避けるの? ひどいわね」

「なんで入ってきたの……」

「いい眺めね」

「……ちょっと」

 あんまり見ないでほしい。

「えっちな乳首ね」

「……???????」

 エッチな乳首ってなんだ。顔が赤くなる。人に裸を見られた。

「ひひひっ」

「……でてってよ。一緒に回すからね」

 一緒に放り込んで洗濯機を回した。

 部屋に備え付けられている洗濯機は性能があまり良くないし節水機能もない。

 改めてお風呂場へ。

 ムギの浮き出たあばらと不自然にでっぱったお腹をかつての自分の姿と重ねてしまっていた。空腹だから水を飲む。でも当然お腹は満たされない。満たされないからお水を飲むのに満たされないのでまたお水を飲む。結果お腹は膨れないのにお水でお腹がでっぱって太って見える。

 見た目よりも絡まっているムギの髪にシャンプーを垂らし指を這わせる。硬い頭皮をもみほぐしながら柔らかく髪をとかし、凝固した油のようなものを丁寧に取り除いていく。

「痛くない? 大丈夫?」

 なるだけ優しく声をかけストレスの軽減を試みる。

「はーい。目を閉じてね」

 シャンプーが終わったらリンスで髪質を整える。

「大丈夫?」

 ムギが手をさ迷わせ、ぼくの腕を掴むと一度ぎゅっと握って来た。

「我慢出来て偉いね。偉い偉い」

 ムギの目が大きく開いてぼくを見ていた。伸びて来た手が恐る恐る胸に触れて、小さな手が胸に触れると平は冷たく、触れた手が横へ動いて腕を掴み、ムギは立ち上がりこちらへ正面を向けながら身を寄せて来た。

「どうしたの?」

 何も言わずパーソナルスペースを飛び越えて肌を貼り付かせてくるムギ。見上げたムギの目が、大きく開いたムギの目が、ぼくを見上げていた。どうしたのか困惑してしまう。

 左腕を握るムギの握力が弱弱しくて、右手を軽く左手で握り返し頬に右指を這わせる。人差し指と中指の甲が頬を流れて。

「どうしたの? 触りたいの?」

 ムギに自由に触れさせる。ムギは手を体中に這わせてきた。口の中にまで指が入って来る。好きに口の中に触れさせる。歯に人差し指が触れている。髪を掴んでくる。引っ張られると痛くて少し顔をしかめてしまった――途端パッと髪から指が離れた。手を伸ばして頭を撫でようとするとビクリッと震え、殴られると思ったのだと察する。手を下げて下から頬を撫で、そのまま頭へ乗せて髪を撫でる。

 大丈夫だよムギ。何処に触れても大丈夫、怒らないよと笑顔だけで伝える。

「お風呂から上がったらご飯作るからね」

 そう告げるとムギのお腹が鳴って、少し笑って気が抜けてしまった。

 体を洗って湯船に浸かり、十分に体が温まったらお湯からあがる。湯船に浸かるのは久しぶりだった。

 着替えたらムギをリビングに座らせてご飯の準備。ナポリタンを作ろうかと冷蔵庫を漁り、ムギのお腹の様子を見てお粥にすることにした。

 味付きの御粥とトマトでゆっくりお腹の調子を整えて貰う。

「あたしもお風呂頂いていいかしら?」

「聞かなくても使っていいよ」

「ひひひっいいわね。それ」

 食事が一時間後になってしまったのは申し訳なかったけれど、作った味付きの御粥をムギは黙って食べてくれた。食べているムギの頬を撫でる。焦らないよう音を立てないように気を付けながらも吸い込まれるようになくなっていく。

「おかわりあるから、ゆっくり食べてね」

 そう告げるとムギは左手でぼくの手を握った。

「あたしも頂いていいかしら?」

「いいけど服着てよ……」

 お風呂場から出てきたリザに絶句。

「ふふふっ。お粥なんて久しぶりだわ」

「獣人でもお粥食べるの?」

「……小さい頃にね。味が無くてね。懐かしいわ。ん? このお粥は美味しいわねぇ」

 イミナが風邪を引いた時もお粥作ったっけ。でも味付けはしないし作り方も適当で散々文句を言われた。

 片づけたら歯磨きをしておやすみなさい。申し訳ないけれど布団は一組しかない。

「寝る前に、耳掃除しようね」

 膝の上に頭を乗せてもらい、綿棒で垢を取る。結構……汚れている。耳の中というより、耳の外側に汚れが溜まっている。デリケートだから気を付けないと。自分で耳掃除すると良く血がでるから特に注意する。

 終えた頃にはムギは眠っていて、その様子を確認してぼくも隣で横になった。頬に指を這わせ、頭に唇を寄せる。

「チュッチュッ。おやすみ」

 ぼくに出来るのはこんな事だけだ。

 横になると音が良く聞こえる。盗賊は僅かな音や息遣いを感知することに優れている。寝ていても僅かな空間の変化で目が覚める。

 ぼくは良い人間ではない。

 結局自己満足だ。この子を立派に育てられるだろうか。上手に親のふりができるだろうか。別に親のフリじゃなくてもいいじゃないか。ぼくができるだけの愛情を注げばいいじゃないか。そんなことができるのか。愛情なんて理解できているのか。そんなの……。

「よいしょっと。今夜はどうする? 上がいい? 下がいいかしら? 耳かきはする?」

 リザがそう話しかけてきた。思考を中断する。出費ばかりだ。今更リザを追い出せないし、リザにも自分の生活がある。知り合ってしまった手前、リザに危険な事はしてほしくない。

「お願いがあるんだけど……」

「言うだけならただよ?」

「ムギを真ん中に寝てほしい。料金を増やしてもいいから」

「いいわよ増やさなくて。ぎゅっとするのでしょう? 一万五千円ね」

「いいの?」

「いいわよ。ほら、手を握りなよ。恋人繋ぎしなよ。ぎゅって握りなよ」

「ありがとう」

「ひひひっ。商売だからね。毎度ありがとうございます。ご主人様。このミ……ロザリタだった。このロザリタが誠心誠意お仕えいたしますわ」

 リザの手は温かい。柔らかくて温かい。大きくて手が包まれる。甲にある毛皮の肌触りが滑らかで指を擦らせてしまう。目を閉じると余計に肌触りが良くて撫でるのをやめられない。

「……ねぇ? これから毎日私を買いなよ」

 不意な言葉に目を開けてしまった。

 開けた先にはリザの眼差しがある。微笑んでいるのかのような笑っているかのような、からかっているかのような懇願するかのような嫌がるかのような複雑な表情があって、ぼくにはリザが何を考えているのか読み取れなかった。

「……急にどうしたの?」

「君探索者よね? 頑張って稼いで毎日あたしを買いなよ。こう見えてもあたし、まだ乙女だよ?」

 ニンマリと笑みを浮かべてリザが指を柔らかく握って来た。

「……リザって悪魔みたい」

「それ女にとっては最高の誉め言葉ね。ふふふっ。乙女でいてあげるから毎日あたしを買いなよ。あんたのために守ってあげるから毎日あたしを買いよ。でないとあたし……」

 リザは少しイミナに似ていると思ってしまった。強引で引っ掻き回してくる所。簡単に内側に入って来る所。少しずうずうしい所。

「どうしてそういうこと言うの?」

「気に入ったの。あんたのこと。それに……嫌いじゃないでしょう? こういう女。優しいものね? 態度でわかるわ。あんたはこの申し出を断れない。あたしに自分を大切にしてほしいって思っているでしょう? 危険な事をしてほしくないって顔に出ているもの」

 見透かすように言ってくる。ため息が漏れる。自分を大切にしてほしいとは考えている。

「買いなよ。毎日あたしを買いないよ……でないとあたし」

 頬を撫でられる。悪魔めいた憂いの瞳で見つめられる。

 女の人にはひどい目に遭ってほしくない。好きな人と結ばれて幸せになってほしい。一緒にいてくれたイミナやその家族に幸せであってほしいから。苦しいのは変わらないけれど。

 その反面、内側でくすぶる火が自分を焼いて痛い。

 大切な人を裏切らないで。母のようにしないで。じゃないとぼくは……。

 浮気や不倫が嫌いだ。大切な人を裏切る人が嫌いだ。それを許せない。母が嫌いだ。母が、嫌いだ。

「……なんで添い寝屋なんてやってるの?」

「お金を稼ぐためよ」

「……どうしたらいいのかわからない」

「ふーん。ほーん。あたしが他の男と寝てもいいんだ?」

「それは……」

 全く関係ないとは言えないけれど、たった数日知り合っただけの女の人の事なのに、喉が渇くような痛みと心臓が焼けるような焦燥感に囚われる。

 嫌だ。関わりたくないと脳裏を過る反面、現実から逃げるのか、目を背けるのかと自分に問われる。覚悟を決めるにしてもリザは別に恋人でも妻でも何でもない。そう言われても迷惑だろう。

「あんたが決めるのよ。あんたが嫌なら寝ないわ」

 リザにとっては死活問題なのかもしれない。困るとは言えない。ぼくは彼女にとって良いカモなのだ。現実は厳しい。そうしないと生きられない人もいる。ぼくが探索者にならないと生きられないと考えた時みたいに。

「ひひひっ。可愛い奴。耳の中クンクンさせてあげるからさぁ。それともこっちがいい? あたしの大事なところ、クンクンさせてあげるからさ」

 気が抜ける。

「そういうこと言わないで」

 自分を差し出さないで、大事にしてとリザの髪に手を伸ばして頬を撫でた。ふわふわしていて指が沈みこむような感覚に囚われる。

 血の繋がらない本来なら他人同士の三人が、川の字になって寝ているという事実に気づいて少し笑ってしまった。

「何笑ってるのよー?」

 唇が近い――綺麗な人。ぼくなんかとは一生関わり合いにならなそうな人。

「……買ってよ」

「その言い方はずるい……」

「決まりね。決まり」

 何か言おうとしたわけじゃないけれど指を口に当てられる。

「ダメ。決まりね」

「……そう言うのズルい」

「だぁめ。決まり。毎日あたしを買うのよ」

「毎日、一回抱きしめさせて。それと自分を大切にして。約束ね」

 そう言うとリザはニンマリと笑った。

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