第11話 彼女はスキップしていた①

 電車を降りる。寮と呼べばいいのかアパートと呼べばいいのかマンションと呼べばいいのか、そこまで徒歩十五分。見慣れた道並み、夜は好き、見えて来た明かり、自販機の明かり、管理された夜、紫の空、立ち止まり見上げて一息、白い息、寒いわけじゃないのに。

 コーヒーが飲みたい。温かいコーヒーの匂いが脳裏を過る。

 グレープフルーツ入りジュースを良く買っていたのを思い出し、脳裏に味が復元され、飲みたくなって久しぶりに買おうかと足を運んだ。グレープフルーツは体にいいって話、半分信じているし、半分信じていない。

 自販機、向こう側、影、人がいる。気配、警戒、気を緩める。

 なるべく人のパーソナルスペースに入らないように気を使っている。絡まれても困るし、ぼくが殴られて土下座するだけだからだ。踏み込んだ時の女の人の嫌そうな顔が苦手。

 視認、体の陰影から女の人と認識。

 獣人。獣人の女の人だ。獣人の女性は露出度が高いので目のやり場に困る。上空の天使を視認。この距離なら肉体がロストしても天使の速度で十二分に間に合う。視線をはずしてジュースを買う。

「ねぇ? ねぇねぇきみぃ、ちょっといい?」

 声をかけて来た。困る。光と闇の凹凸、余計に露出が目立つ。完全な獣人だ。体中が毛におおわれていて、顔もやや羊顔、化粧っ気も無いのに美人。体毛。ビキニとショートパンツ。腕に輪を付けている。輪の色は緑。エンジェルリング。

「警戒しないでよ。こんななりだから仕方ないけどさぁ」

 小麦畑な体毛、太陽の光があればきっと黄金になる。オレンジや茶色、サビ色などの混ざった複雑な色。サビ色。オレンジに近い明るいサビ色。ぼくが一番好きな色。

 金魚の色。メタリックなサビ色の金魚を昔飼っていた。庭に埋めた。

 人の目を見るのは苦手だ。顔を上げて相手の目を見つめる。

 顔の作りが人と似て異なる。体格、ぼくより大きい。

 なんて言うんだっけと頭を捻る。思い出そうとする。なんとかカット。ウィスパーパッドだっけ。ウィスパーパッドまでは行かないけれど、唇が少し三角形で尖っている。

「あたしさぁ、添い寝屋やってんの。今日は客がいなくてね。こんなところまで来てしまったわけ。それで話しなんだけどさ、今夜同衾しない? 安くするよぉ?」

 背もぼくより高い。添い寝屋さん。体を見て気持ちよさそうと思ってしまう自分にちょっと自己嫌悪。変な意味じゃない。

「教会の方ですか?」

 教会はある。教会で育った孤児は大人になると添い寝の仕事に就くことがある。もちろんエッチな話しなどではなく、普通に添い寝をする。人に尽くすという意味で大変重宝される。耳かきとかお世話をしてくれる。でもハウスキーパーとか家政婦とは別だと言っていた。そこは明確に法として違うらしい。

「んにゃ? 個人でやってんの。まぁ見ればわかるだろうけれど、ほら私って獣人でしょう? 人って好きでしょう? こういうの?」

「そうですね」

 少し動揺していた。受けたいと思っている自分がいる。

「あら? 興味ある系? 大丈夫よ。ぼったくりとかじゃないから。そうね。添い寝一晩五千円。私が下なら八千円。上なら九千円ね。オプション耳かき三千円。膝枕付き。耳かきという行為全体の料金で三千円ね。上乗せとか別料金とかの請求はなしよ。夕ご飯を作るなら食材代+三千円。朝ご飯なら食材代+二千円ね。ぎゅって密着して眠りたいなら上の料金に追加で一万円ね」

 どちらにしようか迷ってしまう。どうしようか迷ってしまう。詐欺かどうか迷ってしまう。

「まぁ、助けると思ってさ。寝床も飯もないのよ。だから助けると思って? ね? いいでしょう?」

「う……うーん。寝るとこないの?」

 優柔不断すぎる。女性慣れしていないのを隠そうと必死で恥ずかしい。理由と妥協を提示してくれるのに甘えてしまう。決断できなくて女々しい。

「そうなのよ。あたしは……ロザリタ。リタって呼んでよ。リザでもいいわよ。絶印はある?」

「あるけど……」

「確認させてねー」

 絶印と言うのは所謂性欲を無くす印のことだ。これがないと男女混合パーティなんてすぐに瓦解する。ぼくはあんまり付けても意味ないけれど、少なくともハニートラップには引っかからない。今引っ掛かったかも。

「いいね。じゃ決まりね? こんなところまで来て野宿はさすがに嫌だったからさー。シャワーは貸してよねぇ」

「狭いですけど大丈夫ですか?」

「問題ないよ。それで、どうする? 添い寝と耳かきどうする?」

「下で……。そのぎゅってしたいのと、耳かきもお願いします」

「ふふふっ。いいね。合わせて二万千円ね。あっあと食事は食べさせてね。寝ている途中でお腹鳴ったら嫌でしょう? あたしも嫌だわ」

「わかりました」

「いい子ね。二万円にまけたげる」

 カードを出して支払いを済ませる。ここで逃げるかもしれないけれど、それならそれで構わないとも思った。獣人は人を奴隷にするけれど、全ての獣人が人を奴隷にするわけじゃない。獣人にも色々な種類や派閥があり、一枚岩じゃない。だからこうして街にも獣人はいる。

「毎度あり。じゃあ早速行こうか。君の部屋」

「うん」

「あっ言っとくけどエッチなことはなしよ? 先端とデリケートゾーンはノータッチね」

「はい」

 部屋に帰って来た。静まりかえる部屋の中。

「もう入っていいの?」

「どうぞ?」

 荷物を置いて部屋の中を見て回る。問題無し、荷物を置いて着替え、冷蔵庫を開けて飲み物とトマトを取る。冷蔵庫の中には飲み物とトマトばかり入っている。別にトマトが好きなわけじゃない。野菜の中で一番手間がかからないのをトマトだと思っている。

「見られたら困るものは隠した方がいいわよぉ?」

「別にないよ」

「性癖とか困るでしょ」

「絶印押してるから正直ね」

 四つ入りの袋を手に取り、一つを洗ってそのままパクリ。少し酸味がある。リザにも投げる。

「夕食ってトマトだけ? 不健康ねぇ」

「足りない?」

「だいじょーぶ。おねーさん草食だからね」

「雑食じゃないの?」

「メインは草食。サブは雑食よー」

「お姉さんなの?」

「君幾つ?」

「十六だけど」

「じゃあ、あたしが年上。お姉さんはねー。十八歳」 

 色々なトマトを試しているけれど、甘いトマトだけじゃなくて、時々酸っぱいトマトも合わせた方がいい。甘いトマトばかり食べていると、そのトマトを美味しいと感じなくなるから。

 他の三つは輪切りにし、レモンのはちみつ漬け然り、玉ねぎ入りドレッシングを入れて蓋をし、冷蔵庫に戻す。明日の朝ご飯。


 ロフトに上がり、しばらくリザと動画を見ていた。何度か通話着信が来たけれどティティからだったので無視した。着信拒否してはダメだろうか。非通知にする。

「彼女からの通知を無視するなんてよくないわよ?」

「後輩……」

 動画には非正規ルートで侵入した先の紫谷(しこく)を攻略する様子が映し出されていた。

 ルート、敵、達成感、興味、好奇心、興奮、お金、仲間との連携、そして死。イミナ達も動画を出しているけれど、イミナ達の動画を見るのに少しばかり拒否感を感じる。

「人間てダンジョンが好きよねー。何がそんなにいいのかしら」

「お金になるからね」

「年間行方不明率は?」

「三%ぐらい?」

 この街だけじゃなくて世界全体の割合だけれど。

「命よりお金が大事なんてねぇ」

 動画自体を見るのも好きじゃない。でもこれさえ拒否してしまったら世界への関わり方すら失ってしまうような気がして、そんなわけないのにね。

 躊躇いながらイミナの動画を見て、三分で視聴をやめて閉じ。

「あら? どうして閉じるの?」

 そう言われて、また視聴して結局最後まで見た。

 着信。ティティからじゃなくて、イミナの母親。おばさんから。

 今度お家に顔を出すようにとチャットに書かれていた。

 ため息が漏れる。心配してくれているのがわかる。わかるからこそ近づきたくない。愛そうとしてくれているのがわかる。だからこそ近づきたくない。返せるものが無いからとか愛されるのが怖いからとかそういう理由じゃない。

 ぼくはそんなに良い人間じゃない。両親には不幸になってほしい。この遺伝子が嫌いだ。両親に似ていると思うと吐き気がする。

 イミナの両親はぼくに優しい。ぼくもイミナのお母さんを実の母のように愛している。だから近づきたくない。

「馬鹿だよ……」

 素直になれば幸せになれるかもしれないのに、意地みたいなものがあって近づけない。

「独り言なんてノイローゼかな?」

 そんなのに意味なんて無いことはわかっているのに、それでも嫌だと思ってしまう。

「……ごめん。独り言」

 招いておいてなんだけれど、他人が自分の部屋にいるのは不思議。

「はいはーい。癒しが必要だったのね。じゃあ耳かきしまーす」

 立ち上がって枕元に来たリザ、モモに頭を乗せるよう促される。高くないようにとんび座りしてくれた。

「じゃあ、ほじほじしようねー」

 モモが柔らかい。毛が頬に擦れて肌触りが良い。熟れたイチゴみたいな匂い。柔らかい、温かい、ふわふわ。口が半開きになっている事に気が付いて強く閉じる。唇を押し付けたり、ムグムグ埋もれたりしたいと衝動が起こり心で必死に抗って衝動に耐える。

「うわっ……」

「我慢しなくていいからねぇ。気持ちいいって言っていいんだからねー」

 手が、髪の間を通り抜けていく。地肌まで到達する指の感触に意識が遠のきそうになる。

「……気持ちいい」

「素直だねぇ。手が好きなんだ。手が好きなんだねぇ。後で指入れてあげるからね」

 なんで指を入れるの。

「あたしの毛で作った梵天付き耳かきで、綺麗綺麗しましょうね。あらぁ……我慢しないでムグムグしなよ。あたしのモモに顔を埋めてムグムグしなよ。舐めるのは止めなよ。毛が口に入るからね。唇ですりすりしなよ。ひひっ」

 耳に入って来た耳かきが、絶妙な力加減で中から外へ流れていく。これ以上だと痛くて、これ以下だと物足りない。

「うぁ」

 変な声が出て恥ずかしいのに、気持ち良くて目が片方ピクピクと閉じようとする。あまりもこそばゆすぎて、リザのモモに頬を強く擦りつけてしまった。

「ひひっ。君、猫耳だねぇ。お姉さん嬉しいよ」

 まだ途中なのに終わって欲しくないと思っている自分がいて困った。

 外側まで綺麗に拭ってくれて、耳かきを生業にしているのがわかる。終わったら耳をほぐしてマッサージ。耳の裏を押されると気持ち良すぎて意識が飛びそうになった。

「はい。反対向いて。舐めたくなる耳だねぇ」

 膝の体毛もいいけれど、何よりリザの手が温かった。触れられると温かくて気持ちいい。乾いていて温かい。ずっと撫でられていたい。程よい圧と流れに身を任せていた。

 なぜだかイミナを思い出して、もっと小さかった頃、こうしてお互いの耳を綺麗にしたのを思い出して、イミナの耳かきで眠りそうになるとイミナはいつも。

「ひひっ」

 そう声を出して頭を撫でてくれた。その後二人で昼寝して、イミナのお母さんが毛布をかけてくれた。

 既視感を振り払うように顔を埋めてしまう。

「いい子だねぇ」

 でも膝枕は負担が大きいのを知っている。

「はい。おしまい。あんまりやりすぎると耳を傷めちゃうからね。そろそろ寝ましょうか」

「うん」

 もう体は完全に睡眠モードに入っていた。動くのすら億劫だけど一度離れて座り込む。リザは布団の上に寝そべって仰向けになると手を振って来る。

「Come on」

「どうしたの?」

「あら? 好きじゃなかったかしら? こういうの好きでしょう? 人間て」

「……そういうわけじゃ」

「ほらっおいでよ。ぎゅってしなよ。ぎゅってさ」

 上から覗き込むと微笑んでいてなんだかいけない事をしているような気分になってくる。

「ほらっ」

 躊躇うぼくに伸びて来た手。近づいて埋もれていく。力が抜ける。柔らかくて包まれているみたい。

 気持ち良かった。柔らかい。手触りがいい。高級ベッドってこんな感じなのかな。柔らかく産毛に体が沈みこんでゆく。沈み込んだ先の肉すら柔らかい。程よい脂肪と言うよりは筋肉が脂肪と感じるほど柔らかい。しなやかで柔軟。人間では到底再現できない肉。

 人は人の頭と獣が如き体を持つ生物に完勝することができなかった。

 銃を持ち優勢に立とうとも、銃を取られ反撃されて、手も足もでなかった。

 でも全ての獣人が人間に対して攻撃的だったわけじゃない。人間でも同じ獣人でも同じだ。

 突き詰めた究極の一人は勝てたかもしれない。でも大半は有象無象だもの。戦線は泥沼化して決着はつかなかった。

 息が深くなる。匂いが良かった。密着することでより強く匂いを感じる。

「ふふっ。クンクンしなよ。ほらっ。谷間をクンクンしなよ。クンクンって」

 人の匂いじゃない。良い匂い。頭を撫でられる。

「匂い嗅いじゃったんだ。ムグムグクンクンしなよ。ここフェロモンでるとこだかんね。もっと強く密着しなよ。いっぱい嗅ぎなよ。クンクンって。唇擦りつけなよ。ムグムグって。ほらっ擦りつけなよ。私のフェロモンつけなよ」

 その言い方はどうなのとは思うけれど、眠くなるのも確かだった。

「君、初めてでしょ」

 耳の穴に指を入れられて優しく擦られる。どちらとも言えないから無言。顔を上げて苦い顔でリザを見ると、リザはニマニマ笑っていた。嫌な顔。

「変な顔してないでもっとくっつきなよ」

「変な顔なんてしてない」

「ふふふっ。人って視覚で恋をするんだってね。獣人はフェロモンで恋をするのよ。もっと密着しなよ。下腹に当てていいからさ。あんたのって柔らかいんだね」

 言葉はともかく高級ベッドに埋もれるみたいで、気を失うように落ちていた。

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