図書館での出会い
昼休みか放課後。そこが彼女と会える時間。
彼女のクラスに行くのはハードルが高いと思っている私と静かな場所に行きたいと思っている彼女。その利害が一致して、二人だけの秘密の場所みたいになって、私たちが話すのは基本的に屋上だけになっていた。
彼女の仕事の関係上、毎日会えるわけじゃないがなんだかんだ楽しくやっていた。
だから梅雨に入り屋上に行けなくなった今、私は学校に来る最大の理由を失っていた。
「はぁ……」
放課後の図書室で雨打つ窓にため息がこぼれる。
雨の日は憂鬱だ。髪はうねるし靴下まで濡れるし。特に今日は横風が強くて傘を差していても制服まで被害を受けた。タオルを持っていたとはいえ、少しマシになったかなくらいだった。
空調で寒いし、気持ち悪いし、推しに会えないし。本当に最悪な日だ。
カバンに視線を向ける。持ってきた小説は、まだ渡せていない。
図書室にほとんど人はいない。それをいいことに隣の席にカバンを置いて私は読書を始めた──はずなのに、どうしても雨のせいで気分が上がらない。本を読むのは諦めて気分転換に図書室を回る。
図書館や本屋の雰囲気が好きだ。静かで、ただ本が羅列されている空間。好みの表紙や気になるタイトルで借りたり、購入したり。物語の世界に入って予想もしていなかった出会いを果たす。誰か顔も知らない人たちの書いた世界。そこでの心躍る疑似体験。それができる本が好きで仕方ない。そんな本に没頭し、救われてきた。
「あ、須賀さんみーっけ」
「うぇっ⁉ な、なんで⁉」
いるはずのない人が突然本棚の陰から現れて変な声を上げてしまう。彼女は私の反応を見て、いつもより抑えめに笑っていた。顔に熱が集まるのを感じる。周りには人がいなくて胸をなでおろす。
「な、なんでいるの?」
「今日は仕事ない日だったんだけど雨強いから帰る気なくなって弱くなるまで教室で待ってたんだよね。でもさすがに暇になったから暇つぶしで来たんだけど、まさか須賀さんもいるなんて驚いちゃったな」
それはこっちのセリフなんだけども。そういう心臓に悪いことを軽率にしないほしい。
「図書室には来ないと思ってた」
「あたしも行かないと思ってたよ」
想像の範囲内の回答だった。
「ね、おすすめある? 小説読み終わったから返そうと思ってたんだよね」
読み終わった。持ってきた小説を渡すチャンスだ。しかし急な出来事に心の準備は一ミリもできていなかった。
「あー……それなら私が、貸そうか? 貸したい小説、あるから」
「ほんと?」
とはいえ先延ばしにしても仕方がないと思い私は彼女にそう提案した。ぎこちなくなっていたかもしれないが彼女は特に気にしていない様子だった。
本棚から離れ、席に向かい、カバンから小説を取り出す。
「……これ」
「ありがとう」
ブックカバーをかけた、今まで渡していたよりも薄めの小説。それをどうしても彼女に読んでほしかった。渡す手は震え、心臓がバクバク言っている。
「へぇ。須賀さんにしては珍しいね」
「え?」
「あたしが気にいるか緊張してるでしょ。今までが良い感じだったんだから大丈夫だよ?」
「あ、う、うん。ありがとう……」
私が気にしているのはそうじゃないんだけど勘違いしているならそれはそれでいい。否定すると更に言葉を重ねないといけないからそれは避けたかった。
「今日って用事ないよね?」
「え、うん。ないけど」
「小説返したいしあたしも貸したいから教室行こう。途中まで一緒に帰ろうよ」
「いいけど、むしろいいの?」
「あたしがいいって言ってるじゃん」
行こう、という声に誘われて私は荷物をまとめる。肩にカバンをかけて隣に並ぶ。
隣にいるのには慣れたけど、隣を歩くのは初めてのこと。変に視線を集めていないかが、どうしても気になってしまう。
そうこうしているうちにすんなりついた二年A組の教室。彼女の席は窓際の一番後ろのようだ。アニメやマンガで言うところの主人公席。彼女はクラスでも主人公ポジションらしい。
「えーっと……あった」
一度机に小説を置いて、彼女はカバンを漁る。貸していた小説を見つけ次第机の上の小説と入れ替えて私に手渡した。
「今回のも面白かったよ。ありがとう」
「どういたしまして」
「あとこれ。この間の続き」
「ありがとう」
貸していた小説と続けて渡された四巻から六巻をカバンにしまう。
「鍵返してさっさと帰ろう」
「そうだね。今なら小雨みたいだし」
気持ち足早に教室を出た私たちは施錠して、下駄箱に向かう。それぞれ靴を履き替えた。目の端に見える彼女は傘置き場から自身の傘を引き抜いた。私も置いていた傘を探す。
……やられたと思った。ため息をついて頭を掻く。
「どうしたの?」
「傘盗まれた」
「あー、マジか……」
校舎玄関から外に目を向ける。いくら小雨といえど傘が必要な程度には降っていた。
本当に雨の日は憂鬱で最悪だ。
「須賀さんって電車通学?」
「そうだけど」
「ちょうどいいね。あたしも電車なんだ」
──だから一緒に入っていいよ。
そんな声が聞こえて、私は目を丸くする。彼女は言葉が届いていることを前提に、私にはお構いなしにパッと傘を開いた。
「行かないの?」
肩に傘をかけて、笑いかける。
いくらなんでもスマートすぎやしないだろうか。慣れているのだろうか。
ラジオとかだと知り得なかった一面に動揺が隠せない。
「置いて行っちゃうよ」
イタズラに笑う。不可抗力とはいえ、これは狙われた。
「……し、失礼します」
「はーい」
そこまで大きくない傘。くっつかないと両方の肩が濡れる。それがわかっているから彼女は距離を詰める。肩が触れ合う。
こんなの接近戦どころの騒ぎじゃない。どうしようもないほど心臓がうるさかった。現在進行形で寿命が縮んでいる気がする。
「か、傘、私が持とうか……?」
「え? なんで?」
「入れてくれたお礼、的な……?」
「あははっ。律儀だねぇ〜。でも須賀さんの方が身長低いんだからあたしが持つよ」
緊張で空回る。少し考えたらわかることなのに何を言っているんだ私は。
接近戦以上に何を話せばいいのか困り、無言のまま数分が過ぎていく。
先に口を開いたのは彼女だった。
「ねぇ須賀さん」
「な、なに?」
「今日渡してくれた小説って、どんな話?」
「え……?」
私は彼女を見上げる。しかし視線は合わない。静寂に雨音が響く。
小説の内容。どの小説よりも理解しているからこそ、言葉に迷ってしまう。
「渡す時、あからさまに緊張してたでしょ。だから読む前から気になっててさ」
「そう、なんだ……」
「それで? どんな内容? あらすじとか教えてよ」
「……ネタバレしそうだし何も聞かずに読んでほしい、かな」
「……官能小説とか?」
「な、なっ⁉︎ わけなくない⁉︎」
急なことで顔に熱が集まる。内容を濁しただけでそんなぶっ飛んだ考えになると思わなかった。
大体推しに官能小説を渡すファンがどこにいるんですか⁉︎ 渡せるファンとかいるんですか⁉︎
その思いは動揺して言葉にならない。
「冗談だよ。さすがに須賀さんが官能小説を渡すとは思ってないから」
細い目が私を見つめ楽しそうに笑っていた。
「わかってるならそんなこと言われるこっちの気持ちにもなってもらえません⁉︎」
冗談にしてはタチが悪い。反応を見て楽しむなんて本当に良い性格をしている。そういうところも当然嫌いではないが。
「ま、須賀さんがそう言うなら内容は何も聞かずに読もうかな」
「そうしてください」
「ジャンルだけ教えて」
「えーっと、そうだなぁ……」
彼女のカバンの中の物語を呼び起こす。
やりたいことを見つけられなかった女の子が一人の男の子と出会い変わっていく話。見方によっては恋愛小説だけど、あれを安易に恋愛小説と言うのは違うだろう。どちらかと言うと話のメインは主人公とその周りが変わっていくことにある。なら。
「青春小説、かな」
「青春小説?」
「文字通り、青春を謳歌する少年少女の話」
「へぇー。そういうの、何気に初めてじゃない?」
「……そうかもしれない」
どうせ貸すなら楽しく読んでほしくて、彼女に確実にハマるジャンルの小説を選んで渡していた。ミステリーや恋愛系のドラマをよく見るという話をしていたからそれに合わせていた部分は大きい。
「青春小説、好きなの?」
「好きだよ。足掻いて自由を手に入れたり、仲間と何か一つのことに取り組んだり、……私が体験したかったものが詰まってるから、好きなんだ」
「……そっか」
優しい声色をしていた。子供を宥めるみたいなそんな声だった。
「初めてだね。そうやって好きな理由まで話してくれたのは」
「……そうだっけ?」
「そうだよ。貸してくれる小説でわかったつもりになってたけど、まだまだわかってない部分が多いんだね」
「まぁ、そんな簡単に全部わかるわけないよ。話すようになって、まだ二ヶ月しか経ってないんだから」
「言えてる」
彼女はもしかすると私の好みも知りたかったのだろうか。私のことをわかりたいと思ってくれているのだろうか。
自意識過剰かもしれないが、そうだと仮定すると、調子に乗ってしまうけど良いのだろうか。
「でもまだあたしの知らない須賀さんがいるってことでしょ? それを見られる日が楽しみで仕方ないなぁ」
「……そんなに私のこと知りたいの?」
「知りたいよ。須賀さんって面白いからね」
面白いだなんて生まれてこのかた人に言われたことがない。喜ぶべきなのか、少し返答に困る。
彼女が笑顔を見せるもんだから、つられて笑みがこぼれる。彼女の言葉ならなんだって信じられそうだ。もしも彼女が詐欺師だったらきっと私はいいカモになっている。
「……やっといつも通りになったね」
「え? 何が?」
「須賀さんだよ」
私の名前を出して彼女は苦笑する。
「同じ傘に入ってからそんなに? ってくらいぎこちなかったじゃん」
「身に覚えしかない」
「だろうね。挙動不審なのは面白かったけど、やっぱり今まで通りの関係性が一番だからさ。本調子に戻ったみたいでよかったよ」
でもこれは仕方のないことだ。推しと肩が触れ合ったら誰だって同じ反応になるに決まってる。むしろそうなるとわかっているうえでやってきたそちらに非があると言っても過言ではない。
不思議なことにあれだけうるさかった心臓は落ち着いている。相合傘という非日常を推し相手に体験していたから緊張していたのだろう。雨もあっていつになく世界に二人しかいないように感じていた。だからこそ非日常から一度いつもの雰囲気に戻れば近すぎる距離はそのままでも平常心を保てているのかもしれない。……心拍数はやっぱり普段よりも速いけど。
「あ、駅見えてきたね」
慣れたところで別れの時間は刻一刻と近づいていた。
屋根の下に着き、彼女は傘を閉じる。
「ありがとう。本当に助かったよ」
「いいよ、全然。困ったらお互い様って言うでしょ」
「何かお礼させてよ」
「じゃあこれからもファンでいてね」
「それは当たり前だからお礼にならないと思う」
「えー? あたしにとっては最高のお礼なんだけどなぁ……」
当たり前というか、推し変するつもりもない。
ふと冷静になって考えるが相合傘というサービスにお金を支払わなくてもいいのだろうか。むしろお金を払わせてほしいと思うくらい嬉しすぎる体験だった。
多分一生忘れない。走馬灯を見る日が来たら確実に思い出すこと間違いなしだ。
「それなら、また明日からも屋上で会おう。で、交換会とかくだらない話をしよう。あたしからのお願いってことで、よろしく」
それは私にとってはただのご褒美なんですけども。私ばかりが得をしているのですけども。
そう言って彼女はまた傘を開いた。
「え? 電車で帰るんじゃなかったの?」
「実はあたし、別の電車使ってるんだよね」
やられた、と思った。今日二度目の言葉だけど想いは全くもって違う。完全に彼女のスマートさに騙された。
「またね、須賀さん」
軽く手を振って、彼女は雨の中に戻って行った。
私は突然のことに数秒固まって、状況を認識した頃には彼女は随分遠くにいた。
「なに、その彼氏ムーブ……」
これ以上好きにさせてどうしたいんだか。
辛うじて追える距離にいる、傘で隠れた背中を視界にとらえる。
どこまでも彼女はかっこよかった。
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