第10話 憐れな子羊は仮面王子の術中にはまる

 放課後の、二年三組の教室。

 伊吹桃花と秋月龍生は、そこで今、二人きりになっていた。


 三組のクラスメイト達は、ちらちらと二人の様子を窺い、この場に居残っていたいかのような雰囲気を、かもし出していたが。

 龍生が彼(又は彼女)らと目が合うたびに、


「さようなら。気をつけて」


 とか、


「部活、早く行かないと始まってしまうよ? 大丈夫?」


 などと声を掛けて来るものだから、居辛いづらくなったのだろう。一人、また一人と、教室を出て行った。


 結局、教室に残っているのは、二人のみとなってしまったのだが――。


「すまなかったね、伊吹さん。僕のために、わざわざ時間を割いてもらって」


 二人きりの空間が落ち着かず、なんとなくうつむいてしまっていた桃花に、龍生が穏やかな声で語り掛けた。

 桃花は顔を上げ、慌ててフルフルと首を振る。


「いっ、いえっ! わたしの方こそ、ごめんなさい。秋月くん、いろいろと忙しいんですよね? それなのに、こんな時間作ってもらっちゃって……」


 龍生はいつも、全ての授業が終わると、誰よりも早く、迎えの車で帰って行ってしまう。

 部活動は特にしておらず、生徒会からの誘いも、打診だしんがあるたびに断っているそうなので、放課後の学校では、特にやることもないのだろう。早く帰るのは悪いことでもないし、べつに構わないのだが。


 しかし、だ。


 噂だと、塾にも通っておらず、習い事もしていないらしいのに、そんなに早く帰って、毎日何をしているのだろう?――というのが、生徒や教師達の、入学当初からの疑問だった。


「ああ、そんなこと。気にする必要はないよ。家に帰っても、特にすることもないしね」

「……えっ?」


 さらりと予想外のことを言われ、桃花は驚き、小さく声を上げてしまった。

 龍生は『ん?』と桃花の顔を見つめてから、


「どうかした? 意外そうな顔をしているね」


 微笑して訊ねて来たが、桃花はハッとし、さきほどよりも、更に大きく首を振った。


「いえっ、あのっ。……ごめんなさい。秋月くんが、いつも早く帰っちゃうのは……おうちで、何か他に、やるべきことがあるからなのかなって、思ってたので……つい……」


 てっきり、龍生は家を継ぐための、何か特別な勉強などをしているのだろうと思っていた。


 彼は一人っ子だそうだから、必然的に、家を継がなければならない立場に置かれている。

 きっと、御両親の期待も大きく、家業やら何やらを引き継ぐための準備を、今からしているのだろうと、特に誰かに言われたわけでもないのだが、勝手に想像していたのだ。


 龍生は、少し驚いたように目をまたたかせた後、ニコッと笑った。


「なるほどね。僕は、そんな風に思われていたわけか。……いや、申し訳ない。君が思っているほど、僕は勤勉な人間ではないんだよ。家業を継ぐために、今から準備していることなんて……うん、特にないかな」


 そこまで具体的に、自分が思っていたことを伝えたつもりはないのだが……。


 話のニュアンスなどから、どのような想像をしていたか、簡単に察知されてしまったらしい。

 桃花はあまりの恥ずかしさに、全身が熱くなってしまった。


「ご……ごめんなさい。なんだか勝手に、想像しちゃってたりして……」


 ひたすら恐縮きょうしゅくして、小さくなってしまっている桃花の頭に手を置くと、龍生は軽くポンポンと叩く。


「大丈夫。その程度のことで、怒ったりしないよ。それより――」


 そこで言葉を切ると、龍生の手が頭上から離れた。


 どうやら、龍生のスマートフォンに、誰かからメッセージが届いたらしい。

 桃花のものとは違う電子音が、小さく鳴り響いている。


「ごめん。少しいいかな?」


 桃花に断りを入れると、制服のポケットからスマホを取り出し、画面を見つめる。

 そしてフッと笑ってから、素早く画面をタップして、返信らしきものを送ると、再びポケットに放り込んだ。


「もしかして、お家の方からですか?」


 いつもより帰る時間が遅いので、心配しているのかもしれない。

 だとしたら自分のせいだと、桃花は身の縮む思いだった。


「いや、違うよ。……これは別件でね」


 ……気のせいだろうか。

 そう言った龍生は、心なしか、とても楽しげに見えた。


「……はぁ……。別件、ですか……」

「そう、別件。家とはまったく関係ない。――それはそうと、伊吹さん。急な話で悪いんだけれど、これから少し、付き合ってくれないかな?」

「――へっ?」


 いきなり何だろう?

 肝心かんじんな話はこれからだというのに、どこかへ付き合ってくれだなんて……。


 桃花はいぶかしく思いながらも、恐る恐るうなずいた。


「はい……。それはべつに、構いませんけど……」


 でも、どこへ?

 首をかしげる桃花に向かい、龍生は躊躇ちゅうちょなく告げる。


「僕の家にね、君を招待したいんだ。これから。すぐに」

「……………………ふぁぇ?」


 かなり間を置いてから、桃花は奇妙な声を上げた。


 『はい?』と『え?』を、ほぼ同時に発したような声だった。


「……え……、いえ……?……家……って……?」

「家は家だよ。僕の家。ここから車ですぐなんだ。――ああ。帰りも心配しなくていいよ。君の家まで送らせるから」


 早口で告げた後、龍生は桃花をうながすように肩を抱き、机の上の桃花の鞄を持った。


「――えっ? あ、あのっ。秋月、くん?」

「大丈夫。君に悪さをしようっていうわけではないから。それに、そんなことをしようものなら、君の騎士にどんな目にわされるか、わかったものではないだろう?」


 クスッと笑って、龍生は腕の中の桃花を覗き込む。

 程良い身長差の二人であったなら、そんなことをされたら顔が近付き、桃花の心臓は、たちまちバクバクと騒々しくなっていたに違いないが……。


 ハッキリ言って、この二人では身長差があり過ぎる。

 その上、龍生が同じ年頃の男子よりも落ち着いて見え、桃花が童顔であるせいで、恋人同士というよりは、若い叔父と姪――せいぜい、兄と妹のようにしか見えなかった。

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