気がついたら

 目が覚めると、結衣子はベッドに横になっていた。


 体を起こして見回す。


 まるでホテルの一室のように生活感がない部屋だった。装飾品もない。ベッドから見て左手に大きめのドアが見える。右手は壁になっている。正面も壁だ。窓はない。時計も見つからないので、いまが昼なのか夜なのかもわからなかった。


 ベッドから降りた。


 部屋は結衣子のアパートの倍以上の広さがあったが、その4分の1程度は大きなベッドに占められている。簡素だが作りが良さそうな椅子が一脚とテーブルがある。先ほどは気づかなかったが、ベッドの頭側にもドアとクローゼットがあった。


 ドアは予想通り鍵がかかっている。ドアに耳をつけても何も聞こえなかった。蝶番もこちら側にない。防音しているのだろう。


 もう一つのドアを開けると、広めのユニットバスになっていた。クローゼットには各種衣類がまとめられている。


 そして、よくよく探してみたが、電灯やエアコンのスイッチもない。


 完全に外から遮断され、管理されているようだ。


 椅子に座って視線を落とすと、見慣れない姿の自分に改めて驚いた。


「そうだ……浴衣、着てたんだ」


 自分が忍者に守られていて、実は特別な霊媒師で、いろんな組織やら何やらが狙っていて、最終的には国が絡んできた。


 死体が転がる校長室に無表情で入ってきた国からの使者は、一枚の紙を校長に見せると自分を連れ出した。振り向いて見た校長の顔は青ざめ、言い訳をすることさえ諦めたような顔をしていた。


 そうして車に乗せられて、気がついたらここにいる。


 まるで悪い夢を見ていたようだった。実際いつものアパートで目が覚めていたら、これまでの数日間は夢だったと思うに違いない。


 しかし目が覚めたのは見たことがない部屋のベッドの上で、スーツでもジャージふだんぎでもなく、浴衣を着ている。


 この浴衣は証明だった。これを着ているのなら、嘘でも夢でもない。忍者はいたし、それに自分はたぶん霊媒師なのだ。誰かにさらわれて、命を狙われて、体を乗っ取られそうになっている、謎の才能を持った霊媒師。


 ノックされた。


 続けて、鍵を開ける音がする。思わず椅子から立ち上がり、ベッドの後ろに回って、ベッドを挟むようにしてドアに向かい合った。


 扉が開く。


 入ってきたのは、彼女を連れてきた政府の使者を名乗るあの男だ。


 サンドイッチと飲み物のポットが乗ったトレーを持っている。


「お食事をお持ちしました。粗末なものですが、どうかご容赦ください」


 そう言うと、机の上にトレーごと置いた。


 結衣子は彼がちらりと天井の隅を見たのを見逃さなかった。何か聞くべきかも知れないが声が出ない。


 一礼すると、部屋から出ていく。ドアの鍵を閉める音が微かに聞こえた。


 結衣子が目を覚まして5分とたっていないはずだった。彼女が起きるのを見越していたのか、監視していたのか、あまりにタイミングが良い登場に思える。


「もしかして」


 天井を見回す。見つけられなかったが、気付かないだけで監視カメラがあるのだろう。


 そういえば、あの男は天井の隅を見ていた。きっとあそこに隠しカメラがあるに違いない。


 何となく、いたずら心と不安と反抗心から、そちらに向かって、


「べー」


 と小さく舌を出して、ぷいと顔をそらした。


 すると、


「ほう」


 耳元で声がした。


 あまりに唐突で声が近かったので、ひゃ、と小さく悲鳴をあげて振り向くと、いつの間にか忍者が立っている。


「地味な見た目と違って、なかなかに鋭い。よく気付いたものだ」


 不思議と耳によく通る声だった。


 長身で、忍び装束を着込んでいた。淳弥が着ている深い藍色の装束とは膝当てなどの細かい部分が違っていて、色も濃い柿渋色である。頭巾も金属が編み込まれており、まるで兜のようだ。鋭い目元以外は隠れて見えない。


 そして、刀を二振り、背負っていた。


 学園で見た忍者たちとは明らかに違う。しのぶためのものというより、戦闘のための装束に見えた。


「だれ……誰ですか」


 服部学園の忍者じゃない、と彼女は直感した。


「忍者に名を聞いたところで答えるわけがない」ふ、と息を吐いた。

「もっとも、本当なら姿を見せることもないのだがな。伊賀の連中とは違う、ということがわかれば十分だろう」


 やっぱり。予感は当たっていた。


 さっき変な悲鳴をあげたおかげか、今度は声が出る。


「あなたも、私をここに連れて来た人の仲間ですか」


 監視されている部屋に現れたので、政府側の人間ではあるのだろう。でも、それなら何故隠れていたのか。いま姿を現したのか。


「どうかな」目を細めながら答えた。

「だが、あんたが秘密を教えてくれるなら、答えても良い」


「秘密?」


「そう。死者をこの世に黄泉がえらせる反魂の方法だ」


 校長の言葉を思い出した。


『術そのものを知らなければ、あなた自身が使われることはない』。


 知られたら彼女は使


「取引だ。知っているなら言え。さもないと俺もこのままお前の監視を続けねばならん。言えばここから出してやるし、望めばあの学園に返してやっても良い。互いに面倒は避けたいだろう」


 監視の終わり。それはすなわち、彼女自身が奪われる時である。この忍者の言うことは信用できない。それに、そもそも知らないのだし。


「そんなもの、知りません」


「ふむ」謎の忍者は彼女の顎を掴み、眼前まで引き寄せた。遠慮も何もなく鋭く細い眼が結衣子の目を覗き込む。


「離してくださいっ……!」


 圧倒的な腕力だった。両手で掴んでもピクリとも動かない。


「芯のある女は好きだ。だが時と場合による」


 冷たい輝きを放つ目だった。


 忍者の手から逃げることはできない。結衣子が震えているのは力を入れているだけが理由ではなかった。


 怖くて仕方がない。しかしそれと同じくらい、肉親や味方を奪ってまで彼女を手に入れようとする強欲な敵が、憎かった。


 せめて反抗の意思があることを示そうと、きっと睨んで目を逸らさない。


「……ふん」何かに気付いたのか、忍者は彼女を離した。

「確かに、知らぬようだ」


「……?」咳き込みながら、それでも結衣子は相手を睨む。


「そうだろうとは思っていた。ま、それがはっきり分かっただけでも良い」


 異形の忍者は結衣子の眼を指さした。


「気の強さがあだになったな。その眼の奥、人に見せない方がいい。勘のいいやつは気付く」


 思わず目を伏せた。そうだった。彼女の目には何らかの紋様があるらしい。あまりに不用心にその紋様を見せるので、嘘をついていないと判断したのだろう。


 忍者が頭巾を取った。


 体格や口調とは違って、整った顔立ちをしていた。容赦がなさそうな細く鋭い目。目元や頬には傷跡があり、数多あまたの戦いをくぐり抜けてきた様子が見てとれる。彼が背負う刀のように、忍者らしくない艶やかで豊かな長い髪を後ろで結っていた。


「特別に教えてやる。お前の祖母を殺したのはさっきここに来た男だ」


「……!」


「服部半蔵に宛てた手紙に反魂の方法が書かれていると聞いて、先走って殺してしまった。殺す必要などないと言ったのだがな。ああいう性根の腐ったやつは頭も悪い」


 彼女の中で、一気に燃え上がるものがあった。


 いままでは、彼女はある意味では全く蚊帳の外だった。彼女の持つ特別な力に危険な組織や人間が群がってくるだけで、彼女の意思や感情は無視されている。


 しかし、祖母の件は別だ。初めて彼女は『敵』を意識した。


 そうして、爆発しそうな感情がある一方で、妙に冷めた部分が残っている。この非日常に彼女は慣れ始めているのかもしれない。


 彼女の冷めた理性が質問をした。


「どうしてそんな事を教えてくれるんですか?」


 この忍者が嘘を言っている可能性だってある、と彼女の理性は気付いている。


 そもそも、彼は彼女を攫ってきた側の存在ではないのだろうか。だとしたら何故、その秘密を打ち明けるのだろう?


「疑いを晴らしておかないと、俺になびきそうにない」


「なび……え?」


 胸の中の焦げた気持ちを無視するような返事に、彼女は戸惑った。


「冥府を行き来するという能力。半信半疑だったが、どうも嘘ではないらしい。本物なら是非とも俺のものにしたい。そして」近付いてきて、再び結衣子の眼を覗き込む。

「命の危険も顧みずに睨み返す、その強い意志。そういう女を虜にするのが面白い」


「……」結衣子はきつく唇を結んだ。


「はっきり言えば、お前を老人どもにくれてやるのが惜しくなった、ということだ。客も来たようだし、そろそろ消えなければならん。機を見ていずれ迎えに行く。これがお前のあるじの顔だ。よく覚えておけ」


 そう言って不敵に口角を上げ……消えた。


「え!?」


 まばたきの間に跡形もなく消えた。学園の忍者達のように素早い動きでいなくなった、のではなく消滅したように見えた。


 目の前で起こったことが信じられず、先程まで異形の忍者がいた空間に手を伸ばしたが、何もない。窓もない密室から忽然と消えてしまった。


 一人になって、震えが本格的にやってきた。膝が止まらない。後ろによろめいて、ベッドに座り込む。気のせいか空気も重い。


 自分の置かれた状況について考えれば考えるほど不安になってきた。


 今後についてはある程度推測はできる。『その時』が来るまで、飼い殺すつもりなのだ。


「ここにいたらだめだ」


 そんなことはわかっているが、果たして逃げられるのか、逃げたところでどこへ行けば良いのか。唯一の肉親のおばあちゃんは殺され、守ってくれるはずの忍者もいない。


 雷のように、岩のように、炎のように守ってくれると言った忍者たち。


 そして彼らを束ねる、若き伊賀崎家の当主。


「そばで守るって言ってくれたのに」


 年下の忍者を責めるつもりはなかったが、校長室での言葉を思い出しながら、思わず口に出してしまった。


 彼はいまどうしているのだろう。校長先生でさえ手出しができなかったのだから、部下である彼もきっと何もできないに違いない。


 いま自分は、本当に、ひとりなのだ。


 自覚すると、思い出したようにじんわりと目の奥がしめっぽくなった。


 悔しい。


 もし自分に何か抵抗する手段があるのなら、もう自らの命を絶つことくらいなのではないか? しかしそれさえ、監視のもとでは難しいかもしれない。


 逃げることも戦うことも、終わらせることもできない。


 座り込んだまま、呆然と静寂が支配するに任せた。


 しん、と空気が止まった時。


 かすかに部屋が揺れた気がした。


「……?」


 それに気がついてじっとしていると、振動に合わせて、重たい、低い音も聞こえる気がする。


 ベッドから降りてドアに近づいた。


 何の音もしない。幻聴だろうか?


 テーブルのポットから、紅茶をカップに注いだ。


 赤い水面が小さく揺れている。間違いない。確かに部屋が、建物が揺れている。


 その時、ノックの音がした。


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