爪痕に塗り薬

黒本聖南

◆◆◆

 朝、起きたその後で、兄の背中に薬を塗りたくるのが好きだった。


 無我夢中で引っ掻いた無数の赤い爪痕が、眠る前の兄との行為を容赦なく思い出させる。求められたことに対してぼくなりに応えられた証のような気がして、指で爪痕をなぞる瞬間が、それなりに幸せだった。

「背中、ヒリヒリすんだけど」

「……ごめん」

「そろそろ薬、なくなりそうだよな。また買ってこないと」

「ぼくが買うよ」

「いいって、別に。お前は塗ってくれればそれでいいんだよ」

 塗って、塗られて、兄弟だけど、そんな関係。


 今後もこんな朝が続くんだろうなって、思ってたのに。


 どこで間違えたんだろうと思いながら、相手に背中を向けて枕を濡らす。相手の深い溜め息が耳に入った。

「合意の上だよね?」

 兄とは違う、甘みのある低い声。

 ぼくは何も答えない。

「始めたのは俺からだけどさ、受けた時点で君もその気になってくれたんだよね」

 ぼくは何も答えない。

「……ずるいよね、俺だけ悪者にするつもり? 君から俺ん家に来て、君から俺にすがり付いてきたんだよね? 背中や頭でも撫でながら慰めてほしかったわけ? 俺がそれで済ますわけないのに」

 ぼくは何も答えない。

「あいつから注意されてたでしょ。俺も言われてたよ、あいつのいない所で君と二人になるなって。あいつとは友達だから、君のことはずっと我慢してきたのに、それなのに君は……」

 ぼくは何も答えない。

「あいつから電話、けっこう来てる。君のもきっとそうだよ。どうする? 帰る? あいつが迎えに来るのを待つ? その状態で」

 ぼくは何も答えない。

「言ってくれないと何もしてあげないよ」

 ぼくは、

「……しばらく、ここに置いてくれませんか?」

 掠れた声で、そう頼んだ。

「……別にいいけど」

 溜め息と共に、一夜で聞き慣れたベッドの軋み音が耳に入る。寝室から出ていってくれるらしい。

 涙で塗れた瞳が、間もなく、相手の綺麗な背中を捉えた。

 後ろ向きで、シーツばかり掴んでいたから、傷痕を付ける暇もなかった。

「にい、さん」

 聞こえていたと思うけど、相手は振り返らずに寝室から出ていく。

 ──家の塗り薬、あとどれくらい残っていたっけ。

 すぐには思い出せなかった。最後にそれを使ったのがいつかも。

 兄が転職してから、二人の時間は少なくなった。仕事だから仕方ないと、何度も自分に言い聞かせてきて、言い聞かせてきて、言い聞かせて、きたのに、昨日、兄は、兄は知らない女の人と一緒にいてそれで楽しそうに笑っててそれでそれでそれでそれで──気付いた時にはこの部屋に来て、抵抗もせず、されるがまま。

「……っ!」

 ぼくはもう、二度と兄の背中を傷付けることも、兄の背中に薬を塗りたくることもないんだろうな。


 静かなこの場所で、ぼくの嗚咽音だけが空しく響いた。

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