旅立った父に

弥生るっか

七周忌のふんわりとした散文


 お父さん。

 あなたが私の前からいなくなって、数年が経ちました。


 がんを告知され、抗がん剤治療を続けるも、それは来る日を先延ばしにするためだけのものだったので、いずれは……と、思ってはいました。

 そうでなくとも、もう十分な御老体。最近は長生きする人が増えているとはいえ、もっと若いうちに病気などで亡くなる方は大勢いる。だから、早すぎる、ということはなかったのだけれど。

 はじめて病院で知らされた日に、それがいつか来る遠い未来ではなく、もうすぐそこに迫っていることなのだと、あらためて思い至り、夜にお風呂に入りながら少しだけ、泣きました。


 それからしばらくは、あなたが抗がん剤治療のために短期入院を繰り返す間、私は密かに、ひとりで暮らすことに慣れていこうと、その数日間を練習期間にしていたんですよ。

 母と早くに離婚してから、兄二人と私の三人兄弟をほぼ放任で育てていましたね。

 家族を作るということにあまり向いていなかったのでしょう、まあ本当に、色々あって、結局兄二人は父に反発して、高校卒業を待たずに二人とも家出。残った私はそんな度胸もなく、それからずっと、あなたと二人で暮らしていました。

 母や、周囲の人々を見るにつけ、私は『結婚』というものに夢を見るどころか、歳をおうごとに恐怖心すら抱いていましたし、正直な話「この父親のいる家庭と婚せきになるのは、あんまりだな……」とまで考えていたので(これに関しては、今ですらそう思っていますよ。兄の婚家にも色々やらかしてくれましたよね・笑)、結局誰かと結婚もしないで気軽な独身のまま、いい歳したおばさんになるまで、ずっとあなたと二人で暮らしていました。

 他と比べれば多分、あまり仲が良いとは言えない家族だったと思います。けれど、酷く仲が悪いというほどでもない。会話は全然ないけれど、それが通常運転で、無言でも、無視をし合っているわけではない、たまにはテレビを見ながら二人でクスリと笑う。作った料理を食べては美味いと言ってくれる。そんなとても静かな家族関係。

 子供の頃や思春期、あるいは大人になってからも、何度も何度も「いなくなればいいのに」なんて思ったりもしました。病気が発覚したあとですら、そういうこともありました。けれどまあ、本当にいなくなったら寂しいのだろうなと、そんな予感は確かにある、そういう親子でしたけれど。

 そんな風にずっと二人で、そして細かい面倒事は全部あなたにお任せして、私はとりあえず金を稼いでくる、という役回りでしたから、いざひとりで暮らすとなると、色々と覚悟が必要だったんです。


 そんな日々が、およそ二年と四ヶ月。


 その間、あなたはほとんど、痛かったり苦しかったりというのは無かったようですね。そのことは、本当に良かったと思っています。とても痛い、苦しい思いをするのではないかと思っていたので。ただ、抗がん剤治療は気分が悪くなるから嫌だとは言っていましたけどね。

 あくまで父のケースですが、がんという病気に対する抗がん剤は、治癒を目指すものではなく、進行を遅らせる、がんを小さくするものであること、いずれは死に向かうものであること。主治医の先生や周囲がいかに説明しても、あなたはよくわかっていませんでしたね。

「畑仕事なんかしてないで、大人しくしてなきゃだめなんだよ!」

「でも俺ァちっとも痛くねえんだ」

「痛くなったらもう手遅れなんだよ、死んじまうんだよ!」

 あなたとあなたの妹である叔母さんとの冗談じみた会話、今も覚えていますよ。

 がんというものが、原因を取り除けなければ死に至る病気であるという知識はあり、自分がそれであると知らされていてもなお「自分は死なない」となぜか思い込んでいる、まるで「(うちの子)(私)に限って」の典型のような人でした。それはそれで気楽でいられるから、まあいいかと私は思っていましたけど。


 最後の方は、抗がん剤の副作用やがんの進行で、貧血状態が酷くなり、家にいてもベッドで横になっている日が増えました。いよいよ、夜中のトイレにもひとりで起き上がるのが辛くなったあたりで、私も限界を感じ始めました。さすがにこの生活では、私が仕事に行くことができない。私が稼げなければ、父の国民年金だけではとにかく金が足りないわけで。

 だから、あの日、10月の26日。私はあなたに「とにかく一回入院しよう、で、輸血してもらおう」と言いました。あなたもそれに頷きました。とりあえず、あとのことは追々考えるとして、その時はそれでなんとか切り抜けようと思っていました。

 その日の朝には病院に連絡を入れて、入院の手続き。

 その時に少し輸血をしてもらったこともあって、あなたはすっかり元気な気分。

 家に腰痛の痛み止めを忘れてきたから持ってきてくれ、なんて、ベッドの上に座って言っていましたね。私がまとめて持ってくると、「すぐ退院するからそんなにいらねぇんだ」なんて笑ってました。

 私は密かに先生に「多分……帰れないですよね」と耳打ちすると「そうですねぇ」との返事。きっとこれが最後の入院。けれどその期間が一週間で終わるのか、数ヶ月続くのか、それはわからない、そんな状態。ただこの時より少し前に、この先動けなくなり始めたら、緩和ケアに切り替えましょうと話し合ったばかりだったので、心がごたつくことはなかったですけど。


 そうして二日後の10月28日の朝。

 仕事に行く途中の私に病院からの電話。ちょっと来てもらえないかと。


 仕事を休んで向かった先では、すでにあなたは下顎呼吸に入っていました。

 こうなったらあとはゆっくりと、生命活動を終わらせにいくのだと。


「声は聞こえているはずですので、お声をかけてあげてください」


 看護師さんに言われたものの、どうしたものか。

 がんばれ、というのもおかしい。もう頑張らなくていいのだし。けれど、ある人の言葉が思い出される。「母が亡くなったとき、私は最後に『もういいよ』って言ったんだ。そしたらすーっと亡くなった。それが救いになったのか聞こえてもいなかったのかわからないけど、私がもういいよって言ってしまったから死んでしまったんじゃないかって、今でもずっと、そんな風に思ってしまう」という。

 だから結局「娘さんがいらしてますよ」という看護師さんの声かけに続いて「お父さん。……まあ、がんばれ」なんて一言だけになってしまいました。

 あれ、聞こえていましたか?


 父を眺めながら、駆けつけれくれた伯母さんたちと話すうちに、別室で待機していた先生がゆったりとやってきたので、あれ、と思って心電図に目をやれば、ほぼほぼ平らな状態でした。よく見れば、さっきまで下顎呼吸でゼーゼーハーハー言っていたあなたの呼吸の、なんと穏やかなこと。というより、すでに呼吸もほぼ止まっていましたね。ほんの少しだけピコン、ピコンと動くも、それはもう、ただの残り香のようなもので。

 ややあって、先生が時刻を告げてくれました。

 あなたはもう、ピクリとも動かない人になりました。

 眠っているかのような顔でした。

 私達のとりとめもない会話を聞きながら、逝けたでしょうか。


 それから色々と処置をしてもらい、後片付けもして、間に合わなかった人たちが次々とやってきて(結局家族で間に合ったのは私だけでしたね)。

 病院を出て葬儀場へ。

 そこで何人か近所の人が来てくれて、「どうして、何日か前まで元気だったじゃない」とか「眠ってるみたい」など声をかけてくれて。病気の経緯と、結局本人はほとんど苦しむこともなく、穏やかに暮らした後に、穏やかに亡くなったことなどを説明して。聞いてくれていたそのうちのひとりの人が、泣きながら言いました。

「こんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど。私も、こんな風に死にたいわ。こんなに、苦しみもせずに、安らかな、幸せそうな顔をして」

 私はただ笑って、心から頷きましたよ。

 本当に、その通りでしたもんね。


 家の近所の葬儀場だったので、必要なものを取りに、一度家にひとりで帰りました。

「ただいま」と小さく声に出して、玄関と、居間に続く引き戸を開けた時に。

 そうか、と思いました。

 一昨日までここで暮らしていたお父さんは、もう二度と、ここに帰って来ないのか、と。

 お父さんの明日は、もう来ないのだと。今日で、終わったのだと。

 あなたと暮らした居間で、少し、泣きました。


 葬儀場で、父と同じ部屋の畳の上に布団を敷いて。

 兄二人はソファに寝転がって。

 色々と話しをしたけれど、大体は昔の面白おかしいエピソードだとか、困ったやつだったことだとか。穏やかな時間を過ごしたあとで、少し眠って。

 私が施主をつとめた葬儀も滞り無く終わりました。

 遺骨になって帰ってきたあなたに「おかえりなさい」とは言ってみたけれど。

 あまり、実感はありませんでしたね。

 伯母や近所の人には「四十九日あたりにね、色々と落ち着いて、一気に寂しくなると思うから、いつでも言ってね」なんて言われたりもしました。年長者の言葉には実感がこもっていますね。


 四十九日までの間、毎日、あなたの夢を見ました。

 ときには、まだ生きているあなた。

 ときには、もう死んでいるのに、みんなの宴会に参加するために戻ってきちゃったあなた。

 ときには、「あれ、もう死んだはずなのに、なんでいるの?」と疑問に思う私。

 そんな感じの、ありとあらゆる夢を、毎日、毎日見ました。

 頑固で偏屈で、子供に厳しくて、何なら手厳しい暴力もあったりして。うんざりすることのほうが多かったけれど、もう二度と会えないんですね。

 絶対に二度と、会えないんですね。

 生き返ってほしいと心から思えるほど、幸せな家族関係ではなかったけれど。

 正直、肩の荷が下りたと感じることもあるけれど。

 年に一度くらい、顔を見たいし話もしたいなとは思います。

 それももう、できないんですね。


 そして、もうすぐ春が来るという3月頃。

 桜の蕾を見かけて私は「今年の春、もうあなたは桜を見ることはないんだね」なんて思ったりして、その後ふと気付くのです。別に、もともとお父さんに桜を見る趣味なんて無かったじゃん、なんて。まあもしかしたら、密かに楽しみにしていたかもしれませんけど。

 ともあれ、身近な人の死に目にあうと、必要以上にセンチメンタルな気分に浸ってしまうものなのかもしれませんね。

 それから、なにかあるごとに、心の中で報告を繰り返しました。

 いつも通ってたあの道路が、随分と広くなったこと。

 いつも行っていたスーパーがとうとう無くなってしまったこと。

 あなたが世話をしていたメダカ、私が世話を引き継いで、最後まで残った一匹が死んだのが、四年後だったこと。


 最初の一年は、ほとんど毎日のようにあなたの夢を見ました。

 それから、だんだん、毎日は、夢を見なくなりました。

 そして見る夢は、ほとんどが「生きている父」ではなく「死んだはずなのに、いる父」になっていきました。

 六年経ったいま、もう夢は、たまに見るくらいです。けれど大抵それは、そこで生きている父の夢です。なぜなんでしょうね。


 そして、夢はたまに見るくらいですけど、あなたのことを、思い出さない日はありません。

 毎日毎日、一度か、何度かは、あなたのことを思い出します。

 もちろん、いいことも悪いこともひっくるめて、ですけど。


 お盆やお彼岸や命日。

 今も、親戚の人や、兄とあなたの話をします。

 それが、深いものから、ゆるやかなものに変わっていきました。


 けれどね。

 実は。

 今もどこか、実感が無いんです。


 七回忌。

 六年も経ったのに。六年もこの家で一人で暮らしているのに。

 亡くなる二日前まで家にいたせいでしょうか。まだなんというか、長い旅に出ているような、そんな感じもして。

 もう二度と帰っては来ないのに、帰っては来ないけれど、どこかを旅しているような。

 そんな風に、ぼんやりと思っている私がいます。

 あなたの身体はもう無くて、お骨もどんどん、風化していくのでしょうに。

 もう、どこにもいないのでしょうに。

 まだ、どこかにいるような。

 未練ではないのですけど、自覚が足りていないようです。


 だから、それでいいやと思うことにしました。


 きっとあなたは、どこかを旅しているのでしょうと。

 そう思って、これからを生きていくことにしました。


 私もいつか、その旅に出ます。

 その時に会えるかといえば、そんなことはないでしょうし、まあ会えなくてもいいんですけど。

 その旅立ちの日まで、これまでしてきた心の中の問いを、ずっと繰り返していくことになると思います。

 あなたがいなくなってから、つねに問い続けています。

 これからも、きっと、ずっと。

 この先親しい誰かがいなくなったなら、同じように問い続けるのでしょう。

 答えは、ないけれど。



 その灯火が消えるとき、苦しくはありませんでしたか。

 悲しくはありませんでしたか。

 大体において、楽しく暮らせましたか。


 幸せな、人生でしたか。

 

 

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