いかないで 2023/10/24

「行くのか」

老人は声をかけられたことに驚く。

「ほう、儂に気づいておったのか」

老人は興味深そうに声の主の男を見る。

「ああ。あんた、ぬらりひょんなんだろ」

「その通り」

ぬらりひょんと呼ばれた老人はクツクツと笑う。


「なぜ分かった?」

「そうだな、この家には主人がいないって知ってるからかもな」

「なるほど。そういうこともあるか」

ぬらりひょんは仕切りに感心していた。


「どこに行くんだ」

「ちと渋谷へ。ハロウィンにな」

「さすがにハロウィンはまだ早いだろう」

「早めに行って渋谷がよく見える家に居着こうと思っておる」


「ハロウィンに思い入れがあるのか」

「思い入れはないが、仲間たちが集まると聞いてな。百鬼夜行でもしようかと思っておる」

「そうなのか」

男は老人に目をじっと見た。


「何じゃ。まさか行くなと言うつもりか」

男は肯定した。

「ああ、行かないでくれ。この家には主人が必要だ。偽物でも」

「何言っておる。自分でも言うのもなんじゃが儂は邪魔者であろう」


ぬらりひょんという妖怪は、忙しい時にその家の主人のように振る舞い、お茶と茶菓子を食べてくつろぎ、そして帰っていく。

ただそれだけの妖怪である。

何の役にも立たない。

強いて言えば、作業の邪魔である。


「もう何ヶ月もいるだろ。何ならまた帰ってきてもー」

「お前、怖いのだろう。家の主人なるのが」

ぬらりひょんは男の声を遮る。

「それはー」

「子供が生まれるのだろう。自信がなくとも、この家を支える人間に、家の主人にならねばならん」

「俺には、出来ない。怖い」

「それでもだ」


老人は若者を諭すように話す。

「自信が無いのなら、周りを頼るといい。儂を見てみろ。一人では何もできん」

男は思わず吹き出す。

「話しすぎたな」

ぬらりひょんは玄関の方へ向かう。


男は黙ってその姿を見送る。

ぬらりひょんがドアノブに手をかけ、思い出したように話はじめる。

「一つ、言い忘れたことがある。この家を出る理由だが、実はもう一つある」

男は何も言わず、続きを待つ。

「一つの家に、主人は一人だけだ。二人は多すぎる」

そう言ってぬらりひょんは出ていった。


「ただいま」

ぬらりひょんが出ていくと同時に、妻が産婦人科から帰ってきた。

「検査、問題ないって。順調に行けばあとー、ってどうかした?」

妻が顔を覗き込む。

「何にもないけど」

「ほんとに?ならいいけど」

「あのさ」

「何?」

「俺、頼りないけど、頑張るから」

妻は笑う。

「なに言ってるの。いつも頼りにしてるわよ」


自信は相変わらず無い。

だけど、もうちょっとだけ頑張ってみようと思う。


生まれてくる子供のために。


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