力を込めて 2023/10/07

「待って」

思わず、去ろうとした彼の手を握る。

やっちまった。

その言葉が頭の中を駆け巡る。

やってしまったことは仕方がないので、振りほどかれないように、力を込めて握る。

振り返り、怒ったような顔で私を見る。

そりゃそうだ。

さっきまで別れ話をしていたのだ。

これ以上何の話があるというのか。

衝動的にとはいえ、引き止めてしまった。

なにか言わなければと思うが、頭が真っ白で何も出てこない。

このままでは、無事に別れることはできない。

別れる?別れる!

その時、別れるという言葉に天啓を得た。

彼の顔を真っ直ぐ見る。

「さよなら」

そう言うと彼は少し困った顔をして、

「さよなら」

と返してくれた。

よくある別れの挨拶。

こうして私と彼は別れた。

そして私の手から、彼の手がスルリと抜ける。

これ以上引き止めてはいけない。

彼には次があるのだから。


「カーット」

監督の声が響く。

その言葉に、現実に引き戻される。

私は周りに聞こえるように声を出す。

「すいません。台本にないことしちゃって‥」

「いいよ。アドリブ良かったし、君のアドリブは有名だからね」

思わず苦笑する。

視界の端に去っていった彼が戻ってくるのが見える。

「びっくりしましたよ。だめかと思いました」

「ごめんね。私、役に入り込んでしまうの」

大丈夫ですと彼は笑う。

「じゃあ、僕この後別の収録あるんでもう行きますね」

頑張ってねと、衝動的に手を差し出す。

また、やっちまったと思ったが、彼は握手に応じてくれた。

彼の素敵な笑顔を見て、握手の手に自然と力がこもる。

仕方ない。

君は私の好みのタイプど真ん中だからね。

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