兄の記憶


 兄は事故で死んだ。

 それは抗いようのない事実だ。

 けどその事実を受け入れたくないという自分がいる。


 もう二度と兄の顔が見れないなんて。

 あのバカっぽい笑い声も、ひょろっとした後ろ姿も、自分の名前を呼んでくれる優しい声も、一生聞けないなんて。


 だから事実から目を背け、確証のない推測で、兄のことを考えた。

 その結果、あんな事を聞いてしまった。


「本当に事故なの」


 すがるように発した言葉は、兄の親友を泣きそうな顔にした。

 傷付けるつもりはなかった。

 けれど、兄の親友は傷付いた顔をして、苦しそうに顔を伏せた。


 あぁ、本当に事故なんだな。

 それが事実と思い込むしかなかった。

 すごくすごく、やるせなかった。


 兄が死んでから一カ月が経とうとする頃、沙保は兄の親友——陽一に会うため、彼のバイト先にやってきた。

 傷付けてしまったことを、謝りたかった。


 カレーの香りが漂う店内は、夕方になり賑わい始めていた。


「いらっしゃい!おや、珍しいお客さんだね」


 ニコニコした店長が忙しそうに、愉しそうに動き回っていて、なんだかいい雰囲気だった。


「奥の席が空いているよ、カウンターもあるけど。どちらでもお好きにどうぞ」

「……奥の席にします」


 ゆっくり店内を眺めたくて、沙保は奥の静かな席へ座った。


「どうぞごゆっくり」


 兄もこんな明るいお店で働いていたのか——沙保の目には、店内を忙しなく動き回る兄の姿が見えた。


 それからはこの店で働く兄を想像していた。

 身長が高いから目立ちそうだな、とか。

 注文の間違いして慌ててそうだな、とか。

 お客さんに笑われてそうだな、とか。

 陽一くんに助けてもらってそうだな、とか。


 想像の中の兄は、なせかいつも笑っていた。


 そんなことをぼんやりと考えていたら、いつしか店内の人は減っていた。


「もしかして、陽一くんを探しているのかな?」


 繁忙時を過ぎて一息ついた店長の声で、沙保はハッとした。

 気付けば何も頼んでいなかった。

 少し焦る沙保に、店長は声をあげて笑った。


「悪いねぇ、今日は陽一くんいないんだよ」

「そうなんですか……ごめんなさい長居しちゃって。帰りますね」

「いいよいいよ」


 そして、一皿のカレーを沙保に差し出した。


「店長からのサービスだよ」


 甘さを含んだスパイスの香りが鼻をくすぐった。

 いい匂い、と思わず呟くと店長は目を細めて笑った。


「圭くんは注文忘れるととりあえずこのカレーを出そうとしてね。誤魔化せるお客さんもいるけど、常連さんなんかにはバレるんだよ。それでも凄いのは、相手が圭くんだと笑って許してもらえてね。そんなだから不思議とうちのメニューで一番売り上げがいいのはこのチキンカレーなんだよ」


 困ったように腕を組む店長に、沙保は小さく吹き出した。


「バカだなー、もう。ちゃんと注文覚えなきゃいけないのに」


 居ない人の軽口をいいながら、カレーを口に運ぶ。甘いけれど、ほんのり辛い。

 これが兄の好きなメニューか。


「……沙保ちゃん」


 美味しさに頬を緩めていると、店長が目の前に座った。


「変な事を聞いてもいいかな?」

「何ですか?」

「お兄さんは、天国と地獄、どちらに行ったと思う?」


 本当に変な質問だ。

 沙保はスプーンを一度置いて考えた。


 兄は人に愛される人だ。人を、雰囲気を、明るくさせるような人だ。

 けれど、悪い事もしていた。詳しくは知らないが、親友と一緒に悪事を働いていたのは知っている。


「……分かりません」


 兄は悪事を働くようになる前、どこかつまらなそうな顔をしていた。

 でも親友と出会ってから、毎日楽しそうに過ごしていた。


「でも、どっちにも行けなくて彷徨ってる気がします」


 言葉を選んで言うと、店長は微笑んだ。


「……そうだね。きっと、そうだよ」


 そして、ゆっくりと噛んで含めるようにこう言った。


「君がそうだと思ったことが、真実なんだ」

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