駆け引きⅢ
——しかし事態は思わぬ方向に進んだ。
まるであの封筒が、悪い知らせを呼び寄せたかのように。
雨雲が悪い気運を運んできたかのように——
海斗の予報通り、店を出ると外は本降りの雨だった。
三人は駅前でタクシーを捕まえ、拝島の監禁場所へと戻った。
そして部屋の扉を開ける直前、海斗がふと呟いた。
「……嫌な予感がする」
「やめろよな。アンタの言うことは大体事実になるんだから」
茜が軽口を叩いてる間に、深矢は扉を開ける。
錆びれた蝶番の軋む音がして、埃臭さが鼻についた。室内は水を打ったような静けさだ。外の雨音が大きく聞こえる。
「……人の気配が無いのは、由奈が気配消すの上手いからか?」
「アンタ今、由奈が出迎えてくれると思ったろ?」
「……それは是非とも他の場所でやってほしいな」
茜がバカバカしいとでも言うような目で深矢を蔑む。
一方で海斗は、一直線に奥の部屋へと続く扉へ向かった。由奈がいるのは恐らくその部屋だ。
海斗の予感は当たる。海斗が扉を開ける瞬間、深矢はそれを強く感じた。
そして案の定——
「おい!由奈!大丈夫か?!」
海斗の焦った声が響き、深矢は咄嗟に奥の部屋に飛び込んだ。
「由奈!」
まず目に入ったのは、壁に寄りかかって座り込む由奈。息が荒い。怪我をしているのだ。
次に空っぽの椅子。解かれた縄。足跡のように垂れた血痕。それは窓まで続いていた。
そして、割れた窓ガラス。人一人分の穴からは雨が吹き込んでいる。
——拝島が逃げたのだ。
割られた窓ガラスのように、自分の中で何かが砕け、ぽっかりと穴が開くのを感じた。
「んなことあるのかよ……!」
由奈に駆け寄りながら、茜が心底悔しそうに唸った。
「あの野郎、あの状態でどうやって……ッ」
……そうだ、拝島は相当重傷だったはず。
「……ご、めん」
由奈は肩で息をしている。見た所左足大腿部に深い傷を負っているようだ。そして右肘も変に腫れている。
「背中を向けたら、急に、襲われた……そこにあった、ガラス片で……」
「無理して喋んな」
「……けどまだ、十分も経ってない」
深矢は反射で窓を振り向いた。
十分ならまだ足取りが掴める。逃げたにしてもあの重傷だ、そう遠くへは行け——
「無理だな」
見越したように海斗が遮った。割れた窓から下を見つめている。
「雨で全部流れてる。足取りを辿るのは難しい」
「……ッ、くっそ……」
悔しさのあまり、深矢は壁に拳を強く打ち付けた。埃が舞い湿気と混じって空気が悪くなる。この部屋の空気も状況も、全てが腹立たしかった。
——どうしてこうなる?カメレオンの時もそう。今回も、指の隙間から大事な手掛かりが逃げていくのだ。
「……これが、有能な
敵に捕らわれた工作員は、何としても生き延びようとする。それは工作員が生きてこそ価値のある存在だからだ。
基本中の基本とも言える鉄則を、深矢は今になって思い出した。
だから拝島はずっと伺っていたのだ。深矢達が微かにでも隙を見せる瞬間を。
そんな駆け引きとは露知らず、深矢は猶予を与えてその場を離れてしまった。
「俺の負けかよ……ッ」
唯一の手掛かりだったのに。
外の雨音が騒々しく感じる。茜も海斗も、苛立ちのあまり黙りこくった。
——打つ手があるとすれば、あと一つしかない。
勝算はないが、こうするしかないだろう。
「……茜。由奈を頼む。海斗、行くぞ」
視界の隅で茜と海斗が頷くのが見えた。きっと、言いたいことは伝わっている。深矢は海斗と共に部屋を出ようと駆け出した。
「……どう、する気」
背中からの由奈の質問に振り向かずに答える。
「手当たり次第探す。それしかない!」
そう言い捨てて、海斗と二人で部屋を飛び出す。
まだ拝島が逃げてから十分だ。怪我人が十分で移動出来る距離は短いはず。だからしらみつぶしに探せばきっと見つかる。
本能の部分はそう希望を抱いている。
……見つかる当てはないけどな。
しかし理性はそう告げていた。何せ相手はベテラン
SIG以外に協力者がいてもおかしくないし、手当たり次第に探して見つかるような逃げ方はしないだろう。
二手に別れた時、海斗の硬い表情もそう語っていた。
しかし闇雲になる他はない。
拝島は残されたたった唯一の手掛かりなのだから。
三年間探し続けて、やっと見つけた手掛かりなのだから。
せめてもの抗いに、今は微かな希望にすがりたかった。
——しかし希望とは裏腹に、雨脚は強くなるだけだった。
ずぶ濡れになりながら辺りを駆けずり回るも、それらしき人影はいなかった。
飛び出してから一時間。
誰もいない路地裏で、ついに深矢は項垂れるように膝をついた。
視界がぼやけているのは、雨のせいか悔し涙のせいか。
……あぁクソ。
「あぁぁあぁクソッ!」
深矢の号哭も雨の音に打ちのめされたようだった。
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