ストーカーならお好きにどうぞⅢ
大勢の大学生が詰める大教室の真ん中辺りで、圭は心ここに在らずといった感じで窓の外を見つめていた。前方の教壇ではおっとりとした教授がのんびりとした口調で長い話をし続けている。
圭の周りに座る友達は、みんな突っ伏して寝るなり彼女とLINEするなりゲームするなりして各々退屈を凌いでいた。
授業は残り一時間。と言っても初回は大まかな授業の説明だけだからどんなに長くてもあと三十分ほどで終わるだろう。
つまんねーなぁ。
窓から見える桜の木は穏やかに風に吹かれて、残りわずかな花びらをゆっくりと踊り散らしている。その動きに合わせて視線を落としていくと、窓のフレームから外れてすぐ隣で爆睡中の友達のリュックに行き着いた。
持ち主に見離されたリュックはチャック全開で、スポーツブランドの財布が覗いている。
……いくらあるんだろう。
そう思うと同時に本能が騒ぎ出し、心臓が躍動を始める。周りの誰も、圭を見ている人はいない。そろりそろりと手を伸ばす。出来るだけ自然に、まるで自分の荷物を取り出すかのように。
全身の血が熱くなるようなこの感覚も、何事もないような自然な振る舞いも、全て陽一が教えてくれたことだった。
田嶋陽一は今まで圭が出会ってきた中で、ずば抜けてクールで謎めいた、それでいて親近感を覚える人物だった。
初対面は圭が高校二年の時。ちょっとした出来心で、今のようにクラスメイトの財布を盗ろうとしていたときだった。
思えばよく似た場面だ。ただあの時と違って陽一はここにいない。
あの頃も、普通の生活に退屈していた気がする。きっと魔が差すタイミングというのは決まっているのだろう。
そしてその時も思ったのだろう。退屈な時に手頃な獲物がある。その財布は取ってくれと差し出しているようなもの、と——
ダメだ。
脳に制止がかかったのは陽一の声だった。
昔の情景がフラッシュバックする。空っぽの教室で、友達の鞄に手を伸ばした圭を止める、見知らぬ一年生の力強い手。
その瞬間は「ヤバい」と思ったが、彼は咎めるわけでもなく去っていったのだった。彼が田嶋陽一という転校生だということはその後すぐに噂で知った。帰る方向が同じらしく、いつ見かけても一人で孤独そうにいる陽一に妙な親近感を覚えたのを記憶している。
それから詳しい経過は忘れたが陽一とつるむようになって、彼が盗みという反社会的行為に長けている一方で、人の情感に篤いという温かみを持つ、二律背反のような性格をしていることが何となく分かった。
陽一から本格的に泥棒の仕事に誘われたのは、そのことに気付いた頃だった気がする。
圭に『盗み』を教えてくれた陽一は、同時に絶対してはいけないことを圭に約束させた。
身の周りの人間に悪事を働かないこと。
それは身近な人を裏切ることになるからだ。裏切った人からは信用も同時に奪う。その不信感は最終的に自分に向けられ、いつかは自分が裏切られる。
理屈っぽい。初めて聞いた時はそう思った。だがその言葉が正しいことは陽一と一緒にいるうちに分かるようになった。
陽一はなんというか、立ち振る舞いが上手かった。敵も味方も作らず、薄く浮かべた笑顔の奥に泥棒という本性を上手に隠していた。でも本当に、その本性を除けば陽一はいいヤツなのだ。
これからもきっと、少なくとも学生の間は、同じような日々が続くのだろう。松永の親父から依頼された獲物を陽一と協力して盗み、普段は大学生として平凡な時間をやり過ごす。
次の獲物は何だろうか。陽一と盗みの計画を話し合っている時が圭は大好きだった。その時の高揚感も、陽一の得意げな顔も。
それにしても——圭は頬杖をついてリュックの反対側に顔を向けた。
つい先日、盗みに入った時。
「尾けられてる」
陽一はそう言って、珍しく神妙な顔をしていた。
言われた瞬間はさすがに慌てた。警察かもしれないと言っていたが、もしそれが本当ならこの先の裏仕事に影響してくる。今日はそれも含めて陽一の家に泊まりに行くつもりだった。
一体何だったのだろう。メールで聞くのも躊躇われて聞けずじまいだった。
何か来てないかなぁ、と手元のケータイに目を落とす。
同じタイミングで、黒い画面に通知が来た。
『忘れ物!陽一くんに届けておいたよ』
なんだか、中学生の兄がお弁当を忘れて妹に届けてもらうみたいな、新婚の夫が忘れた会議の資料を妻に会社の受付まで届けてもらうみたいな、そんな言い草だ。ちなみに前者は昔の実話。
そして後者の例えに内心ニヤついていると、周りの友達がおもむろに起き、動き始めた。前を見ると教授が教壇からのんびりと降りるところだった。圭も慌てて荷物をまとめ、友達について教室を出た。これで今日は帰れる。早く陽一に会って、この間のこととこれからのことを聞きたい。
そして思ったよりも早く、その機会は訪れた。
圭が授業を受けていたのは校門から一番遠い建物だった。早く帰りたさに校門までの道のりをせかせかと歩いていると、ちょうど一号館の脇を通り過ぎたところでとある男子が視界に入った。
彼は斜め下を見るようにして、圭とは反対側の道の端を歩いている。顔は見えなかったが、圭は何かが見覚えのある気がして、向こうから来るその男子をジッと見ていた。
すれ違いざま、一瞬だけ顔が見えた。
「……よっち?」
それは、授業終わりで門に向かう人の波の中、何か目的があるように颯爽と歩く陽一の後ろ姿に見えた。
いや、間違いない。あれはよっちだ。
——でもなんでよっちが大学に?
圭は足を止めて後ろを振り向く。
陽一は脇目もふらずといった様子で歩いていた。その速さはもはや駆け足で走っているようで、周りの人達は速すぎて陽一に気付けていない、そんな感じがした。
何してるんだろ。
圭はその後ろ姿を追いかけようと走り出す。その時、早足の陽一がのんびりと歩いていた教授と正面からぶつかった。先ほどまで圭が受けていた授業の教授だ。
陽一はすぐに体勢を立て直し、よろめいた教授を受け止めた。そしてすぐに、今度は普通の速度で歩き出す。
「よっち!」
圭は走ってその後ろ姿に追いつく。もう一度名前を呼ぶとやっと陽一は振り返った。圭とすれ違ったことなど全く気付いていなかったようだった。
「よっち、こんなとこで何してんだ?」
陽一は微かに驚いたように目を開き、それから額に片手を当て、照れたような笑みを浮かべた。
「圭を探してた……つもり。全く気付かなかったな」
「ふっつーにオレの横通り過ぎてったけど?」
ボケっとした陽一は珍しい。圭は吹き出した。
「笑うなよ」
少し眉をひそめながら陽一が見覚えのある紙袋を差し出した。「ほらこれ、忘れ物だと」
それは沙保がよく買うブランドの紙袋で、沙保から連絡が来ていたことを思い出す。
「……こんだけのために大学まで来たの?」
「まさか。色々と話したいことがあってさ」
そう言った陽一に、圭も安堵を覚える。きっと圭の抱えてるモヤモヤを解決してくれるのだ。
ここは人が多すぎる。
そう言って何事もなかったかのように歩き始める。
陽一は、フリーターだというのに不思議なくらい大学に馴染んでいた。よく考えれば陽一が大学に通っていないだけで、世間では大学一年生と同い年なのだ。学生ではない陽一が大学生に紛れているのはなんだか潜入しているみたいで面白い。
門の隣にある守衛室に立っている警備員も、陽一が部外者だなんて見抜けるわけもないだろう。
暇そうにあくびを噛み殺す警備員を横目に、圭は少し得意げに門をくぐるのだった。
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