空白の三年、危うい均衡Ⅴ

 ——その日の晩。

 都内某所の酒屋や風俗店が並ぶ一角。小さなビルの三階に松永組の事務所はある。

「……ほう、これは驚いたな」


 そこの会長松永は予想外の訪問客に小さく驚き、事務所のドアを静かに閉めた。

「お前から来るとは珍しい。鍵はかかっていなかったかな?」

「鍵は開けるためにあるんだろ」


 深矢——いやここでは陽一だ——が平然と言ってのけると、松永は面白いとでも言いたそうに含み笑いをした。

「それで、どうしたんだ?報酬に不満でもあったか?」


 ……これから言おうとしていることなど、微塵も頭にないのだろう。

 陽一は静かに首を振る。

「なら次の標的に問題か?」

「問題……ね。そんなところかな」

「ほう、お前にもそんなことがあるんだな」


 松永がソファに座り込むのを待つ。

 一呼吸置き、陽一はドアを向いたまま、松永に背を向けたままで、それを告げる。


「裏仕事をやめることにした」

 松永が動きを止める気配がした。

「……なんだって?」

 陽一はもう一度、今度は振り向いてゆっくりと繰り返す。

「あんたと、仕事で、組むのを、やめる」


 挑発されたとでも思ったのだろうか。その宣告は松永の気を立たせたらしい。予想通りの反応だ。

 松永は怒りを抑えたように口元に笑みを浮かべた。

「それは……突然過ぎる話だな。次は大きい仕事を用意してあるんだが……」

「悪いな。あんたとは金輪際縁を切らせてもらうつもりだよ」


「なら、お前の欲しがっていた情報は?手に入らなくなるぞ」

「もう必要ない」

 松永と組んでいたのはSIGの情報収集のためだ。もう松永に頼る必要はなくなった。


 すると一瞬にして松永の表情が変わり、凄みを聞かせるように下から睨み上げられる。

「……まさか他に提供者が見つかったとでも?」

 そう捉えるのも当然だろう。本当は違うが、わざわざ説明する気もなかった。

「あぁ、そう取ってもらって構わない」

 忌々しそうに拳を握り締める松永に、陽一は平然とした態度のまま背を向けた。


 松永がそんな素振りを見せるのも無理はない。無類の金好きである松永にとって、金でなく情報を報酬に欲しがる『田嶋陽一』は恰好のビジネスパートナーだったのだ。


 だがもう松永組の手を借りる必要はなくなった。このまま協力を続ければ『田嶋陽一』がSIGのことを嗅ぎ回っていることがバレても不思議ではない。そうなると立場が危うくなるのは深矢の方だ。


 そして秋本深矢がSIGに復帰した以上、田嶋陽一の役目は終わる。もう深矢が田嶋陽一を名乗る必要はない。だから、この世界から確実に彼の存在を消していかなければならない。その第一段階が松永と手を切ることだったのだ。


 背後に刺さる松永の視線は、深矢の背中を焼きそうなほど恨みと怒りが篭っている。

「じゃあな」

 深矢はそれに臆することなく、しがらみを振り切るかのように颯爽と事務所を後にした。


 ***


「……ふざけるな」

 仕事相手が去るなり、松永は低く呟いた。その眼は血走り、手は怒りのあまり震えている。


「拝島」

 松永がその名前を呼びつけると、その後ろについていた黒スーツの男が静かに側に寄った。


「奴の近隣を探れ。使えそうな人間を引っ張ってこい」

「手段は」

「問わない。何を使ってもいい……奴が使えないなら、他で穴を埋めるまでだ」


 憎き相手が出て行った扉を睨みつけながら、松永はその口を歪めて笑うのだった——

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