第64話 笹井さんは幻想を

 亜衣さんの冗談を笑ったら、どこからかザラザラと金属がコンクリートをこするような音が聞こえてきた。顔を見合わせる。ショートカットの似合うハッキリした顔立ち、今は目がおびえている。聞き覚えがあるぞ、この音。

 笹井さんだ!

 かげろうの中にぼんやり浮かんだ影が像を結び笹井さんの姿が浮かび上がってきた。バールのようなものを手に地面のコンクリートのタイルをこすりながらやってくる。

「やばい、どうしよう」

「それじゃ、ボクはこれで。明日学校でね。会えたら」

 僕のことを見捨てるんじゃない。おまわりさーん、危険な得物をもった女の子が近づいてきまぁーす! バールのようなものは銃刀法で取り締まれない? そんなぁー! 脳内でおまわりさんに相手してもらえなかった僕は覚悟を決めた。前もあったもんな。目を反らしちゃいけないんだ、猛獣を相手にするときは。

「笹井さん、どうしたの? お出かけ?」

「渡辺くんを待ってたの」

「えっ?」

 地の底から聞こえる笹井さんの声。やっぱり焼きもち?

「亜衣さんにメッセージ送って聞いたんだ。学校で10日は一緒に動物園に行くって楽しそうにおしゃべりしていたのが聞こえちゃったから」

 あ、ああ。そうだよね、盗み聞きしたんじゃなくて、声が大きかったから聞こえちゃったんだね。楽しくはおしゃべりしていなかったけど。

 電車の中でスマホいぢっていたのは笹井さんからの照会に答えていたのか。余計なことを。

「ということは、僕に?」

「そうだよ、渡辺くんに。用があるんだ」

 僕にはなにもないよ、笹井さんに会う用事は。

「これでどう?」

 笹井さんはスマホを突きつけてきた。どうって? 画面には

 女子中学生殺害事件の容疑者逮捕

と見出しがあった。この女子中学生殺害事件というのは、記事によると僕の町で昨年起きたもので、ということは三原さんの事件だった。

「はあ?」

 僕は思ってもいないほど大きい声を出した。

 釣具店の店長の男? そんなのがなんで僕が殺した三原さんを殺したことになるんだよ。意味わからん。ということは、あれだ。

「冤罪だよ。どうしよう、たすけないと」

「渡辺くん、落ち着いて。ちゃんと話せば冤罪じゃないってわかるから。とりあえず移動しよう」

 それはいいけど、さっきのバールのようなもの、いつの間にどこに仕舞ったの? 毎回不思議なんだけど。


 僕は笹井さんに促されて、後継ぎがいなくてつぶれてしまったそば屋のシャッター前にきた。このあたりは駅前なのにさびれていて、閉店して正解だよなと思わせる。

 笹井さんはさっきと同じにスマホを僕に突きつける。

「渡辺くん、真犯人はこいつだよ。冤罪じゃない。渡辺くんは三原さんを殺せなかったんだよ」

「そんなわけないだろ。頸動脈をナイフで切り付けたんだから確実に殺したよ」

「どのくらい深く? 頸動脈って皮膚から3センチくらいのところを通ってるんだよ」

「えっ、3センチ?」

 そんなに深いか? 3センチと言ったら、このくらいのことだろ。皮膚のすぐのところにあるんじゃないのかよ、頸動脈。でも、血が吹き出たんだ。

「血が吹き出たのは、あれは頸動脈を切ったからだろ」

「血は、たらっと垂れるくらいだったはず。ちょっと皮膚を傷つけたくらいで頸動脈切れたら人間なんてすぐ死んじゃうよ。わかった? 渡辺くんは三原さんを殺せなかったの」

 死んでなかった? いや、おかしい。笹井さんが言うことはおかしい。知識だけで現実をわかったつもりになっているだけじゃないか。僕は死体を海浜公園にはこんで隠蔽したんだ。死んでなかったらずっと意識がないなんておかしいだろ。

「三原さんは海浜公園にはこんで、梅雨の時期で水たまりがあって泥をとってきて体に塗ったんだ。雨が降るまでオブジェに見えるようにして隠蔽したんだ」

「どうやって? 意識のない人間をどうやって車も使わずに海浜公園まではこんだっていうの?」

 それは。自転車に乗せて押して、いや荷台に乗せて僕が自転車をこいで腰のところで腕をつかんで僕につかまらせるようにして。そんなの無理か。どうやったんだ? 必死すぎたから記憶にない?

「死んでるんだから立っていられないんだよ? 死体にどういうポーズをさせてたの? 寝てるオブジェなんてないでしょ?」

「いや、それは。記憶にない」

「当り前だよ。渡辺くんは三原さんを殺せなかったし、海浜公園にだって運ばなかったんだから」

「海浜公園に運ばなかった?」

 だって、雨が降った日、笹井さんとアイアイ傘で帰った日に体から泥が流れて三原さんが見つかったんだろ。

「渡辺くんの幻想の正体はそこだよ。死体は海浜公園で見つかったんじゃない。ここ見て」

 笹井さんはスマホを操作して該当の箇所を拡大して見せてきた。

「神社裏の林? これ本当に三原さんの事件か?」

 笹井さんはまたスマホの画面を操作して、記事の被害者について書いてあるところが見えるようにした。中学2年生の女子生徒として三原さんの名前が書いてあった。本当に三原さんの事件だ。

 わけがわからない。僕は三原さんの首をナイフで切った。でも傷は浅くて頸動脈には達しなかった。三原さんは死ななかった。僕は三原さんを海浜公園に運ばなかった。どうしたんだ、僕は。

 ナイフは、仕舞った。あとでも釣り道具箱にあったからな。三原さんを運ばなかったとなると、

「僕は三原さんを小屋に置いて帰ったのか?」

「そう、それが正解」

「じゃあ、三原さんはどうして死んだんだよ」

「三原さんは、釣具屋のおやじに連れ去られて殺された」

 そんな。三原さんは僕に殺してほしいって言ったんだぞ。僕だって三原さんを殺したかった。なんなんだよ釣具屋のオヤジって。どこから出てくるんだ、そんなやつ。

「三原さんは全裸で道に倒れてたのを犯人に釣具屋の軽バンに乗せられてさらわれた。お店の倉庫で犯されて殺された。死体は神社裏の林に捨てられた。これが事件の全部だよ」

「僕のやったことは?」

「なにもしていない。事件の直前まで会っていただけ」

「そんな」

 僕のやったことは、事件的にはなかったことにされてしまった。三原さんは僕に殺されたいと言ってくれたのに。僕は三原さんを殺したかったのに。どこぞの釣具屋なんかにすべて奪われていた。

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