第30話 笹井さんは観ていた?
夜、夕食後に出かける準備をしていたらココノに見つかった。
「お兄ちゃん釣り行くの?」
「そうだよ。お魚を釣ってくるからな」
「イワシはいらない。アジがいいな。プリプリしてて好き」
うん、食べる話ね。
「イワシはプリプリしてないか」
「してないよ。むにゅだよ」
「そうか」
今日はかわいい妹だ。いい日だな。あと少しで終わるけど。
「じゃあ、行ってきます」
「いただきます」
いってらっしゃいだろ。どんだけアジの刺身が食べたいんだ。小学生の妹の小さい手が振られるのを微笑ましく見ながら玄関のドアを閉めた。
三原さんを殺したあと、しばらくは釣りをしようという気分にならなかったし、そのあとは夏になって暑くて釣りなんてやっていられなかったし、長引いた夏が終わっと思ったら入院だった。もう何ヶ月ぶりかの釣りである。夜釣りをエンジョイしたいものだ。おおっと、フリじゃないからな。
堤防におりてゆく階段の手前に自転車をおいて、道具を背負った。良い天気だ。空気が澄んでいるのだろうな、星が近い。ひょいと手ですくえそう。
階段を降りる途中で堤防に誰かいるのを見つけた。僕のプライベート堤防に侵入するとはいい度胸だ。いつも人なんていないだけだけど。
なにをしているのか、釣りには見えない。だって釣り竿がないからな。堤防の真ん中で突っ立って空を眺めているみたいだ。奇特な人もいるものだな。人のこと言えないけど。
あまり近づきたくないのだが、僕がいつも釣っていたポイントのすぐそばだから具合が悪い。どうしよう。どうもなんて挨拶して釣りをはじめるか、なにか見えますかと言って会話にもちこむか、気づかないフリして黙って釣りにいそしむか。
「あれ?」
いかん、先手をとられた。予想外の展開だぞ。
「渡辺くん?」
やめてくれ、こういう展開はロクなことがないと、僕は知っている。
「え? あ、あぁ。うん」
ほら、ヒドい反応になった。
「久しぶりだね」
顔はよく見えないけど、笹井さんだということはわかった。出会い頭にまた謎なことを言う。数時間前まで学校で一緒だったのに久しぶりって。毎日が久しぶりになるだろ。誰か別の渡辺くんと勘違いしてるとか? それとも、この何ヶ月か僕と会った記憶だけなくしてしまったかな。笹井さんならあり得るか。
「僕は釣りにきたんだけど、笹井さんはなにしてるの?」
「わたしの星から迎えが来るのを待ってるんだ」
電波だった!
「ふ、ふうーん」
「冗談だよ?」
「だと思った」
冗談かよ。笹井さん、冗談言うキャラじゃないだろ。
「いいの?」
「なにが?」
「釣り」
「釣りね。ここで釣ってもいい?」
「もちろんだよ。釣るところ見たいな」
「い、いやあ。見ても面白くないよ?」
笹井さんに関わったらひどいことになることはすでに知っている。笹井さんのこと好きだって気持ちは封印したし。デートみたい、わーい。なんて決して思わないんだからな。
うまい口実を思いつかず、笹井さんから逃れることはできなかった。釣竿をかまえる僕の横、拳3個分はなれたところに笹井さんがすわっている。すぐちかくだな。
三原さんと一緒のときは、僕にもたれかかってきたり、肩に手をついて頭越しに海面を眺めるようにしたり、邪魔くさいことこの上なかったけれど、笹井さんはそこまで好き勝手してこない。そこがよいところでもあり、ちょっと物足りなかったりもする。いやいや、ちがうぞ。物足りないと思うのは笹井さんのことが好きだからだろ。アウトだ、アウト。
「まだいいの? 帰らなくて」
「まだ大丈夫、許可とってるし」
三原さんの家といい、理解ありすぎな親だな。うちの場合は、父さんが釣りを趣味としているし、母さんも魚を釣って帰るとよろこぶから、特別なんだと思うけど。
今日は調子が悪いみたいだ。ちっとも釣れない。父さんの子供の頃なんていう昔話では、今よりずっと魚が釣れたらしい。何時間も糸を垂らしてもいっこうに釣れないなんてことはなかったのだとか。父さんたちが釣りすぎたのがいけないのか、海の水温があがったせいなのか、漁師が獲りすぎたのか知らないけど、僕たちの釣りの楽しみは大人たちに奪われてしまった。年金みたいなものだ。世の中すべてそうだ。年寄りが僕たちのものをみんな奪ってしまった。この国の子供は生まれたときから不幸だ。
「あっ」
笹井さんが声をあげた。星から迎えがきたのか?
「浮きが沈んだよ」
「おおっと」
魚がかかっていた。だからといって年寄りへの恨みは忘れてやらないからな。釣り上げた魚はイワシだった。アジを釣らないと、妹のお兄ちゃんへの評価がさがってしまう。どうにかしないと。
「すごいね、釣れたね」
「うん、まあね」
うれしくないんだが。でも、笹井さんと一緒にいるのに海に落ちることもなく、竿がポッキリ折れることもない。今まで無事だ。これは僥倖というもの。ただ笹井さんと一緒に過ごせるなんて、やっぱり今日はよい日だ。あと少しで終わるけど。
月が昇ってきた。半月といったところ。それでも、星しかなかった世界が一気に明るくなった。月の光に照らされた笹井さんは、教室で見るほどかわいいと感じない。三原さんと逆だな。三原さんは月の明りで美しさを増した。すでに死ぬべき運命だったのかもしれないと思わせる。そんなわけはないけど。
「久しぶりの夜釣りでボウズにならなくてよかったね」
ボウズなんて言葉よく知っているな、笹井さん。すまん、妹よ。お兄ちゃんはイワシ一匹しか釣り上げることができなかったよ。魚より、チョコレート菓子でも買って帰った方がよろこぶことを、お兄ちゃんは知っているけどな。
帰ることにして、道具を片付けている。
「笹井さんは自転車?」
「そうだよ」
だよね、三原さんは自転車をこぐことができなくて歩きで来ていたにすぎない。僕たちのアシは普通、自転車だ。笹井さんと二人乗りしたいなんて下心はない。
笹井さんと途中で別れてすぐに家についた。自転車を置いて玄関のカギを開ける。久しぶりだからな、イワシ一匹だって上出来だ。
ん?
久しぶり? 笹井さんに久しぶりの釣りだって話をしたっけ? 笹井さんは、今日はじめて星を観ようと思い立って堤防にきていたのか? 僕の心にもやっと浮かんできたのは、言葉にすると目撃者とか現場検証とかになる嫌ぁな気持ちだった。
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