第22話 三原さんは抱きしめたい

 梅雨の雨はうんざりだという人が多いだろう。僕だってうんざりだ。普通のうんざりさ加減ではない。うんざりを加速させている原因がとなりにいる。三原さんである。

 食べのこして机に仕舞い忘れたコッペパンのように、表面にカビを生やして分解されるのを待つばかりだ。授業中だというのに、視線はぼんやり窓の外の灰色の世界を眺めるともなく眺めている。心が死んでいる。つついたらカビの胞子を飛ばしつつ床に倒れて四肢バラバラに崩れることだろう。見ていられない。うんざりだ、早く梅雨が明けてくれと思う。

 あてっ。

 なにかが後頭部にぶつかった。なにかと思ったら、消しゴムだ。床に転がったのを拾いあげる。

「ごめん、ありがとう」

 笹井さんだ。ノートの字を消していたら手が滑ったみたい。滑りすぎだろ。どんな消し方したら僕の頭に消しゴムが飛ぶことになるんだ。笹井さん、ドジっ子かと思ったけど、そんなものは軽く超越していた。

 拾った消しゴムを差し出す。笹井さんの手がゆっくりやってくる。ポトリと手に落とす。手がやさしく包み込んで、ただの消しゴムなのに貴石ででもあるかのように大切そうに胸の前にもっていった。微笑んでいる。恥ずかしそうなのは、ドジを超越してしまったのを恥ずかしく思っているからか。

 笹井さんのドジのたびに僕は被害をこうむるわけだが、それもつまらない日常のスパイスだな。笹井さんは黒コショウだ。へっぶし。コショウを思い浮かべただけでくしゃみがでてしまった。


 昼休み、給食の延長戦をしてモグモグしていると、鹿島がやってきた。前の席にこちらを向いてすわる。

「ふぁんだ、ぼくはほうはないほ」

「食べながらシャベるな。今日渡辺の家に行っていいか」

 ごっくん。

「ことわる!」

「なんだよ、いいじゃんか。生まれたときからの幼馴染だろ。ということは兄弟と一緒だ。渡辺が兄貴でいいからさ。兄貴たのむよ」

 たしかに僕の方が生まれが早い。

「だが、ことわる。部活はどうした。バドミントン部は雨の日でも部活やるだろ」

「今日は野球部に体育館を貸すことになったんだ。部活は休み」

 爽やかな笑みを見せる。

「だが、ことわる」

 あんな爽やかイケメンを演出しているが、どうせ目当てはココノだ。僕は騙されない。憎らしいときもあるが、かわいいときは天使だからな、うちのココノは。鹿島をちかづけるわけにはいかん。ココノに会いたかったら僕を倒して行け。

 ぴんぴろりん♪

 うむ、スマホにメッセージだ。みじかい昼休みにメッセージを送りつけてくるとは、せっかちさんだ。放課後にでもゆっくり送ってくればよいのに。どうせ僕らは籠の鳥、放課後まで学校から出られないのだからな。

 三原さんからだった。嫌な予感がビンビンくる。内容は。

 放課後教室に残っていて。

 うーむ。僕は放課後すみやかに帰ることにしているのだが。だって、学校にいてもすることがないし、帰って勉強しなければいけないしな。

 でも、ここのところの三原さんの様子はすこしだけ心配だ。貴重な時間をさいてやることもやぶさかではない。やぶさかではないんだが、嫌な予感がやぶさかだと言ってくる。とぼけて帰るか、あきらめて付き合ってやるか。もしかしたらよいことかもしれないし。ないな、きっと。

「放課後に用事ができた。鹿島とは遊んでやらない」

「なんだ、女か? デートなら仕方ない。邪魔するほど野暮ではないぜ」

 背中越しに手を振って去って行った。性格が残念でなければただのイケメンなんだがな、鹿島は残念イケメンだ。


 放課後になってしまった。やっぱり、さりげなく帰ろう。僕にはリスクしかないからな。

 三原さんが見ている。背景にゴゴゴゴゴゴゴゴという文字が浮かんでいそうに、口の端に笑みを浮かべながら、じっと見ている。

 席にもどって、教科書とノートを取り出し、漢字の練習をはじめる。休み時間に終わらせられなかった宿題だ。普段なら授業の間にやってしまうんだが、放課後どうしようかと考えているうちにやり損ねてしまったのだ。家でやっても学校でやっても同じだ。

「渡辺、なにやってんだよ。早く帰ろうぜ」

「鹿島とは帰らない」

 まだあきらめてなかったのか、デートの邪魔はしないんだろ。

「渡辺の家で遊ぶ約束だろ。傘忘れたんなら入れてやるからさ」

 鹿島は僕との会話をすべて忘れることにしているらしい。

「朝から雨だったのに傘を忘れるやつはカンタくらいのものだ」

「よく覚えてるな、でもあれは学校にある置き傘を忘れたと言ったんだぜ」

「うるさい。帰れ」

「扱いひどくない?」

 もう相手しない。宿題を再開する。


「渡辺」

「なんだ」

 ん? 周囲にひとは、三原さんがいるだけだった。人の少なくなった教室というのは寂しいものだな。うす暗いし。僕を呼んだのは三原さんだ。たぶん幽霊ではない。そうだ、三原さんが放課後残れと言ったんだった。ゴゴゴゴゴに負けたんだったな。

「ありがと。返事ないから残ってくれないかと思った」

「うん、どうしようか決めかねていたんだ。学校から早く帰りたいからな」

 そっかと言いながら席を立つ三原さん。迫力で押し切って帰らせなかったのは三原さんだけど。

 自分の机の横に立って、そのまま机にすわった。目線があがって話しにくいんだが。

「渡辺も立ってこっちきて」

 三原さんの正面にこさせられた。僕も自分の机にすわれってことか。向かい合って楽しくおしゃべりしようって魂胆か。

「そうじゃなくて、もっとちかづいて」

 ちがうらしい。狭い通路なんだ、ちかづくまでもなく近いぞ。三原さんがスカートの中で股を広げるから、僕は仕方なしに脚のあいだに陣取ることにした。

「これはなんだ」

 わけがわからん。三原さんが抱きついてきた。背の低い僕に背の高い三原さん、机にすわってさらに高くなった三原さんに抱きつかれたら、僕は胸に顔をうずめることになるわけで。悪くない。感触は悪くないんだが、三原さんにそんなことをされる言われがまったくなく、むしろ後ろめたい気分なんだが。

「これはちがう」

 三原さんもおかしなことをしている自覚があったみたいだ。

「逆だね」

 へ?

 三原さんは机から降りて、僕を押すから机にすわることになり、また抱きついてきた。なんだこれは。なにかの実験なのか?

「渡辺ちっさいな」

「余計なお世話だ」

 人が気にしていることを指摘するんじゃない。しかも男の子に言ってよいことではないぞ。トラウマになるじゃないか。おっきいと言ってほしいわけではないが。

 机にすわっても身長差を補いきれず、三原さんはすこしかがむ格好になっている。僕は僕で股を開いて腰を反らせる体勢、すこしツラいぞ。でもまあ、この歳になって他人と抱きあうというのも経験のないことで、さっきとは違う感触だが悪くない。でもなんで、僕たちは抱きあっているんだ。

 いや、抱きあっているわけではないか、一方的に抱きつかれている。僕の手は机に突っ張っているんだ。三原さんの重さに耐えなければいけないからな。そうでなければ押し倒されてしまう。すこしだけ貞操の危機を感じる。机に倒れたら襲われてしまうんではないか。僕の腕、ガンバってくれ。

「キスはガマンしたから、このくらいはいいでしょ?」

 耳元でささやいてきた。背中がゾクゾクするじゃないか。これはキスの代わりなのか。だが、僕にはキスされる理由も、抱き締められる理由もないはずなんだが?

 これ、立場が逆だったら絶対犯罪だぞ。僕がキスをせまったり、キスをガマンしたからといって抱きついたりしたら、通報するだろ。ということは、僕も通報したっていいはずではないか。相手にしてもらえないだろうけど。


 雨はやんだらしい。夕方の光が教室に差し込んできて、すべてを橙に染める。僕たちはフェルメールの絵みたいに、やわらかな陰影の中にたたずんでいることだろう。ここにフェルメールがいないのが残念だ。


 このときの僕にはわからないことばかりだった。今の僕なら推理できる。三原さんは、命の残りを燃やし尽くそうとしていたのかもしれない。

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