第21話 僕はキスしたことがない

 5月のあいだ週に3回も4回も、僕たちは海に出かけた。三原さんは海で泳ぎ、僕は釣りをしたり、寝転んでぼんやり夜空を眺めたりした。

 何度も泳ごうと誘われたけれど、寒いから嫌だと言って断った。三原さんは気分を害した様子はなかったけれど、断られてもお構いなしで、またつぎのときには誘ってきた。根気強さの権化みたいなひとだ。

 夜の黒い海にはいって楽しいという気持ちが、まったくわからん。不気味だったり、ちょっぴり怖かったりするものだろ。とはいえ、夏になって海の水があたたかくなったら付き合ってやってもいいかという気持ちになった。面倒なことになりそうだから、三原さんにはそのときまで言わないけど。


 5月がおわる。6月になるとすぐに梅雨という名の雨季がやってくる。そうなったら釣りはしない。雨の日も釣れるという話を聞くが、そこまでして釣りをしたいと思わない。海がにごるから三原さんだって雨の日に泳ごうとは言わないだろう。言うかもしれないけど。さすがに反対する。

 梅雨のあいだ、2ヶ月くらいは釣りもできず、三原さんとの変な遊びも中断だ。すこしさみしい気もする。心配なのは、学校での三原さんだ。面倒なことにならなければいいけど。


 今日はまだ月がのぼってこない。その分、星がキレイだ。中学生は勉強しすぎて目が疲れているから、星を眺めるのは目の健康によいはずだ。たっぷり眺めておく。

 堤防で寝転んで星空を眺めていると、宇宙に浮かんでいるような気分になるな。あるいは、宇宙に落ちて行きそう。宇宙は基本的に無重力だから落ちはしないんだけど。落ちそうなそわそわ感みたいな不思議な感覚がある。

 三原さんが海からあがってきたらしい。しばらく泳いだら堤防にあがってきて休むのだ。ペタペタとこちらに歩いてくる。

「渡辺」

「なんだ」

 寝ころんだまま返事する。波音に乗って宇宙から声が聞こえるみたいだ。変なの。

「キス、したことある?」

「あるか、そんなもん」

「したくない?」

「そりゃあ、いつかな」

 なんだ突然。変なことを言い出したぞ、気をつけろ。

「今は?」

「今と言ったら」

 三原さんが堤防に手をついて僕の上にかがみ込んできた。僕から見たら、三原さんの顔は上下逆さまだ。三原さんから見ても同じだけど。

「相手はわたししかいないね」

「三原さんとは、仲良くなったとも言えないけど、女子の中では唯一普通に話をする仲かな。そんな風に誘われると意識してしまうけど、好きとはちがうと思う。僕にはまだわからないんだ。三原さんが嫌なわけではないけど、今じゃないって思う」

 僕が話しているあいだに距離がちぢまる。これはまずい、顔を引こうにも堤防のコンクリート床に頭をめり込ませることはできないし、横に逃げようにも三原さんが腕を突っ張って体を支えているから腕が邪魔で頭の動きがとれない。前に進んだら思いっきりキスすることになる。罠だな。

「嫌じゃないならキスしたいって言ったら?」

 顔がちかい。というか、唇がちかい。

「そんなに? 未来の僕の彼女に恨まれるよ」

 三原さんはかたまったまま、しばらく動かなかった。

「知らない。未来のことなんてわからないじゃん。渡辺ずっと彼女できないかもしんないし」

「そこかよ。失礼なやつだな。その可能性もあるんだが。そこが確定するころには三原さんに彼氏ができてキスし放題だろ」

「渡辺はなんもわかってない」

 三原さんは顔を離して立ち上がった。背中もお尻も見せて歩いてゆく。顔を横向けて見送っていると、渡辺のアホーと叫びながら堤防から飛び出して海にはいった。


 なんだったんだ、今のは。発情期なのか? 女の子には発情期があるのかな。生理があるとは知っているけれど。

 もしかして三原さんは僕のことが好きなのか? いや、ないな。好きだったらさっきの場面で好きといってからキスしようと言ってくるはずだろ。キスしたかったら好きじゃなくたって好きと言っておくという手もある。それなのに言わなかったということは、三原さんは僕のことを好きじゃない。ということは、単純に唇が目当てだったのね!


 三原さんの奇行のせいで、暑くなって嫌な汗をかいたぞ。キスかぁ。僕にはまだ遠い世界のことだ。だからキスが唐突に向こうからやってくると怖気づいてしまうんだ。怖気づいたのか? いや、すこしちがうな。したいけど勇気がなくてできなかったのではない。

 女の子とキスする想像くらいはしていた。フィクションの世界にしかないものだと思っていたけれど。フィクションだったはずなのに、三原さんによって目の前に突きつけられることになった。それですこし動揺したんだな。うん、動揺だ。

 さっきは本当に唇がつきそうだった。キスしたいどころか、してやってもいいぜなんておごった態度でもキスできてしまうところだ。しかも三原さんとだ。大人美人だ。もったいないことをしたのかもしれないけれど、そんな風には感じない。むしろ三原さんとってところが現実味を薄めている。キスしていたとしても、それはキスなのか。別の行為のような気がしたかもしれない。

 僕は起き上がって、もう一度釣りにはげむことにした。釣りをして落ち着くんだ。と思ったら、すぐにアタリがきて驚いた。今日の釣果はまずまずだ。


 三原さんとのキスは、このとき未遂に終わった。あとで殺してしまうことを考えると、三原さんがしたかったならキスするくらいなんでもなかったかもしれない。命の代償として、キスは軽すぎるけれど。

 6月8日、僕たちの住むあたりは梅雨入りした。毎日雨が降るようになって、釣りは休みにはいった。僕が三原さんを殺すまであと1ヶ月。

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