第15話 笹井さんを逃がす

 大事そうに手を胸の前に抱える笹井さん。いや、胸を見てないぞ、僕は胸のまえの笹井さんの手を見ているんだ。私服の笹井さんは新鮮。かわいい。僕は笹井さんの手を見ているんだ。説得力なし!

「わ、わざとじゃなくて。となりにひとがきているって気づかなくて」

 笹井さんと目が合う。笹井さんと触れ合った手が尊く感じられてくる。できるだけ手を洗わないことにしよう。

「偶然だね」

「そっ、偶然なんだよ。でも、ごめんね手に触っちゃって」

「そうじゃなくて、ここで会ったこと」

 いや、それは運命。じゃなかった、ありがちなことだと結論を出したばかりだ。一緒に帰って、1軒しかない本屋にくるタイミングが同じだっただけ。

「うん、そうだねー」

 ここで意見を対立させても意味はない。話を合わせておこう。手が触れたことから話題がそれるのはうれしい。

「本、買うんでしょ?」

「もちろん」

「早く買って帰らなくていいの?」

 本より笹井さんのほうが大事だ。でも、こんなところで立ち話もなんだし、お茶でも飲みながら話そうかなんて、言う勇気はない。

 いや、思ってない。そんなこと思ってないさ、笹井さんは僕のことを疑っているんだからな、親しくなんてなるわけにいかない。

「そうだね、買って帰ろう」

 笹井さんが手で勧めるから、先に本を取る。手を振ってくるから、見とれないようにして体の向きをかえてレジへ向かうことにした。

 本屋のドアを出るとき、笹井さんがレジに立っているのが見えた。僕を先に行かせたかったみたいだな。エロ本でも買ったのかな。鹿島ではないか。


 自転車にまたがり、こぎだす。空は明るいが地上はもう暗い。日没を過ぎている。空もすぐに明るさを失い夜になる。黄昏時というやつだ。妖怪が出る。

 コンビニのまえにくると店内の明るさがまぶしいくらいだ。裏の公園に差し掛かって、笹井さんがやっぱり自転車で僕のうしろについているのに気づいた。つけられているのか? まさかなと言いたいところだが、僕のことを疑っていることを考えると十分にありえる。本屋でのあれは罠か。

 おもむろに自転車を降り、公園入口のポールの間を通る。本当はダメだけど、また自転車に乗って公園を突っ切ることにする。笹井さんをまいてやる。

 ベンチはすわるものもなく、さみしくたたずんでいた。公園を出るときも一度自転車を降りないといけなくて面倒だけど、しかたない。振り返っても笹井さんの姿はない。公園を遠回りしているのか、まくことはできたみたいだ。

 せっかくまいたんだけど、姿が見えるまでは待ってやるか。自転車に乗って体をひねる。運動会でリレーのバトンを待つ気分。この体勢をつづけたら腰が痛くなりそう。

 こないな。公園を迂回してもここにくるはず。自転車を押して公園を突っ切るにしても、遠回りするにしても、こんなに遅くならない。心配だな。

 僕はなにを心配しているんだ。笹井さんは僕を疑っていて、本当に僕は人殺しなんだ。笹井さんになにかあったって知ったことではない。そのはずだろ。むしろいなくなってくれたほうが好都合なんだ。そうだな、帰ろう。

 どうした僕。なぜ自転車を放りだして公園に駆け込む。なにを焦ってる。さっき通ったときガラの悪い輩なんて見かけなかったろ。笹井さんはなにか用事があって別のルートをとっただけだ、きっと。なのに心臓が、呼吸が、僕を急かす。笹井さんになにかあったら、どうなる。僕は自分を許さない。殺す。僕を殺すな、きっと。

 笹井さん、笹井さん。無事でいてくれ、笹井さん。全力で駆ける。

 コンビニ側の公園入口がちかづいた。ベンチはカラだ。足を止めて、中腰で呼吸を整える。笹井さんは公園にはいらなかったか。はあ、よかった。力が抜けそう。

 物音がして、ベンチの裏の植木を回り込む。男がいた、笹井さんの顔が見えた、苦しそう。自転車が倒れていた。頭に血がのぼったぞ。カッとなって男の頭だか顔だか知らないが、そのあたりをかまわず殴りつける。手に熱を感じる。痛みだ。

 男は体勢をくずしたが、一歩で踏みとどまった。笹井さんは男の腕から逃れようと手を突っ張っていたから、手を離されたはずみで尻もちをついた。

 くそっ、笹井さんを! 熱く感じる拳をかまわず、男の同じあたりに向けて叩き込む。動かなくなるまで攻撃を止めないつもりだ。

「笹井さん、逃げて」

 相手はひとり、攻撃をつづければ笹井さんを逃がすことができる。もう一発。

 僕の拳はかわされた。空気を殴ってふわっと感じたところに衝撃がきた。腹を殴られた。息ができない。体を折って痛みに耐える。胸ぐらを掴まれて体が起こされる。苦しい。お腹いたい。

「誰だテメエ」

 顔が吹き飛ぶように感じて、僕は衝撃で地面に叩きつけられた。側頭部と肩を強打した。

「あの女、本当に逃げたか。助けにきたのに見捨てられてやんの、ダッサ」

 男が去ろうとするらしい気配を感じた。笹井さんを追う気か。僕の体が動いて、男のふくらはぎのところのズボンをつかんだ。うん、もうすこし時間稼ぎが必要だな。

「なんだ? コラ」

 四つん這いのカッコウで手を伸ばしたから、脇が伸びていた。蹴りが脇腹にきて、僕は地面を転がった。痛ぇ。意識も薄れてきた。視界が悪い。だが許さない。この男も、僕のことも。

 土をつかんで、立ち上がりざまに顔に向かって投げつける。男の腹に向かってタックルをかます。男はうおっとか声をあげたけれど、タックルを受け止めて、膝蹴りしてきた。腹に膝を受けて、意識はさらに薄れ、視界は暗くなった。笹井さんを逃がすくらいの時間は、なんとかなったか。

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