第5話 笹井さんは、ここにいる。
梅雨が明けた。よろこばしい。今日は終業式だった。ということは、もう夏休みにはいった。大変よろこばしい。今までの人生でもっともうれしい夏休みがやってきたと言ってよい。ルンルン。
なんせ、笹井さんと顔を合わせなくて済むからな。顔を合わせるどころか、顔をこちらに突き出して見つめてくるから笹井さんはやっかいだ。あんなことがあったのだから、股間がそわそわしてしまうのも無理はないな。そうだな。夏休みになったからには、笹井さんにわずらわされることなく心おだやかに過ごしたく思う。なんの宣言だよ。ちょっとハシャいでしまった。
自慢になるけれど、僕は頭がよい。勉強ができる。夏休みと言ったら、塾の夏期講習である。成績優秀者を集めたSクラスで夏期講習を受ける。僕は通常の授業でもSクラスであり、夏期講習だって顔見知りのいつものメンバーである。塾では別の中学の人間とも交流する。むしろ仲良しだ。受講生の中には、夏期講習だけ受講する外部生もいて、いくらか浮いた存在である。
浮きすぎた存在が、ここにいる。
笹井さんがなんでここにいるんだぁー! しかもわざわざとなりの席にぃ。
この塾に通ってはいないはず。ということは夏期講習だけの外部生。外部生でこのクラスにはいるには、実力テストを受けて優秀な成績でなければならない。笹井さんは、そんなに成績よかったかぁー?
「あの、笹井さん。よくこのクラスはいれたね」
「うん、いっぱい勉強した」
もしかして、夏休み中も僕に会いたくて? 女の子に夏休みも会いたいなんて言われてよろこばない男子がいるだろうか?
いるっ! 断っ然いる。ここに!
だって、笹井さんだぞ? 僕のことを人殺しだと疑っている。しかも本当に僕は人殺しなんだ。笹井さんは僕のことを夏休み中も監視したくて夏期講習に通うことにしたんだ。ほかに理由は考えられない。同じクラスにはいるために猛勉強までしたという。すごい執念だ。むむむ。僕のこと疑うのはやめてもらいたい。敏腕刑事に目をつけられた殺人犯の気分だ。心臓に悪いぞ。グッバイ、僕のおだやかな夏休み。
心を落ち着ける間もなく授業が始まってしまう。学校の授業とちがって高度だし進みも速い。笹井さんのことを気にしてなんていると、すぐにおいて行かれてしまう。
笹井さん? なにしてるんだよぉー、わざわざ夏期講習にきてなぜ僕の方ばかり見つめてくるんだぁー。学校のときほどあからさまではないけれど、ノートも取らずにこっちを向いている。おっと、練習問題を解く時間だ。問題に集中しろ。
できなーい! 笹井さんは問題を解く気がないみたい。ずっとこっちを見ている。手がまったく動いていない。ほら、先生がまわってきた。
先生、なぜ素通り? 笹井さんなんもやってませんけど?
「あ、先生。質問いいですか」
ええっ、笹井さん質問するの? 授業まったく参加してなかったじゃんかよぉ。積極的に質問してくる外部性がうれしいというオーラを発散させて先生が中腰になる。もういろいろ意外すぎてツッコミが追いつかん。
先生が去った。笹井さんの方を見ると、うれしそうな横顔にぶつかった。まぶしい。わかっちゃったってか。知るよろこび、あまり感じてほしくないんだけど。笹井さんに知ってほしくないことがあるからなっ。
笹井さんのノートをのぞくと、文字がいっぱい。予習かぁ! 予習してきたから授業の内容をすでに勉強していて、練習問題を解いてきたから質問もできたのか。恐るべし、笹井さん。
「渡辺くん、今日は集中できてないみたいだけど」
「あっ。すみません」
くぅ、先生にバレていた。そりゃそうだろ、集中なんてできるわけがない。となりに笹井さんがいて、ツッコミに神経を集中させられているんだから。ぐぬぬ。
午前中は国数英の3教科、午後は理科と社会の授業がある。僕は私立志望で3教科しか受講しないんだが。
塾のエアコンは強力である。教室が広いからな、強力でないといけないんだろう。1時間目も終わり近くになるとエアコンが効きすぎて寒くなる。僕は塾生だから熟知している。長袖を着てきたし、カーディガンをバッグの中に用意してある。だがだ。
となりの笹井さんが寒そう。ちぢこまってぷるぷる震えている。僕はそこまで寒く感じない。カーディガンを貸してやろうか。いや、そんな恥ずかしいことできるかぁ! 笹井さんと親しくするのもいかん。僕のことを疑っているんだからな、関わりが増えたらどこかでボロを出しかねない。
ならどうする。疑われているからって、こごえた女の子を見殺しにはできない。
「先生!」
「どうした渡辺くん、質問?」
手をあげて、直訴するしかない。
「寒いんで、エアコンの温度あげてください」
「そうか、そろそろ涼しくなってきたものな。となりの、笹井さんも寒そうだな」
ちいさくうなづいた。なぜ笹井さん。寒いって言ったのは僕なのに。
エアコンのコントローラーのところへ行って操作してくれる。
「28℃でいいか、エコで。暑くなったらさげればいいな」
「ありがとうございます」
ふう。ともかくこれで大丈夫だろう。笹井さんの方へ顔を向けると、微笑みかけてきた。
「ありがと」
別に、笹井さんのためにやったわけじゃないからなっ。いや、思いっきり笹井さんのためじゃないか。僕はなにをしているんだぁー! くっそー。お礼を言われたくらいで、うれし恥ずかしウキウキな気分になるんじゃなーい。ほれちゃダメだ。笹井さんは僕を疑っているんだぞぉー。かかわっちゃダメなんだって。
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