第23話 霧の谷
兵士の行軍は過酷だ、朝は日が昇る前に起きて、簡単な食事、運が良ければ温かい物を口に出来る、夜露で湿った天幕や外套を背負って歩き始める、
日が昇りきる頃には背嚢の重さが肩に食い込み身体と一体化する、
時に遮るものない日差し、時に荷馬車の砂塵、時に午後のにわか雨を浴びながらも黙って歩き続ける、縁の下の力持ち。
やっと夕方に宿営地と言う広場に着き、火を起こす。
兵士は外套にくるまり木の根を枕眠る、それすら交代で警戒歩哨をするので、慢性的な睡眠不足。
わたしの気球部隊は全て女性、さすがに女性だけでは心もとないからレッケブッシュ伯爵が一個小隊を護衛につけてくれた、
お針子やメイド達は交代で荷馬車に乗ったりしているけど、わたしはシーラに抱っこされて馬の上、今まで幼女の目線でしか世界を見ていなかったけど、
馬上から見える景色は壮観で異世界旅行気分。
自国を行軍している時は、整備された道、農民たちが遠くの畑の手入れをしているそんな、のどかな農村地帯の平坦な土地だったのが、次第に丘陵が増えてきて、木立も目立つようになると、それに合わせるかの様に農家も減っていく、
木立が林になり、やがて切れ目のない森、忘れた頃に開拓村が現れるだけ、
軍は魔物の森に入った、
「ねぇ、シーラ見慣れた景色だね」
「確かに、私達の住んでいた家は谷二つ南ですけどね、こっちの方は霧が多いから嫌いなんですよ」
「場所が分かるの?」
「川の流れと尾根の位置からだいたいは、ですが明日には尾根を越えます、そうなればやつらの縄張りになりますから」
羊獣人の国と明確な国境は無い、魔物の森の中間に横たわる尾根はお互いに超えない様に、と言う不文律があるだけ。
結局尾根の手前で野営した、気球部隊のお針子やメイドさん達は一晩ぐっすり眠って爽快な顔をしているけど、歩兵のみんなは朝から疲れた顔、
無理もない、連日重い荷物を背負って一日歩き、夜は交代で歩哨勤務だからね、
いよいよ尾根を越えて敵地に入る、もっとも霧が深くていつ尾根を越えたのかが分からないくらいだったけどね。
「敵がいますよ」
「シーラ、何言い出すの? 霧で何も見えないよ」
「シスネもガルサも鳴いていません」
もうとっくに日が昇っている時間だが、太陽の方向すら分からない、沈黙のミルク色の中を不安と緊張を抱えて進む。
白い幕の奥には敵が潜んでいる、それでも進まなければならないとは軍隊とは不条理な物だ、
朝凪で風もない時間帯に、灌木がまばらな森の道を進んでいると、行軍の前の方で怒声が静寂を切り裂いた。
“戦闘だ!”
ヒュン、ヒュンと言う矢の音が隊列の前の方向から聞こえてくる、
「盾を構えろ」
「次が来るぞ!戦闘隊形」
怒号と馬蹄の音が交錯する中、皆の視線は前側の森の中に向いていた。
細い道の連なる丘陵地帯にポッカリと開いた平地、グートシュタイン遠征軍はそこまで下がって陣をひき直した様だ。
霧の中状況はさっぱり分からないが、敵がいる事だけは間違いない。
「全員下馬しろ、馬はまとめておけ」
馬は便利な乗り物だが、戦場で興奮して暴れ馬となると、敵味方関係なく被害を及ぼす。
「護衛は気球を囲め! 飛空艇要員はいつでも飛べるように展張しておく様に」
先程は前方から攻撃が来たので、隊列の誰もが前側に神経を集中している。
だが“次”は全く逆方向の右側の森から音も無く現れ、戦列の背後に刃を向けた。
背後から攻撃され大混乱に陥る遠征軍、
やっと戦闘正面を右に向けた時には羊獣人は来た時と同じ様に、静かな白い霧のに姿をくらました。
貴族は魔力を持ち、加護を受けた魔具を身につけているので、多少の攻撃は跳ね返せるが、平民兵達に損害が出た。
気球部隊のすぐ後ろにいた、衛生隊が急いで臨時治療所を開設する。
掲げられた小文字の“e”の形に似た衛生隊のシンボルマークは癒しの印。
霧で湿度が高いからか、旗はあっという間に露で濡れる。
青白い顔をして左腕を押さえた兵士が、指先から滴り落ちる血が朝露の草に道を記しながらやって来る。
最初の負傷者の治療も終わらないうちに、霧の中から次の攻撃が始まった。
さっききとは全く違う方向から矢の雨。
先程同じ様に矢で注意を引き、全く違う方向から攻め込み、主力が反撃に転じる前に白い霧の中に引いていく。
そんな神経を逆なでする攻撃を数回繰り返されると、グートシュタイン公爵は兵達を一喝する。
「円周防御をひけ!」
どの方向から攻めてきても対応できるが、敵を深追いして行くと待ち伏せに遭い損害を出す、じり貧と言う言葉が現実味を帯びてきた。
味方の兵士に抱えられ、診療所に運びこまれる兵士達。
衛生隊員達はそんな兵士達の傷を癒すため、汗を拭う暇も無く働いている。回復までの治癒魔法をかける余裕はなく“死なない様に”したら次の負傷者の手当て。
臨時治療所の周りには血と泥と吐瀉物で汚れた瀕死の兵士達が並べられていく。
あまりの痛みに失神して白目の者、喉からヒューヒューと苦しげに息をしている者。地面にひかれたターポリン生地の血だまりは広がるばかり。
二人の医療助手がまた一人を運んで来て顔に白布をかけて診療所に駆け戻って行った。
勿論、戦場で人が死ぬ事は覚悟していた、だが、白布をかけられる死体が増えて行くのを見るに堪えない物が有る。
「誰か!手伝って!運んでください!」
治療所の医療助手の悲鳴にも似た言葉に我に帰る。
「シリリア、テトラ、カルロータ!風を起こしてあの霧を飛ばします、全力で!」
『はい!』
「シーラとマヌエラは炎魔法を放って、3,2,ヒト、今!」
娘達全員で真上に向けて風魔法と炎魔法を放つ!
大勢で風魔法を使ったからか、足元の空気がすごい勢いで吸い込まれていく。
局所的な竜巻は血で濡れた草をなびかせ滴を飛ばし、ターポリン生地が持ち上がる。
突然の気圧の低下で衛生隊の旗は音を立て、医療助手が「キャッ」と悲鳴をあげた。
力を出し切ったのであろう、シリリアとテトラが座り込む。
一瞬だけ明るくなった様に見えたが、霧の毛布はまだ淀んでいる。
空気の中には常にある程度の水分が含まれている、普段は湿度計の針の動きでしかその過多を知ることは出来ないが。
温度、湿度、気圧、風等の条件が揃うと大気中の水分が集まり微細な水滴となり白く見える。
その微細な水滴の集まりが雲、地上付近で発生すると霧と呼ばれる。
風魔法で開けた小さな穴、厚い毛布を針で刺した様なものだが、
大気は毛布ではなく、ゴム風船だった。
小さな穴から空気が漏れる様に、温度の違う大気が入り込み、停滞していた空気のバランスを崩していった。
“効果無しかぁ~”
と落胆しかけたが、しばらくすると淀んでいた霧に流れが現れ、次第に両脇の森から霧の塊が流れて来る。
まさに小さな針の穴から風船の空気が漏れて行くようだ。
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