二人きりで

 凛奈を路上に置き去りにして家に逃げ帰った日。志郎が我に返った時には既に外は夜だった。そんな中、志郎の中には渦巻く思いがある。


『お前、凛奈の何? お前みたいな奴が凛奈と一緒にいるとあいつの価値まで下がるって分からない?』


 彼が中学二年生の頃、凛奈とまだ交流していた頃に彼女を好きだという先輩にこのように言われた記憶がある。

 その時にその先輩は察しの悪い志郎にスクールカーストを始めとする様々な思想を植え付け、志郎に同じ人間であっても身の程があると刻み込んだ。

 その言葉の呪縛から逃れるように血の滲むような努力を重ねた志郎だったが、それでも凛奈を始めとする本当の天才や秀才には勝てなかった。

 いや、勝てなかったのならばまだよかっただろう。志郎は勝負の前に体調を崩し、勝負すら出来なかったのだ。そして、その結果に悔しい気持ちを抱くどころか内心で安堵していたことに気付いた時、彼の心は折れた。そして志郎はこれ以上傷つくことがないように凛奈から距離を取ったのだ。


(あの時から変わってない。同級生にちょっと言われただけですぐに手を離して引き下がってしまうような情けないのが俺だ。そんな俺が凛奈と一緒になんか……)


 自分は臆病で惰弱な人間。そんなことは重々承知だ。偶然にも凛奈限定で催眠術が使えるようになったからと言って自分如きが凛奈のような特別で優秀な存在と一緒にいていいはずがない。


(だから、何度も止めようと思ったんだ。思いはしたんだ。でも……)


 良心の呵責と自己嫌悪から何度も志郎は催眠を止めようと思ってはいた。しかし、結局は誘惑に勝てずにこの関係を続けている。


(でも、もう、今度こそ……)


 洗脳、催眠などという卑劣な手段を用いて本人の気持ちを無視して自分の思う理想を相手に押し付け、自由を縛っているような最低な人間が自分だ。そんな人間が天に愛された凛奈と一緒にいていいはずがない。


「……決めた」


 今日こそ、誘惑を断ち切って凛奈との関係を終わりにする。もっと早くそうすべきだった。そもそも、催眠術が使えるからといって凛奈を自分のモノのように扱うこと自体が間違っていたのだ。その一線を何故、自分は軽々と超えてしまったのか。


(凛奈、ごめん。遅くなったけど、君に取り返しのつかないことをしたけど、ちゃんと解放する。そして俺はもう二度と君に近付かないから……)


 許してくれとは言わない。だが、これ以上の罪を重ねることはしない。そんな決心を胸に志郎は明日、最後の催眠をかけることにする。


 その日の晩は自身の雑念を振り払うように志郎はすぐに眠りに就いた。だが、その心は晴れない。


 翌日の朝。志郎は起きようとした時点で身体を動かすのが億劫なほどの重さを実感して自身が思っていたよりも凛奈に依存していたことを自覚する。


(今日で終わり……)


 気は重いが、登校した志郎は凛奈との別れのことばかり考えて日中を過ごす。誰も志郎の動向など気にしないクラスの中。志郎は凛奈のことを盗み見ては内心で溜息をこぼすばかりだ。

 学校での彼女は相変わらず眩しい存在。当然ながら志郎など気にもせずにクラスの中心人物として明るい青春の空気を散布していた。昨日のことなど全く気にしている素振りもない。その自分とはかけ離れた存在であることを見せびらかすような光景に志郎の胸が締め付けられる。彼女は自分とは違う。昨日までは彼女の人気ぶりを見て優秀な彼女を自由に出来るという暗い優越感を抱いていたが、この日ばかりはそう思えなかった。


(……慣れないと。過ぎたものだったんだから、身の程を弁えないと)


 そう自分に言い聞かせて志郎は勉強に打ち込もうとする。凛奈の隣に立つことは出来ないが、せめて今後の人生で恥じることのない時間を過ごしたいと思ったからだ。しかし、志郎はそんな自分の気持ちとは裏腹にどうしても雑念が湧いてしまい、集中出来ずにこの日を終えてしまう。


(やっぱり俺はダメダメだな……でも、切り替えないと)


 そう思って切り替えられるのであれば苦労はしない。それを痛感しながらこの日も志郎は誰とも挨拶すらせずに自宅への道を歩む。


 程なくして自宅へ辿り着く志郎。いつものルーティンをこなすと自室に入り、凛奈を待つ。この待機時間の妄想が志郎の高校生活での楽しみだったが、今は別れを切り出すことしか考えられず、辛い時間になった。


「っ……気持ち悪い。未練がましい。最低だな、俺」


 自分の欲望を一方的にぶつけている歪な関係。それを清算するだけだ。それなのにこれほどまでに嫌がる自分がいる。当たり前だと思っている特権を奪われるのはこれほどまでも嫌なものなのか。そんなことを堂々巡りで考えている内にインターフォンが鳴った。志郎は大きく溜息を吐いた後に部屋を出て玄関へ向かう。


「……どうぞ」


 いつもと同じだ。凛奈は何も言わず、無表情なままに志郎に促された通りに部屋に入って来る。


 だが、今日は部屋に入っても鍵をかけることはない。今日も縋ればその分だけ別れが辛くなる。手放すには惜しい関係なのだ。だからこそ、志郎は意を決して言った。


「……凛奈。ごめん」


 返事はない。意識外の行動中なのだから当然だ。それでも志郎は謝罪の言葉を口にせざるを得なかった。


「今日で、君は俺から解放される。その前に最後の命令だ。君は俺のことを次第に気にかけなくなっていく」

「……はい」

「今まで本当にありがとう。いい夢を見れたよ。だから、俺が昨日までにした命令は家に帰ったら全部忘れてくれ。もう俺は君に近付かないから安心してほしい」


 返事はない。志郎は自分の言いたいことは言えた。加害者の癖に泣くなんてことは許されないと思いながらも涙目で別れを告げる。


「それじゃあ……帰っていいよ」


 これでさよならだ。彼女を洗脳して自宅とはいえ自分の恋人のように振る舞わせていたことは最低な行為だが、取り返しのつく範囲で終わらせたことだけは評価してもいいだろう。そう自分を慰めつつ志郎は凛奈を見る。ただ、彼女は動かなかった。


「凛奈?」


 様子がおかしい。志郎はそう思って彼女に近付いた。すると彼女は志郎が意図していない動きを見せる。何と凛奈は志郎を抱きしめたのだ。


「……え?」


 戸惑う志郎。そんな彼に追い打ちのように凛奈は志郎の耳元で囁いた。


「はぁ……Hello、志郎。指示をあげるわ。凛奈に身も心も委ねて?」


 その言葉を最後に志郎の意識は途絶えるのだった。



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