婚前旅行

あべせい

婚前旅行

 


 伊豆地方の、とある駅前から少し外れた一画に、間口1間、奥行き3間ほどの小さなパスタ店がある。

 地元ではよく知られた名店だが、利用するには、ちょっとした覚悟がいる。初めてのお客には、それがなかなかなじめない。

 ひと組の若いカップルがぶらりとやってくる。営業中の札が下がっているドアを押して中に入った。

 午後2時半を過ぎた時刻。

 店内は、ほかにお客がいないためか、閑散としている。

 カップルが店の最も奥まったところにあるテーブル席につくと、すぐに若い婦人が、トレイにグラスを載せて現れる。オーナーの妻の真津だ。

「いらっしゃいませ」

 カップルの男性、柔太郎が真津を見て、その美貌にびっくりする。鄙にもまれな、という言葉があるが、まさに伊豆小町といっていい美人だ。

「少し、待ってください。決まれば、呼びますから」

 真津、無言で離れる。

 柔太郎は真津の後ろ姿を見送り、小声でつぶやく。

「美人だけど、無愛想だな」

 カップルの女性、寿未(すみ)が真津をかばうように、

「愛想はないけど、おいしいって書いてあったわよ」

「そうか。おまえ、なににする?」

「そうね」

 やがて、注文が決まり、柔太郎は真津にオーダーした後、厨房の脇にあるトイレへ。

 トイレに入ると、水洗のタンクに小さな貼り紙がしてある。

 張り紙には、ポールペンで、

「トイレが古いため、タンクに水がたまるまで、しばらく時間がかかります。どうか、お許しくださいませ」

 柔太郎、試しにレバーをいじり、水を流すと、勢いよくザーッと水が便器に流れ込んでくる。しかし、タンクの上にある手洗いを兼ねた吐水口からは、ちょろちょろとしか出て来ない。

 柔太郎、やむなく我慢して出た。

「どうしたの?」

 柔太郎の顔を見て、寿未が尋ねる。

「この店はおかしい」

「何が?」

「それがわからない」

「なにわけのわからないことを言ってンのよ」

 柔太郎、気を取りなおして、

「第一、この時刻に、お客はおれたちだけだ……」

「この時刻って?……」

 背後の柱に掛けてある古びた掛け時計を振り仰ぐ。

「時計の下に貼り紙がしてあるわ。待って、『この時計は、1日、二度だけ合います』だって」

「ふざけている」

「おもしろいじゃない。さっき見たメニューにも……(手にとって)これ、これ。ここを見て……」

 真津が示したメニューの下の隅に、手書きで、

『当店のケーキは全て自家製です。できるだけ多くの方にお召しあがりいただきたいと考えていますので、大量にご注文されるお客さまには、お断りする場合がございます。なお、お持ち帰りの場合は、箱詰めに多少時間がかかります。お早めのご注文をお願いいたします』

 と、ある。

「ケーキの大量って、何個からだ?」

「さァ、10個かしら」

「ケーキ屋でもないのに、そんなに注文するお客がいるっていうのか」

「それだけ、おいしいンでしょ」

「ケーキの陳列ケースなンか、なかったぞ」

「きっと、奥の冷蔵庫にしまってあるのよ」

「見てきたようなことを言うなよ。しかし、こんなおかしな店って、全国各地にあるンだろうな」

「どういうこと?」

「だから、こんな店ばかりを取材して、本にしてみたら、売れるンじゃないかって」

「うちの会社って、どんな雑誌を出しているンだっけ?」

「ゼネコン業界の最新情報を月刊で出している。お堅い中身だけどね」

「それで、そんな本を2人で出すの?」

「おまえとおれで、会社に内緒で取材してさ。自費出版する」

「あなた、取材は得意だっけ?」

「これでも雑誌社にいるンだ。取材はしている」

「たまにね。ふだんは校正、整理が専門だけど」

「だから、取材はおまえが中心になってやればいい。取材のうまさにかけては、おまえの右に出る者はいない」

「それほどでもないけど、大手の雑誌社にいたから、そこそこの取材はできるわね」

 そこへ、

「お待たせいたしました。ご注文のマルゲリータ・ピザと(急にモゴモゴと声が聞き取れなくなり)……です」

 真津がそう言って、2つの皿をテーブルに置いた。

「エッ!」

 皿を見て柔太郎と寿未は、声を揃えて驚いた。

 ピザは直径約40cm、モッツェラチーズがほどよく溶けて、いかにもうまそうなのだが、もう1つのペペロンチーノがあるはずの皿には、紙切れが一枚。

 何やら書いてある。柔太郎が手にとって読むと、ボールペンで書いたばかりらしく、「あいにく、切らしております。申し訳ございません」

「なによ、コレ!?」

 それまで比較的おとなしかった寿未の顔色が変わった。

「切らしております、って、ペペロンチーノって、唐辛子とニンニクが入るだけじゃない。いったい、何が切らした、っていうの!」

 申し訳なさそうに立っている真津を睨みつける。

「もっと許せないのは、注文して10分以上たっているのよ。あなた、もっと早くどうして言わないの!」

 柔太郎はもっともだという風に寿未の顔を見て、真津を振り仰ぐ。

 真津がようやく口を開く。

「いろいろ事情がございまして……」

 そのことばが、寿未の怒りに火をつけた。

「事情はあるでしょッ。こんなに待たせて、出来ません、っていうのだから! あなた、この商売やって、何年! いままで、こんなやり方でやってきたの!」

 真津は、覚悟していたらしく、頭を下げたまま黙っている。

「クレームは後にしてピザを食べよう。せっかくの料理が冷めちまうゾ」

 素未は柔太郎のことばで我に返ったらしく、「そうよね」とつぶやく。

 真津には、

「いいです。少し考えます。お下がりください」

 柔太郎と素未は、それぞれピザを口に入れて、思わず顔を見合わせた。

 うまい! おいしいッ!

 「これは絶品!」とうならせる味なのだ。

 2人は慌てて、注文するのを忘れていたコーヒーに、ピザをもう一枚追加注文した。

 追加のピザに手をつけているとき、出入り口のドアが見える位置にいる柔太郎が、寿未にささやいた。

「アレはちょっとおかしくないか」

「なに?」

 ピザと格闘している寿未は、柔太郎を見ようともしない。

「ドアに『営業中』の札が下がっている」

「当たり前でしょ。営業中だもの」

「そうじゃない。あの手の札は、営業中の裏は『休業中』だろう?」

「そうね。ふつう裏返して両面使うから」

「だから、だよ。いま、(さらに声を落として)『営業中』が店の中を向いている」

「エッ!」

 素未はようやく、恋人の言っている意味を理解した。

「いま休業中なの? このお店」

「おれたち、入るとき、『営業中』だったよな」

「わたし、よく見なかった」

「おれは見た。間違いなく『営業中』だった。だれかが、裏返した」

「だったら、そのときから休業中になったのよ。お昼だけ休むお店って、よくあるじゃない」

「そうじゃない。おれもいま気がついたのだけれど、このメニューのここ……」

 柔太郎が、メニューの下の小さな文字を指差す。

「『水曜定休』とあるわね。きょうは何曜日だっけ……!」

 寿未の顔色が変わる。

「水曜だ。わたしたち、水曜、木曜2泊の予定で伊豆半島のこの町に来たンだもの」

「ということは、だれかがこのお店の定休日に、お店を借りて営業している、ってこと?」

 柔太郎はそれには答えず、

「うまい店なのに、お客が来ない理由は、これで解けた」「

「でも、ピザはとってもおいしい。これだけのピザが作れる職人が、他人のお店を借りて営業する、っておかしくない?」

「しかし、ペペロンチーノを切らす、ってのも、定休日ならありえるだろう」

「柔太郎。聞いてみなさいよ。あの奥さんに」

「なんて?」

「わからないの、それくらい。『定休日にどうして営業なさっているのですか』って」

「寿未、さっきの彼女の返答を忘れたのか。『いろいろ事情がございまして……』って、いわれたじゃないか」

「そうだけど、また、違った返事があるかもしれない。それより、柔太郎、トイレに行かなくてもいいの?」

「そうだった。忘れていた。行ってくる」

 柔太郎は、再びトイレへ。

 小さな洗面台がある狭い手洗いスペースから、ボックスのドアノブに手をのばしたとき、どこからか押し殺すような声が。

 柔太郎、思わず聞き耳を立てた。

「どうして、こんな日にやるンだ。定休日だろう。兄貴にバレたらどうするつもりだ」

「だって、試したかったンだもの」

「何を?」

「ピザの台の割合。あの人は薄力粉4.5に強力粉5.5だけど、全く逆にして強力粉5.5に薄力粉4.5のほうが絶対においしいと前々から思っていたの。でも、あのひとは頑固で……」

「兄貴は細かいンだ。それでお客の反応はどうだった?」

 柔太郎、思わず「おいしかったデス!」と叫びそうになった。が、思いとどまった。

「それがよくわからないの。なんだか、感度の鈍いカップルみたいで……」

 柔太郎、怒りがこみあげる。

「そんなバカ、早く、帰しちまえ。おれにはやることがあるんだ」

「そうするわ」

 柔太郎は、盗み聞きをしていたことがバレそうな気になり、トイレのドアを開けることができず、何もせずにそっと出た。

「早かったじゃない。水の出が悪いンでしょ」

 寿未は、戻ってきた柔太郎を見て訝る。

 柔太郎は、寿未に顔を近付け、小声で、こっそり聞いた内容を伝えた。

「怪しいわね。このお店、オープンキッチンなのに、中のようすがよく見えない。シェフの顔は一度も見ていないもの」

「オーナーシェフは休みをとってどこかに行っている。いまいるのは、シェフの女房と、シェフの弟だ」

 そこへ真津が水差しをもって現れ、グラスに水を注ぎながら、

「お客さま、お食事がおすみでしたら、お店のほうもお昼休みにしようかと思っているのですが……」

 柔太郎は、真津を見た。なんだか、おどおどしているように見える。

 すると寿未が、

「ピザがとってもおいしくて。もう一枚、いただけないかしら。コーヒーも一緒に」

「本当ですか!」

 真津の顔が輝いた。

「はい、ただいま」

 真津はいそいそとキッチンの方に戻る。

「こんどはわたしが行ってくるから」

 寿未が靴音を立てないように、トイレに行った。

 5分後、戻ってきた寿未は、昂奮したようすで、柔太郎に顔を寄せてささやく。

「大丈夫。相手は聞かれているとは思っていないわ。キッチンと洗面台の間にわずかな隙間があって、そこから声が洩れてくるのよ。で、こんなことを言っていたわ」

 寿未の話によると、次のような会話が聞こえて来たと言う。

「あなた、おいしいッ、って。もう一枚、追加オーダーよ」

「おまえ、何を考えているンだ。きょうしか、チャンスはないンだぞ。熱海に行っている兄貴の車に細工して、事故を起こさせて入院させる。おまえは新しいピザのレシピを考えて試食していたというアリバイだ。いろいろピザを作って、証拠の写真をたくさん撮っておくンだ……」

「あなたは早く行って。シンクの排水トラップの修理は終わったンでしょ……」

「わかった。トイレやキッチンの水回りが専門だから、水洗のタンクも修理したいが、それをやるとおれがここに来たことが兄貴にバレてしまう……」

「排水トラップのことは、あの人も知らないンだから。あなたは早く、熱海に行って、あのひとに合流してきて。水洗のタンクは1ヵ月、故障のままなンだから、もうしばらくこのままでも同じよ」

「熱海はどこのホテルだったっけ?」

「商店会の旅行は毎年、『鈴吉』って決まっているでしょ。早くッ!」


 柔太郎は寿未を乗せ、古い中古車を運転している。

 後付けのナビが役立っている。「ホテル鈴吉」まで、あと1キロだ。

 兄の殺害を企てている弟の車は、ホテルに着いているかも知れない。

 寿未が追加したピザは店で食べるのをやめ、コーヒーと一緒に持ち帰りにした。いま、助手席で、寿未はそれをうまそうに頬張っている。

 柔太郎は、横目で恋人の食欲を見て、結婚したら、こんな光景が当たり前になるのか、と考える。

「柔太郎、ちゃんと前を見て。事故を起こすンじゃないわよ。心中なんて、真っ平だから」

「わかっている」

「夫婦なんて、わからないわね。兄から弟に乗り換えるなンて。少しでも若いほうがいいのかしら。あの奥さんだって、まだ20代でしょ。旦那の顔は見ていないからわからないけど、兄弟だからそんなに年の差はないでしょうに」

「寿未は、そんなことを考えていたのか」

「結婚なンか、したくなくなったわ。柔太郎だって、そのうち、浮気をするンだろうし」

「あのパスタ店は、奥さんが浮気しているンだ。最近は、女房の浮気のほうが多いと言われている」

「わたしも浮気をする、って? そうね。あなたと出会わなければ、もっといい男がいたかも……」

「おまえはその程度の気持ちで……」

「アッ、いるいる。あそこッ!」

 寿未が指差す。

 「ホテル鈴吉」の看板が出ている広い駐車場の片隅に、乗用車に挟まれて軽四トラックが止まっている。

 駐車場は百台ほどの収容能力があり、6割ほど埋まっているが、ほかは乗用車ばかりだから、いやでも目立つ。

 軽四トラックが、問題の弟の車だという確証はないが、柔太郎と寿未は決めてかかっている。

「あれがそうだとして、ターゲットの車は?……」

 柔太郎は、中に人が乗っている車はないか、車の下に潜っている人間はいないか、車のナンバープレートとともに、じっくり観察していく。

 地元の「伊豆」ナンバーは13台。他は「練馬」「品川」「奈良」「愛知」「静岡」などだ。

 パスタ店の人妻の浮気相手らしき人物の姿はない。

「おかしい」

「間違いかしら。わたし、聞き違えたの……」

「車の細工を終えて、兄貴に会いに行ったか……オーナーシェフの名前は、何というンだ?」

「糸並州義(いとなみくによし)。お店の外の路地に面したところに住まい用のドアがあって、『パスタ・ミラクル シェフ 糸並州義』って、名刺が張りつけてあったわ」

「糸並か。素知らぬ顔をして、会合に出てみるのか」

「あなたも、わたしと同じ雑誌記者でしょう」

「一応は。取材は月に3日程度。あとは編集室で仲間の原稿の整理ばかりやらされているけど」

「いい、こうやるの……」

 寿未は柔太郎の耳に口を寄せ、昏々と説明した。

 5分後。

 柔太郎が、ホテル鈴吉の広いロビーの片隅で、ソファに腰掛け、メモ帳とペンを構えて待っている。

 年のころ50前後と思われる人物が赤い顔をしてやってきた。

 柔太郎が少し前、フロントマンに、

「伊東の『パスタ・ミラクル』のオーナーシェフがこちらに見えているとうかがいまして。私は伊豆のグルメ取材をしています音舟といいます」

 と話していた。

 突然の取材を受けるとは思えないが、寿未のアイデアだからやるしかない。

 寿未は、10メートルほど離れた所にある椅子に腰掛け、柔太郎を見ている。

 赤ら顔の人物はフロントに行き、フロントマンが指し示す柔太郎を見てから、ゆっくり歩み寄っていく。

「糸並ですが……」

 柔太郎は立ちあがり、名刺を差し出す。

「突然、おうかがいいたしまして、実は……」

 後は寿未から教わった通りのウソ八百だ。

 伊豆半島の観光地では最近、地元の魚介類を使った刺身、天ぷらなどの和食以外に、ステーキやイタリア料理の店が人気を集めている。そこで伊豆を代表する名店ミラクルのオーナーシェフにそのあたりの事情をうかがってから、取材を進めようと考えてやってきた、と。

「キミね。この前も、あんたみたいなことを言って来たのがいたけど、タダめしだけ食って、帰っていったよ」

「エッ」

「結局、雑誌には載らなかった。(名刺を手に取り)これだって、どこまで本物かね……」

「そうですね。見ず知らずの男がいきなりやってきて、取材をさせろ、ですから。信用しろっていうほうが土台無理な話です」

 糸並は、ようやく柔太郎に関心があるといった目を向ける。

「しかし、一つだけ、ご注意させてください」

「なんです……」

「あなたのお店ミラクルのトイレは、タンクに水がたまるのにずいぶん時間がかかる。それなのに、いつまでも修理していない。その理由はただ一つ。弟さんとの仲が険悪だからです」

 糸並の顔付きが変わる。

「だれに聞いた」

 柔太郎は質問には答えず、

「弟さんは、トイレやキッチンの水回りの販売・設置を仕事にしておられます。壊れた水洗タンクがそのままになっているのは、弟さんとの仲がこじれたためです。市内には、弟さんの会社に代わる同業はない。例え、いたとしても、世間の目がある。どうして弟の会社に修理を頼まないのか。ヘンに勘ぐられるのはいやだ。だから、お客の苦情もあり、不便だが、トイレの水洗タンクはあえてそのままにしてある」

 糸並は険しい顔をして、黙って聞いている。

「こじれた理由は恐らく、奥さんの不倫……」

 糸並の目が吊り上がる。

「あんた、なんでそんなことまで知っているンだ。だれも知らない!」

「当て推量です。当たっていれば、推理の勝利……」

「あんたの狙いはなんだ。何が欲しい」

「私は警告に来ただけです。雑誌の記者していますから、世間並みの正義感は持ち合わせています」

「警告って、なんだ」

「弟さんが、あなたに交通事故を起こさせて入院させる」

 糸並が突然、ニヤリとした。

「あんた、だれと話をしているンだ」

 そのとき、柔太郎と向き合っている糸並の背後に寿未が立ち、手を小刻みに横に振っている。

 何かが違うのだ。

「まさかッ」

「あんたは、糸並州義の顔も確かめないで会いに来たのか」

 柔太郎は顔から火が出る思いがした。

「私は、弟の糸並州只(くにただ)だ」

「シマッタ」

 柔太郎はそう思いながらも、何かおかしいと感じる。

 フロントマンに呼び出してもらう前に、商店会の宴会場に行って、顔を確かめておくべきだった。

 もう遅い。

「州義は酔いつぶれて、部屋で高いびきだ。州義にお客だというから、私が代わりに来た。それだけだ」

 柔太郎は州只を無視して、寿未にもっと近くに坐るように目で言った。

「私が兄貴に事故を起こさせる、ってどういうことだ」

「糸並さん。それはですね……」

 寿未がいきなり、柔太郎の隣の椅子に腰掛けてきた。

 州只は寿未の登場に驚いたようす。

「失礼しました。私は音舟の同僚で図界(ずかい)といいます。こんどの伊豆取材に同行していますが、商店会の取材を進めるなかで、糸並兄弟が、父上の遺産相続を巡り険悪になっていると小耳に挟んだものですから。お父さまは入院中、しかも認知症状が現れ、成年後見人の必要性が起きているそうですね」

 柔太郎は思う。

 寿未は柔太郎が州只と話している間に、商店会の宴会場に潜入して巧みに聞き出してきた。取材力は寿未のほうが数段上だ。

「でも、これは単なる噂です。私たちはそんなことは信じていません。世間は、他人のケンカは大きいほうを喜びますから……」

 州只が、もうたくさんだといった風に、

「わかった。遺産相続でもめているのは事実だ。オヤジはまだ健在だというのに、恥ずかしい話だ。あんたらはどこで、そんな話を聞きかじって来たかは知らないが、こんなことを週刊誌にでも書かれたら困るから、洗いざらい話す」

 柔太郎と寿未は体を乗り出して、州只の話に耳を傾ける。

「いいか。私の仕事は、伊豆で缶詰や乾物の卸しをやっている」

「エッ! 水回りじゃないの」

 寿未がうなる。

 柔太郎はハッとなる。

「あんたらの取材は、思い込み、先走りが過ぎるな。その程度で雑誌社の記者が務まるとは思えないが、まァいい。私は仕事の関係で、長兄の州義のパスタ店に出入りしている。2番目の兄、つまり次兄の州空(くにあき)が、州義の奥さん、真津さんと仲がよすぎることは知っている」

「まだ、弟さんがいたの! あなたは3番目……」

「州義の女房の真津さんは元々、州空の恋人だったが、州義の先妻が病死したことから、州義に口説かれ、後妻になった」

「店は古いのに、奥さんが若いからおかしいとは思ったけれど……」

「おれたちは男ばかりの3人兄弟だ。私が3番目の州只。2番目の州空はトイレやキッチン用品の販売をしている」

「長兄の州義さんが酔いつぶれているって言ったけれど、次兄の州空さんはいま何をしているの?」

「州義に酒で勝負しようと言ったのはいいが、結局二人とも酔いつぶれた。もし、州空が州義に危害を加えようとしているのなら、遺産相続のためじゃない。真津さんとの関係からだ。州義は性懲りもなく、ほかに女をつくって、離婚の準備をしているそうだから。もともと女ぐせの悪い兄貴だ……」

 柔太郎と寿未は、もう聞いていない。

 恥ずかしくて……。これ以上はないという気まずい思いに捕らわれている。

 婚前旅行で伊豆にきて、2人の仲がこわれるのも時間の問題のようだ。

                (了)

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婚前旅行 あべせい @abesei

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