◆10月4日 図書館デート
十月に入り、ようやく日中も過ごし易い気温に落ち着いてきた。ここ数日天候がグズついたこともあって今日に至っては少し肌寒いくらいだ。
俺たちは放課後、学校近くの図書館へと足を運んでいた。
鷹宮と俺の二人だけで。
幾らか説明をせねばなるまい。
まず昭島由里亜に関してだが、俺は随分前にこちらから協定を持ち掛けることで、彼女を放課後の部活から追い払うことに成功していた。毎回行き先を昭島に教えることと、校門の前で落ち合う時間を守ることを条件にして付いて来ないようにさせたのだ。
昭島が俺の提案をあっさり了承したのは、おそらくあの水族館での一件以来、鷹宮と接しづらくなったことが関係しているのだと思う。
また、昭島以外の他の連中も、二学期に入ってからというもの、何故か放課後の活動に姿を見せなくなっていた。
何故か……、というのは白々しいか。理由はきっと奈津森だ。
あの水族館の合同デート以来、奈津森は明らかに俺に対してよそよそしい。彼女が俺と距離を取るようになったせいで、連れの澤井たちも俺たちにあまり構ってこなくなっていた。
さておき。行動の自由を新たに拡張した俺たちは放課後に足を延ばせる範囲で〈グリッチ〉を探して歩き回るようになった。
それが〈鷹宮遥香〉に関する謎の真相を突き止めたあとの、俺たちの新たなミッションになったのである。
図書館でそれが見つかる可能性は低そうに思えたが、比較的可能性が高そうな近場のスポットはあらかた回った後だったので、今日はあまり期待もせずにここに足を運んだというわけだ。
まあ、図書館デートというシチュエーション自体は如何にも学生らしくて悪くない。
「で? 図書館では何をどうしたら〈グリッチ〉が出るって?」
「分からない。俺が憶えてる限り、図書館ていう情報しかない」
「マジか。それ全然駄目じゃん。適当に探して偶然見つかるようなら、先に俺が発見しててもおかしくないぞ?」
「ああ、そういえば散々ここに入り浸ったと話してたな」
そう言いながらブレザー姿の鷹宮が手近な書棚から一冊の本を抜き取る。
この辺の分類からすると脳科学系の書籍だろう。俺はこの世界をもう何周も繰り返し、この図書館も都合数年単位で利用しているので、今ならここの司書よりも蔵書に詳しくなっているかもしれない。
「しかし、現実と見分けがつかない仮想の世界を丸ごと創れるような未来でも、情報は個人の頭で記憶するしかないって、なんだかガッカリだな」
もしも鷹宮が一度見聞きした情報を全部憶えていられたなら、もっと効率よく〈グリッチ〉の再現手順を試せただろうにと考えて愚痴をこぼす。
「人間の個体としての記憶力は強化されてないのかって話か」
「うん。外部ストレージみたいなのを繋げれば簡単に強化できそうな気がするのに」
「いや、リアルタイムでアクセス可能な脳の外部ストレージ技術はあるぞ? ただここはシミュレーターの中だしな」
「あ」
「生身の脳が憶えている記憶以外は原理的に持ち込めない」
「はあ……、あ、そうか」
「前も話したけど、脳科学だけは研究開発に
鷹宮は手に取った本をパラパラとめくり中の文字に目を落としている。
俺の方は本の中身を覗き込む振りをして彼女をその頭上から見下ろす視界を楽しんでいた。このアングルの鷹宮は小柄な感じがとりわけ強調されて見える。後ろからギュッと抱き締めたいという衝動が自然と湧き出る愛らしさがあった。
あー……。そうだな。
これも一応補足しておこう。コードコメントというやつだ。
彼女の中身が男であるという事実を知っても。また、その肉体が生体グリッドコンピューティングで描画された情報の集合体に過ぎないと知っても。なお俺にとって彼女の魅力が損なわれることはなかった。欠片も。微塵も。寸毫も。
現実と何一つ変わらないリアリティで再現された世界であるのなら。それに、俺自身がそれと同じ構成要素の一つであるのなら。目の前にあるものを単なる現実として受け止めることに何のためらいが要るだろうか。
以上。アンコメント。
「仮想世界にいる間、本物の肉体は培養槽みたいなものに浸かっているって話じゃなかったか?」
「そうだが? まあ、ほんの短い時間ログインするだけの場合は椅子にハングした状態で繋ぐこともある」
「この仮想世界に脳を接続する方法はどうしてるんだ?」
首の後ろにブッ挿すようなコネクター的なものがあると想像していたのだが。そういうのは脳神経科学が相当発展してないと無理そうな印象がある。
「それは……、大きく分類すると非侵襲型と呼ばれる方法だな。直接的には何も繋がっていない」
鷹宮は何かを思い出すように少し目を閉じてから説明する。そうしている間に、生の自分が知っている知識を、この仮想世界の科学技術に合わせて翻訳するにはどういう言葉を使えばよいかを考えているらしい。仮想世界に入る際に
「頭蓋骨に穴を開けるような物騒なものではないと?」
「ないない。ある種の超音波のようなものを脳に当てて、入力と出力は全部遠隔でやってるんだ。まあ、どういう理屈でそれが実現できてるのかは、例によってAI様がブラックボックスでやってるせいでほとんど分かってないんだけどな」
分からないものを分からないままに使うことへの抵抗感のなさが、俺が鷹宮と話していて感じるものの考え方の一番の違いだ。
以前そのことについても鷹宮と話したことがあるのだが、上位世界で暮らしている進んだ科学社会の人間とは総じてそういうものらしい。
理屈はともかく期待したとおりの効果が得られるからそれを使う。その便利さに人間というものは抗うことができないのである。
俺だって、スマホなどの複雑な機械の内部でどんな演算がなされているかなんてサッパリ分かっていないのだから、他人のことはいえないだろう。
ただ、その程度が甚だしく、研究者や開発者と呼ばれる人種ですらそうだというのが俺的にはどうにも収まり悪く感じられる。
「しかし、どうする? ただここで本を読んでるだけで都合良く〈グリッチ〉が出現するとも思えないが」
「そうだなぁ。そもそもここは〈グリッチ〉が出現しそうな条件の場所でもないしなぁ」
「のんきだなあ。俺の方が心配になってくるぜ」
「しょうがないだろ。気を揉んだところで他にどうにもできないんだし」
確かにそのとおりであった。
この世界が現実と見紛うばかりに精緻に作られたシミュレーションだという事実に気が付いたとしても、外部とのコンタクト手段のない俺たちには、何も為すすべがない。泣いても笑っても怒っても。真実を世間様に触れ回ってみても。学校中のガラスを割りまくってみても。どうにもならない。
どうにもならないどころか、下手に目立つ真似をすると、鷹宮をこの世界に閉じ込めた才川大という男に、俺たちが事態に気付いたことを悟られてしまう危険もある。
なので、唯一可能性があり、実行可能なプランが、この世界の中にごく稀に発生するバグ空間、通称〈グリッチ〉を探すことなのだった。
この世の理──モジュール内設定──を外れた〈グリッチ〉の中でなら、おそらくプレイヤーである鷹宮はコンソールと呼ばれる操作ツールを出現させることができる。そうすればこのシミュレーション世界からログアウトすることもできる。……そのはずなのだが、肝心の〈グリッチ〉を見つけることが容易ではなかった。
「やっぱり、8月19日のプールイベントは外すべきじゃなかったよなあ?」
「む。今さら遅い。もう過ぎたんだから今さら掘り返すな」
8月19日というのはこの街がゲリラ豪雨に見舞われる日のことだ。
鷹宮が上位世界にいるときに読んだ仮想世界開発者用フォーラムの書き込みによると、多くの〈グリッジ〉出現情報のうち、最も再現性が高いと目された方法がゲリラ豪雨のときに水辺にいることだったのである。
なんでも、向こうの開発者たちのスラングで〈クジラの
多くのクジラの脳神経を量子的に連絡することで形成された生体グリッドコンピューティング。それによって生成される仮想世界のレンダリング処理には、何らかの原因で演算に乱れが生じる不具合が含まれている。それが発生すると、その周囲の現実が現実らしく振る舞うことをやめ、パソコンのセーフモードのように無機的な、点と線だけで形成された簡素な空間に迷い込むことになる。
俺が毎周回〈マハ・アムリタ〉を使って入り込んでいるのと同じ空間だ。
大部分がブラックボックス内部で生成された世界なので何故それが起きるのかという正確な仕組みは分かっていない。ただ、開発者の経験則としては、どうやら彼らは水にまつわる視覚や聴覚のレンダリング処理を比較的不得手にしているから、との見当が付けられていた。
だから、多くの観測者で賑わうプールでのゲリラ豪雨などは格好の〈グリッチ〉出現日和というわけだった。
俺たちがいるこの世界──鷹宮が開発環境として使っていたオーソドックスな近現代日本の地方都市を模したモジュール──においてもユーザーから多くの〈グリッチ〉出現情報が寄せられていた。
当然不具合なので、開発者サイドもそういう
ちなみに、この世界におけるゲリラ豪雨の正確な発生日時は俺の記憶を情報ソースにしている。何周繰り返しても決まって同じ日にゲリラ豪雨が発生するので自然と憶えてしまった。他には初雪の日とか、台風の上陸日とか、落雷で一帯が停電する日とか、気象系のイベントはまず外れない。
その情報こそ、俺が鷹宮に提供することができる俺ならではの貴重な活躍の場だと思ったのに。嘆かわしいかな鷹宮は、俺に水着姿を見せたくないという女々しい理由でその絶好の機会をふいにしたのである。
「しかし、クジラやイルカの脳を演算に利用しているわりに、水系のシミュレーションが苦手ってのは不思議だよなあ」
「ああ。本当の理屈は分からないが、水生動物が認識している水と人間が思う水の概念との差異が際立つせいで不協和を起こしている、なんて説もあるな」
「大体、生きてる動物の脳を借りて使わせてもらうなんて発想が突飛過ぎるよ。正直、効率がどうとか実現性がどうとか、真面目に考える気にならないんだが、一体なんでそんな不安定なものを演算装置として使うことになったんだ?」
愛護団体だって怒り出しそうなのに。
「それもAIの入れ知恵だ。AI自身に、より高次のAIを構築させるという研究がまずあって、人間が理屈や理論で考える以上生じてしまう構造的な限界を突破するために、AI様のご意見を取り入れていったらいつの間にか出来上がってたという感じだな。まあ……、大分簡略化した説明だが」
「量子コンピューターは? 生体グリッドを構築するのに量子力学を使ってるって話してなかったか?」
「もちろん一部の技術はバリバリ使ってるよ。けど、汎用の計算機用途では使いにくかったみたいだ」
「どうして?」
「どうしてももつれちまうらしい。規模が大きくなるほど周囲にいる人間の意識を拾い易くなるから、計算結果が指数関数的に信用ならなくなるっていう問題があって、その回避手段が見つからないとかいう理由だった気がする。もう向こうじゃあまりホットな話題じゃないから、俺の理解も大分怪しいけどな」
「へー」
鷹宮とこういう類の話をするのは楽しかった。
技術のブラックボックス化が極限まで進んだ世界だから、たぶん上位世界の一般的な住人が相手だったらこういった会話は楽しめなかったと思う。トピック程度とはいえ、鷹宮が俺にも分かるようにかみ砕いて説明できるのは、やはり元の世界で開発者(自称天才エンジニア)をしているためだろう。
しかし、のほほんと遊んでばかりもいられない。
鷹宮が才川の魔手から逃れるのに失敗するということは、俺たちのいるこの世界が今後どうなってしまうのか余談を許さないということだ。
こういう表現で正しいのか分からないが、不意に世界が完全に
そういう意味では俺にとっても決して他人事ではないのだった。
「当てずっぽうで探すにしても、やっぱり図書館はどうかなあ。凄く整然としてるし、ここなんか人も少ないし、バグなんかが起こる不安定なイメージとは程遠くないか?」
「それはそうだが、〈グリッチ〉の発生は何も〈クジラの欠伸〉だけに限らん。ハルキが発見した〈マハ・アムリタ〉みたいに、どこかの誰かがこっそり仕込んだお遊びの〈グリッチ〉が潜んでいる可能性だってあるだろ?」
切羽詰まった状況であるにも関わらず、鷹宮が最も有力なプールでのゲリラ豪雨遭遇イベントを蹴った理由は〈マハ・アムリタ〉という確実な手段が存在しているからだった。
バグ由来の不確定な〈グリッチ〉に頼らずとも、俺が発見した人為的な〈グリッチ〉を使えばそこからログアウトが可能だからだ。そういう最終手段が残されているからこそ、鷹宮もこれだけ悠長に構えていられるのだった。
ただし、この世界における〈マハ・アムリタ〉の発売日が3月30日であることから、少なくともその日まではそのアプローチを試みることはできない。鷹宮にしてみればそれまでの〈グリッチ〉探しは、運良く見つけられればラッキー程度のスタンスなのである。
「まあ、ひとまずその方向で探してみるか。図書館が異世界への入口になってるーなんて設定は、ある意味定番の発想だからな」
「ふふん。だろぉ?」
俺が賛同すると、鷹宮は目に見えて機嫌を良くして笑ってみせた。
胸を張り、腰に手を当て、小さなアゴを軽く突き出して得意気にする。
まったく、中身が成人男性だとは思えない反応だ(生きている体感年数で俺と鷹宮のどちらが年上なのかは論の分かれるところではあった)。
ちなみに、いまさらだが、上位世界における鷹宮の本名は当然ながら鷹宮遥香ではない。
自称天才エンジニアの本名は
だが俺の頭は、目の前にいる可愛らしい女子のことをその名で認識することを全力で拒絶していたため、俺はこれまでどおり鷹宮のことは鷹宮と呼ぶことにしている。
鷹宮の話によれば、自分のことを国府祐介だと思い出した今も、この世界で目覚める前に上書きされた鷹宮遥香としての人格記憶がなくなったわけではなく、ふとした瞬間にその記憶が干渉し、言動が引き摺られることがあるのだという。
好意的に解釈すれば、今のも上書きされた鷹宮遥香の性格に
理知的で硬派な、頼れる盟友である俺は、一々それを指摘して茶化したりしないデリカシーを持ち合わせているが、実のところ、鷹宮が今のような反応を見せるたび、俺は胸を撃ち抜かれるような愛くるしさに密かな
それから俺たちは、人為的な仕込みがあるという前提で図書館内で様々な試みを行った。
例えば、海洋生物系の書籍の中からクジラやイルカに関するページを繰り、その文字や写真を撫でさすってみたり、辞書を片っ端から取り出して、〈クジラ〉や〈欠伸〉、あるいは〈アムリタ〉という単語を引いてみたりといったことだ。
しかし残念ながら、俺たちが思い付く程度のアプローチはどれも不発だった。
そもそも図書館といっても、ここではない別の図書館のことを差している可能性もあるわけで、そのことに思い至ってからしばらくすると、俺たちはどちらから声を掛けるでもなく学校への帰路に就いたのだった。
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