▽6月30日 窓際の二人 Ver.鷹宮(2)

 教室に入ってきたのはわたしの予想どおり、同じクラスの男子生徒、鷲尾覇流輝だった。


 大昔の暴走族みたいなノリのイカツイ名前。大きくはだけさせた制服の胸元から覗くシャツの色も毒々しく(今日は原色の赤だ)、この学校の校風によく馴染む不良っぽい見てくれ。

 けど、不良っぽいといっても人を威圧する感じではない。くだけた感じで喋る、……まあ、悪くない意味での軽薄さ。クラスの皆からも慕われているみたい。いわゆる陽キャと呼ばれるグループに属しているのだけれど、友達と話しているとき以外は意外なほど真面目腐った表情をしている姿が印象的だった。


 スッと物思いに沈み込むというか、まるで別の人格が乗り移ったような瞬間がある。その瞬間の横顔を見ると思わずハッとさせられる。不思議な雰囲気のある男子だった。


 それに、彼のことが気になるのは単にクラスでも目立つ存在だったからというわけではない。彼が、わたしのことを盛んに気にして、ちょっかいを掛けてくるのである。


 そう。意識し始めたのは断じてわたしの方からではない。

 彼の方から、わたしに向かって好意ありありの目線や、意味深なモーションを掛けてくるのだから、仕方がないのだ。



 今日もそうだった。全部、鷲尾覇流輝の差し金だ。

 いつも決まった時間に現れる送迎の車が今日に限って故障で遅れるという連絡があったあと、まるでそのことを見越していたかのように読書部に体験入部しに行こうという誘いを掛けられた。

 直接的には澤井さんと吉野さんという女子二人からの声掛けだったけど、それが鷲尾覇流輝が書いた筋書きだということは容易に想像できた。


 鷲尾は入ってきたドアを閉めると真っ直ぐわたしの前まで来て座る。

 こちらもそうするであろうことをまるで疑わず、自信満々にするので、わたしも仕方なくそれに従って席に着いた。

 いったん互いに黙って向かい合う。


 鷲尾が何か思い出したように若干腰を浮かせ、窓から顔を出して外を覗く。続いて反対の、廊下側に目をやって外の人影を窺う。スマホの振動音。それを受けて手元に視線を落とす。

 そわそわした彼の素振り。


 これは……、この雰囲気は、やっぱりくるわ。間違いない。

 どうしよう。鷹宮家のお嬢様であるわたしとしてはどうしたらいい?

 多分、家柄的に釣り合わないからと言ってお断りするのがスジなのだろうけど──。


「えっ?」


 わたしは必死で頭を巡らせる。

 何度かまばたきして考えた後、彼が先日から繰り返している意味深で謎めいた話を続けているのだと気付いた。


「告白じゃないの⁉」


 思わず内心がポロリ。ここまで期待を持たせて、二人きりになる御膳立てまでしておいて、まだその話を引っ張るのかと脱力してしまったのだ。


「告白ぅ⁉ しっかりしてくれよ鷹宮……」

「な、何? わたしが悪いの?」


「いやあ、思い出せないのを責めても仕方ないんだが。スマン。もしかしたら用心して二人きりで話せるタイミングを見計らってるのかもって期待してた」


 思わせぶりな言葉にわたしは警戒を強める。

 この人、のことを知ってる?


「あなた……、もしかして鷹宮家の関係者なの?」


 全然そんなふうには見えないし、この学校に昭島さん以外の関係者がいるなんて聞いてないんだけど。


「違う。そこは信用して欲しい。俺は鷹宮家とは無関係だ。安心してくれ」

「なによそれ。どうしてそれでわたしが安心するってゆーの?」


 そこで鷲尾が、はぁー、っと大きな溜息を吐く。


「お前、今年の4月1日より前の記憶がないんだろ?」

「えっ……! んうぇっ……、どうして。それ、どうして知ってんのよ?」


 鷹宮家の人間でも住み込みで働く一部の人しか知らないはずなのに。

 もしかして、昭島さんが話してしまったのだろうか。


「俺だってリスク背負しょってんだ。本当はお前が全部思い出すまでその話はしたくねえんだが……」


 そう言いながら、鷲尾はスマホを取り出す。

 秘密めかした雰囲気に当てられて、わたしはその様子を黙って見守った。


 ほどなく鷲尾がスマホを縦にしてその画面をこちらに向ける。

 覗き込んだその画面には、青く輝く水槽の中を悠然と泳ぐ大きな魚が映っていた。

 綺麗……だけど、これはさっき鷲尾が思わせぶりに言ったではないなと思う。なんでそれが分かったのかは自分でも説明できなかったけど、とにかくこれはクジラではない。


 パチクリと目を瞬かせたあと鷲尾の方を見た。

 「これが何?」という意思を込めて。

 鷲尾の方は表情も変えずにもう一度スマホの画面を何度かタップして、今度こそ本当の野生のクジラの映像を見せてきた。これはドキュメンタリー番組か何かの映像だろうか。


 何これ?

 これで何かを思い出せと言ってるの?

 何かの暗示や、催眠療法的なやつ?

 もしもそういう意図で見せたのなら無駄みたいですけど?


 そういう意思を伝えるため、今度は首を横に振った。


「思い出したのか⁉」


 不意に鷲尾が前のめりになって声を上げる。


「いや、なんでよ。首振ってるでしょ?」


 と言い返した瞬間、鼻の横を熱い雫が伝って落ちるのを感じた。


 ヤバッ、汗?


 慌てて手で押さえる。

 けど、そうじゃなかった。


「じゃあ、なんで泣いてるんだよ?」

「知らないわよ」


 そう言い返しながらも、わたしは心の中で、この不思議な感覚の正体に当たりを付けていた。



 ときどきあるのだ。こんな、よく分からないことが。

 わたしの失くした記憶が蘇っているようにも感じるけど、同時に、そうではない、と強く否定する気持ちも働いていた。自分ではない、別の誰かの記憶を覗き見ているような……、そうとしか例えようのない奇妙で落ち着かない感覚だ。


 何故、何が切っ掛けだったのかと、自分を包み込む冷たく心細い感情の紐を手繰り寄せていくと、さっき鷲尾に見せられたの映像の青色が頭に浮かんだ(あれ? どうしてわたしはあの大きな魚がジンベイザメだと思い出せたんだっけ?)。


 は見たこともない不思議な空間にいて、そこにはさっきスマホの画面で見たのと同じジンベイザメが大きな水槽の中を漂っているのだ。

 とても幻想的な光景。

 だけど、の興味はそちらにはなかった。

 は大きな水槽に囲まれた橋のような通路から、吹き抜けになった広い空間を見下ろし、その底で薄明りに照らされた二人の人影を見ていた。向かい合い、互いの手を両手でしっかりと握り合う姿を見てはとても動揺している。

 恋人のように見える男女。男の方は……、あれは、鷲尾だ。

 そしてもう一人。ヒラヒラの、如何にもお嬢様みたいな着こなしをしたあれは……、あれは──⁉



「──おい。おい! 鷹宮! しっかりしろ。やっぱり思い出したんじゃないのか⁉」


 記憶の中にあった場所とはまるで違う、の蒸し暑い教室では、鷲尾が物凄く真剣な表情になってわたしに呼び掛けていた。


「……お、思い出さないわ。なにも。なに言ってんの? 意味分かんない」


 声が震える。わたしは掌で涙をぬぐうことで鷲尾の視線から逃げようとする。


「嘘とか冗談だったら怒るからな? 本当に思い出してないのか? もう悠長に構えてる余裕はないんだぞ? 洗脳の工程はもう二周目に入ってる。今すぐにでも思い出してくれないとヤバいんだぞ?」


 洗脳? 二周目?

 何を言ってるの、この人は?


 以前から散々意味深なことを言ってたけど、あれはわたしの気を引くための冗談のたぐいだと思ってた。そうじゃなくて全部本気だったの? 見かけによらずオカルト系のヤバい奴だったとか? さっきのスマホの映像も、わたしが記憶喪失で、不安定な精神状態であるのをいいことに、刷り込みみたいなことを企んでいたのだろうか。


 そのときまた、鷲尾の持つスマホが短く震えた。

 鷲尾は苛立いらだたしげにクソッと呟き、画面を軽くタッチしたあと、ポケットから別の端末を取り出しわたしの前に置く。


「……これ渡しとく」

「なにこれ? ガラケー? わたし自分のスマホ持ってるよ?」


「思い出したら分かる。それまで絶対誰にも見つからないように隠しとけ。電話してくるときは必ず家の外でな。あーあと、そのスマホも。今のとこ盗聴アプリは入ってないみたいだけど、用心は怠るなよ」

「電話? わたしからあんたに? 自惚うぬぼれないでよ。あと盗聴って何?」


「シッ! この話は誰にもするな。特に昭島だ。アイツに話したら全部奴に筒抜けになる」


 鷲尾がそう言って立ち上がる。

 直後に後ろ側のドアが開いて昭島さんが入ってきた。


 わたしはとっさに受け取ったばかりのガラケーをカバンの陰に隠していた。


 いや、これは、そういうんじゃないんだけど。

 直前に名前の出た人がタイミングよく現れたから、条件反射で隠してしまっただけで。決して鷲尾の言葉を信じただとか、そんな話ではない。そのはずだ。


 鷲尾は何事もなかったかのように昭島さんに向かって歩いていき、彼女とすれ違いざまに口を開く。


「いやー、フラれちまったぜ。でも簡単には諦めないからな?」


 告白もしてないくせに勝手にこっちがフッたみたいにしないでくれるかしら?

 自分の気持ちをないがしろにされた気がして一瞬そんな文句を口にしそうになったけど、その前にそれがわたしへの捨て台詞ではなく、昭島さんに聞かせるために用意されていた言葉なのだと気付く。


 当の昭島さんは、始めから鷲尾など眼中になかったみたいで、ツカツカとわたしの側まで歩いてくると、これまた何でもないふうに告げた。


「遥香様。代わりのお車の準備ができました。参りましょう」

「え、ええ。ありがとう」


 わたしはカバンを持ち上げ席を立つ。

 鷲尾から受け取ったガラケーは身体の陰に隠しながらカバンの中に滑り込ませた。


 そうするところは絶対に見られていないと思うし、昭島さんに対するわたしの態度もいつもどおり。

 二人と同じように、わたしだって何でもないふうに振舞えていたはず。


 だけど、昭島さんとすれ違い、その脇を通り過ぎたとき、一瞬目が合った昭島さんの目付きは驚くほど鋭く尖って見えた。


 ハッとして思わず振り返る。


 でも、そのときには昭島さんの表情はいつもどおり、仮面を貼り付けたような無表情に戻っていてわたしは何も言えなくなる。

 たったそれきりのことだったけど、その思いがけない一瞬の出来事は、わたしに彼女に対する警戒心を抱かせるには十分だった。

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