▽6月30日 窓際の二人 Ver.鷹宮(1)

 案内された教室のドアを開けた瞬間、思い切り顔をしかめてしまった。

 閉め切ったガラス窓に日光が容赦なく射し込むせいで、教室の中は廊下よりもよほど熱気が満ちていたからだ。


 足を踏み入れてすぐに首筋から胸元へと汗が滴り落ちる。この汗はここまで校舎内をたらい回しで歩かされたせいでもあるだろう。まだ6月だというのに三十度を優に超すこんな日にやらされることではない。

 送迎の車も空気を読んで、どうせならもっと涼しい日を選んで故障してくれたら良かったのに、などと考えながら無人の教室を突っ切って窓を開けた。


 風は驚くほどいでいて、窓からはほんの一吹きも入って来なかった。

 手にげていたカバンを机の上に置き、その中を覗く。

 ノートで扇いで制服の下に風を入れて涼もうかという誘惑にも駆られたけど、廊下を横切っていく人の気配を感じて自重した。


 なにしろ鷹宮遥香は超が付くほどのお嬢様なのだ。その一挙手一投足に、常に注目が集まる身の上なのである。期待と幻想を打ち壊すような無作法は慎むべきだろう。

 せっかく頼み込んで誰も自分のことを知らない学校に転校してきたというのに、いつの間にかどこからか、呆気なくも情報が漏れ、ここでもすっかり有名人になってしまっていた。


 お嬢様なんて、まったく柄ではないのに、そういう目で見られると、ついその型にはまって見えるように振舞ってしまう。それが密かに抱える自己嫌悪の種の一つだった。


 そうだ、と思い立ち、もう一度カバンの口を開いた。

 中からコンパクトとハンカチを取り出す。

 掌の上の小さな鏡を遠くに持ち、胸元をつぶさに観察する。

 どうやら汗はアンダーウェアでしっかり吸収されている。表に染みて透けたりはしていないようだった。

 ハンカチで額や鼻の頭を押さえて汗をぬぐう。

 制汗剤を一吹き二吹き。


 自分が今日この場所に連れて来られた理由にはおおよそ察しが付いていた。そうでなければ、こんな暑い場所など一刻も早く逃げ出しているところだ。

 教室の中であれだけ騒いでおいて、こちらが聞こえていないとでも思っているのか、あるいは下々のことに関心のない余程のお嬢様だとでも考えているのか知らないけど、アイツが裏で何かを画策しているのは分かり過ぎるくらい明白だった。


 軽薄そうな見た目。よく分からない意味深な言葉で気を引いてきたかと思えば、人が変わったように真剣に考え込んでいることもあるあの男。

 正直にいえば、転校初日に教室で自己紹介をしていたときからアイツのことが気に掛かっていた。その視線や雰囲気に、他の皆とは違う不思議な熱が感じられたからだ。

 接点など何もない、偶然出会った二人であるはずなのに、運命めいた騒めきを感じてしまう。


 だから多少不器用な誘い方であっても我慢して、気付かぬ振りで乗ってあげようと決めたのだ。

 目立たず静かに二人きりで話せる機会と場所。それはこの学校の中で最も手に入りにくいものの一つに違いない。特に自分の場合はそうだ。ここに来るまでに別の場所を経由させられたのは、昭島さんの追跡をまくためだろう。


 どうせならもっと雰囲気のある場所に、いや、せめて涼しい風の通る場所にして欲しかったところだけど……。


 鏡の中の自分の顔を見ながら、今からファンデを塗り直す時間はあるだろうかと考える。

 そのとき、教室のドアの前に人影が立った。

 擦りガラス越しなのでぼんやりとしたシルエットしか見えないけど、あの背格好は間違いない。


 どうしよう。

 アイツが何を言うかは分かる。

 けど、その言葉にはどう答えたらいい? 


 実は全然整理が付いていなかった。

 どんな態度で。どんな自分でいたらいい?


 ああまた……、あのおかしな感覚だ。

 自分の中に自分以外の誰かがいるような……。


 頭の中の混乱をよそに、身体の方は冷静にやるべきことをこなしていた。急いでカバンの中にコンパクトとハンカチをしまい、ドアの向こうの人影に向き直る。

 ちょうど背中からいい風が吹いてきてくれたおかげで少し気持ちが落ちつく。


 教室のドアがスライドするのに合わせて、とびきり澄ましたポーズと表情を作って彼を迎えた。

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