第14話 強さの源泉

 夜、アリサは厩舎で一人、病気の馬の世話をしている。

 頭を膝の上に乗せて、首を優しく撫でてやる。

 しかし、アリサの胸の内はざわめいている。

 アルマとの「決闘」が決まったと知り、すぐにシエルに相談した。

 その時の会話が頭に蘇った。

 

「……もし、私が勝ったら、どうなるの?」

 校舎の廊下で、アリサはシエルに聞いた。

「前にも少し話したけれど、「強者」の勲章を持つ生徒は、他の下位の二階級の生徒と違って、勝つことを当然とされているのよ。帝都士官学校の方針は、厳しい競争下を生き残るエリートの育成。下位の者は駆け上がれなければ落ちる。上位の者は自らの地位を守り切らなければ落ちる。そのような激しい競争環境を作るのが、この帝都士官学校の評価システムの本来の目的なの。その中でも、半年に数回しかない『決闘』の結果は大きくその競争を左右する……」

 一息に話したシエルはため息を吐いて続ける。

「つまり、あなたが勝てば、彼女は一気にあなたの下の順位まで転げ落ちることもあり得るでしょうね。前期終了の間際、これ以上成績の変動は見込めないから、それは即ち脱落を意味することになるわ」

 頂点を守るために、日々、自己鍛錬を重ねているシエルは、この競争システムをよく理解していた。

「友達だろうと、ルームメイトだろうと、ここでは競争相手であることに変わりない。私とマリアナだって、覚悟はしているのよ」

 シエルは背後に立つマリアナを見る。

 しかし、マリアナの顔はみるみるうちに涙でぐずぐずになり、シエルの腰に縋りついた。

「いやぁぁぁお姉様!!! お姉様と戦うなんて私、絶対に嫌ですわ!!!」

「ちょっ、マリアナ! もうっ……!」

 どうやら、覚悟が出来ている者ばかりでもないらしい。

「と、とにかく、余計な迷いは捨てなさい! 良いわね!」

 シエルは頬を紅潮させながらも、人差し指をアリサの目の前に突き立てた。

 そして、腰に縋り付くマリアナを制圧して廊下を引きずって行った。

 

――生き延びるために親友を蹴落とさなければならない。

 という事実が、アリサの胸に重くのしかかっていた。

 朝、アルマが将来の夢を語っている時の顔。

 初めて会った時、怪我だらけの自分を心配し手当をしてくれたこと。

 熱心に勉強を教えてくれている時のこと。

 部屋で一緒に喜びあったこと。

 

 アルマには言葉に尽くせないほどの感謝があった。

 その友達を押し除けてまで、この帝都士官学校に残る?

 そんな理由が私にあるのだろうか?

 

 馬の頭を撫でて逡巡しゅんじゅんしては、夜が更けていった。

 そして、彼女が深く思い悩んで行くのと逆行するように、馬の体調は回復した。

 翌日には気持ちよさそうに馬場内を駆け回るローズの姿を見た。

 

「アリサ! 詰めが甘いわよ!」

 訓練場にシエルの鋭い声が響き渡る。

 アリサの手にしていた訓練用のランスが宙を舞い、地面に突き刺さる。

 シエルが首元に訓練用の槍の穂先を突きつけた。

「言ったはずよ。余計な迷いは捨てなさい」

 相対するシエルの瞳が、心中を見透かしたように鋭く光っている。

「ここが戦場なら、負ければあなたはそこで死ぬのよ。士官学校で戦いを学ぶ意味、理解できるかしら?」

 アリサの顔は暗い。まるで胸の中心に杭でも打ち込まれたかのように、心に大きな葛藤が突き刺さっている。

「戦場では、今の私のように相手は待ってくれない。そして、死ねばそこでお終い。それでも、あなたはみすみす相手に自分の命を渡すつもり?」

 シエルはアリサの喉元に武器を突きつけたまま言う。

 徐々にアリサの喉に尖った穂先が食い込んで行く。

「お、お姉様! それ以上は、お止めになって!」

 そばから見ていたマリアナが、シエルの武器を掴んだ。

「離しなさい、マリアナ。今のアリサには必要なことよ」

 シエルの鬼気迫る視線が、マリアナを貫くように睨んだ。

「あ……」

 あまりの威圧感にマリアナは怯み、武器を掴んだ手を思わず離した。

 シエルはみなぎっていた殺気を引っ込めると、ため息を吐いて武器を引いた。

「アリサ、今のままでは、あなたは勝てないわ。勝負以前に戦うつもりもないのだから」

 背を向けたシエルは武器を背負って帰り支度をする。

「さようなら、アリサ。例えあなたに出来なくとも、ブランドード家の名誉は私が守ってみせる」

 シエルは背を向けて言いながら、訓練場を出て行った。

 マリアナは傍から何か言いたげな顔でアリサを見ていたが、シエルに呼ばれて去っていった。

 アリサは訓練場の地面を見つめたまま、その場に立ち尽くしていた。

 

「……おい、何を呆然としている?」

 と再び声を掛けられるまで、アリサの心は煩悶はんもんの海に沈んでいた。

 アリサは、ふと気がついて目の前を見ると、地面に刺さったままだった訓練用のランスを手にしたロマンが居た。

「ロマン……?」

 アリサはロマンの顔を見上げる。

「お前、大丈夫か……?」

 ロマンは呆れた顔でランスの柄をアリサの前に差し出した。

「うん……大丈夫」

 アリサは無表情でランスを受け取って言う。

 アルマとの「決闘」はこの週末に行われるため、日は殆どない。

 彼女と戦うことはロマンにも伝えていた。

「彼女の魔術スキルは帝都士官学校でも随一と言えるほど高い。間違いなく近接戦闘に持ち込むのが勝ち筋だろう」

 というのが彼のアドバイスだった。

 訓練ではロマンは無詠唱で放つことのできる弱い魔術を放ち、アルマの詠唱時間を稼ぐ間の攻撃を模倣した。そして、それを避けながら接近する練習である。

 アリサは何度か失敗し、ロマンが何か助言をしていたが、頭には入らなかった。

――どうして、戦わなきゃいけないの?

 という疑問が、頭の中をぐるぐると回っている。

「おい、お前……」

 ロマンの苛々とした声で我に返った。

 いつも淡々とアリサに必要なことを教えてくれるロマンが、苛立ちを露わにしたのは初めてだった。

「何度同じことを言わせるつもりだ。集中しろ」

「ごめん……」

「それに、前より動きが悪くなっている」

「ごめんね……」

「集中しなければ、鍛錬は身にならない。今更こんな初歩的なことを教えている時間はない」

「うん……」

 深く俯いたアリサは、何とか声を絞り出す。

 全て分かっていた。彼の言うことは正しい。

 それでも、身体が、頭が、思うように働かない。

「いいか、アルマ・フォルバッハに勝たなければ、お前は……」

 その言葉を聞いた瞬間に、アリサの感情を閉じ込めていたたがが外れた。

「分かってる!!!」

 アリサの声が、誰もいない訓練場の中に鋭く響いた。

 ロマンは、驚いた顔で固まっていた。

「……わかってる」

 アリサは顔を歪める。

「ロマンは良いよね。戦う時に、私みたいにくよくよ悩んだりしないんでしょ?」

 アリサは顔を上げると、皮肉をこめた冷笑をロマンに向けた。

「でも、私は違うの……。友達の夢を押しのけてまで戦う理由なんて、私には見つけられないよ……」

 アリサが感情的に吐き出した言葉を、ロマンは何も言わずに聞いていた。

 吐き出してしまった後で、罪悪感がアリサの頭を支配した。

 アリサは、武器を地面に捨てると訓練場から逃げるように走り去った。

 

……


 ロマンは訓練場の地面に転がる武器を見つめていた。

 そして、一度ゆっくりと瞬きをすると顔を上げて訓練場を出て行く。

 彼女の行く場所には何となく検討がついていた。

 ロマンが厩舎きゅうしゃに入ると、案の定アリサは虚ろな表情で以前看病していた軍馬、ローズの部屋の前に居た。

 既にローズの体調は回復したようで、今日は柵の上から顔を突き出している。

 アリサはそのローズの首を優しく撫でていた。

 ロマンは静かに近づいて行く。アリサが気付いているのかどうか分からないが、もう逃げようとはしない。

「……すまなかった」

 ロマンは、ローズの隣の軍馬の部屋の前で足を止めた。

 そして、目の前で柵の上から首を出していた軍馬を撫でた。

「その子……」

 と、声がしてアリサの方を見る。

「鼻炎持ちだから気を付けて」

 彼女に言われて顔を馬の方に向けた時には、ロマンは盛大に馬のくしゃみを浴びていた。

「……少し、待っていてくれないか」

 顔が馬の唾液まみれになったロマンは、静かに厩舎きゅうしゃを出て顔を洗いに行った。

 

 三十分後。

「うむ……、他者の心の内を知るのは簡単ではない」

 ロマンは顔を拭きながら厩舎に戻って来ると、もっともらしいことを言って取り繕った。

 今度は馬に近づかず、厩舎きゅうしゃの壁際に設置されていた木の小さなベンチに腰を下ろした。

 足を組んで座ると、ロマンはため息を吐く。

「……俺も、お前と変わらない」

「何の話?」

 アリサはまだ馬に向かったままで、首を撫でている。

「いつも問いのない答えを探しては、もがき苦しんでいる」

「本当に? 意外だな……」

 アリサは手を止めて振り返り、ぎこちない笑顔を見せた。

「ああ、昔は、今のように思うがままに戦うことなどできなかった。戦いを極めることは、教えられたことをそのまま実践すれば良いという話ではない。生きた相手と戦う以上、訓練通りに済むことなど、殆どないからな」

 ロマンは今までに数えきれないほどくぐり抜けた死闘を思い返しながら、頭を厩舎きゅうしゃの壁にもたれかけて天井を見上げた。

「……今のようになるまでに、何度も死ぬような思いをした。そして、やっと戦闘が一人前になったかと思えば、今度は、お前や皇太子殿下の心の内を理解することができずに一人奔走している……。ままならないものだ」

「ふふっ、馬のこともね」

 アリサの軽やかに笑う声が聞こえた。

 しかし、ロマンは神妙な顔で頷いた。

「ああ。だが、それでも俺はこの道を進んで来た」

「……諦めようと、思ったことはないの?」

 アリサの声が沈む。

「……あるさ、幾度となくな」

 幼い頃から、師匠ラディクから厳しい訓練を受けた。無理難題に諦めようと思ったことは数知れない。雪山の中に手ぶらで放り出されたり、自分より何倍も大きな魔獣といきなり戦わされたりと、文字通り命がけで喰らい付いて、眼前を切り開いて来た。

「なら、どうして諦めなかったの?」

「俺には、この命を賭けても守りたいと思うものがあったからだ」

 ロマンは言った。

 言いながら、彼の意識は過去の記憶をさかのぼって行く。


 戦場では、どんなに高貴な身に生まれようとも、どんな夢を持っていようとも、どんなに素晴らしい人格者であろうとも、全く、何の区別もなく一つの命である。


 例えどれだけ愛している人でも、斬られれば死ぬ。

 彼がそれを初めて知ったのは四歳の頃だった。


 帝国の僻地、内乱のために戦場となった街。

 ロマンは、血溜まりに横たわる両親の死体を見下ろして立ち尽くしていた。

 家の小さな棚の中に隠れてやり過ごした彼は、反乱軍とも皇帝軍ともわからぬ輩の襲撃から生き延びた。

 そのまま両軍の激しい攻防で廃墟となった市街地の影をネズミのように這いまわっては、わずかな食糧を得てなんとか生き延びた。

 甲高い叫び声や悲鳴、兵士の怒号が昼も夜もなく、街中にこだましていた。それを子守唄に眠る日々がどのくらいか続いた。

 やがて、その声が止み、街はどちらかの占領下におかれたらしい。

 しかしそれは、街中を這いまわって何とか生き延び、とうとう力尽きようとしている幼い子供にとって、何の意味もないことであった。

 崩壊した建物の石の床の上に、何もひかずに横になり、ロマンは目を閉じていた。

 地響きが聞こえる。

 先日まで響き渡っていた地獄のような叫び声に比べると、それがやけに心地がよかった。

 おびただしい数の兵士が地を揺るがしながら、街に入って来たらしい。


「子供……?」

 急に上で男の声がした。

 気がついた少年、ロマンは薄く目を開いた。

 誰かが自分の顔を見下ろしている。顔はまばゆい陽光ににじんで見えない。

 しかし、誰であってもどうでも良かった。

 少年の命は、遅かれ早かれ消える、風前の灯だった。

「おい、この少年を運べ」

 少しの間沈黙していた男は誰かに指示した。

 そして、幼いロマンの身体が持ち上げられた。

 布にくるまれ、誰かに背負われ、意識が朦朧としながら、口の中に温かいスープを流し込まれたことや、傷の手当をされていたことはぼんやりと覚えている。

 

 そして、どのくらいの時間が経ったのか分からないが、ロマンは目を覚ました。

「……ここはどこ?」

 第一声は掠れた声でそんなことを言っていたかと彼は記憶している。

 部屋に人の気配はあるが、回答は無かった。

 ロマンは目を大きく開き、見回した。

 まず薄暗い天井が見えた。ほのかな灯りが天井を照らしている。

 顔を横に傾けると、部屋の奥の壁に旗が掲げられていた。

 ただ、帝国軍、反乱軍、どちらの旗なのかは、無知な少年にはわからない。

 他には水の溜まった洗面台や武器を立て掛けたラックなどがあり、ひとまず指揮所としての機能が保たれるようになっていた。

 どうやら街の廃墟の中に仮設された軍の指揮所のようだった。

 次に目に留まったのは部屋の中央、年季が入った深みのある赤のマホガニー材の長テーブル。

 その上にあるランタンの明かり。

 ランタンの隣には羊皮紙の紙の地図が敷かれ、テーブルの前では一人のすらりとした男が壮麗な鎧に身を包んで地図を睨んでいた。分厚いマントを背中に帯びて、綺麗な深紅色の髪が薄闇の中にやけに映えて見えた。

 視界の端で動く少年に気が付いたらしく、男のヒスイ色の瞳がこちらを向いた。

「目が覚めたか」

 男は無表情で言った。

「食事を用意させよう」

 部屋の両開きの扉へと歩いていく。僅かに扉を開くと、

「食事を持って来い。子供が目を覚ました」

 と外に居た何者かに向かって静かに言った。

 戦場のど真ん中であるのに、すぐに料理人と思しき者が食事を運んで来て、テーブルの空いた場所に丁寧に並べていった。

 寝かされていた寝台の上に座り、ロマンは呆然と部屋を眺めていた。

 テーブルの上の地図には軍旗を模した駒が幾つも並べられ、その周りには積み上げられた本や書簡、そして、黒いインクの瓶などの筆記具が雑然と置かれていた。

「何をしておる? こちらに座れ」

 男はテーブルの料理の並べられた場所に座る。男の向かいにはもう一人分の料理が湯気を立てている。

「は、はい……」

 ロマンは弱々しく答えて立ち上がると、テーブルに座った。

 パンと湯気を立てるスープ。簡素な食事が並んでいた。スープからは凄まじく良い匂いがした。恐らく脂がのった獣肉の類が入っているのだろう。本音を言えばすぐにでも食事にかぶりつきたいほど腹は減っていた。

「どうした、食わんのか? 冷めるぞ」

 目の前ですでに食事をかきこんでいる男は、中々手を付けないロマンに気が付いて言った。

「あ、あの……あなたは……?」

 ロマンは聞いた。

 この街は反乱軍に占拠されていた。その間の光景は惨憺さんたんたるものだった。捕えられた女は犯され、目障りな男は殺され、子供は働かされるか、役に立たないと見られれば殺された。

 しかし、目の前の男は、ただ声を上げて笑ったのみであった。

「子供が余計なことを気にするものではない。さっさと食え」

 男はあっという間に食事を平らげると、席を立って地図の前に戻った。

「ぼ、僕をどうするつもりなの?」

 耐えかねてロマンは聞いた。

 男の態度は、戦争が始まって以来見てきたどの大人とも違っていた。それが逆に不気味にも思えた。

 男は無表情でこちらを見る。

「何も」

 男はあまりに短すぎる言葉で回答すると、地図に視線を戻した。

 すると、外が騒がしくなり、何者かが両開きの扉を開いて駆け込んできた。

「失礼します、皇帝陛下!」

 駆け込んで来た黒い甲冑の兵士は片膝をついて頭を下げた。

 ロマンは耳を疑った。

「こうてい……陛下……!?」

 バルド皇帝と言えば、広大な大陸全土を治めるこの帝国の頂点に立つ存在である。

 そのくらいのことは、辺境の街の子供でさえ知っていた。

 その皇帝が帝都から自らこの辺境くんだりに来たというのか。

(このひとが……?)

 ロマンは目を丸くして男をまじまじと見る。

「どうした? 騒々しいぞ」

 男は地図の前から兵士を睨んで言った。

「も、申し訳ございません! しかしながら、反乱軍が突如反転攻勢に出た模様……」

 兵士の報告を聞くと皇帝は「ふん」と鼻を鳴らした。

「あの愚かな老いぼれめ、無駄なことを」

 皇帝は背中の長いマントをひるがえして、颯爽さっそうと歩きだす。

「迎え撃つ。全軍出撃の支度をせよ」

「はい、陛下!」

 皇帝の言葉を受けて、兵士は真っ先に部屋を飛び出して行く。

 皇帝は悠々と部屋の入り口へ向かい、思い出したように足を止めてロマンの方を見た。

「お前はここに居ろ。外は危険だ」

 皇帝は言うと、部屋から出ていった。

 ロマンは終始目を丸くしてその光景を見ていた。

 

 それから一日と経たず、街を奪おうと攻勢をかけて来た反乱軍は壊滅したらしい。

 戦場は街の外だったらしく戦況はよく分からないが、兵士たちがゆっくりと部屋を片付け始めたので、それとなく察した。

 兵士たちは、ロマンを見て見ぬふりをして部屋を片付けて行き、部屋の中に置かれていたマホガニー材の長テーブル以外は全て空っぽになった。

 最後に皇帝が扉から現れた。

 部屋を見回し、立ち尽くしているロマンを見つけると

「おい、お前。行くぞ」

 と手招きした。

「ど、どこへですか?」

「帝都だ」

 相変わらず、皇帝は短い言葉で伝え、それ以外に何の説明もなかった。

 

 石造の広い道路に大きな馬車が止まっていて、そこに鼻息の荒い精強そうな馬十頭が並んで繋がれている。御者は、先頭に居るひときわ大きい一頭の馬の手綱を手に取り、いつでも馬車を走らせることができるようにしていた。

 馬車の外装は黒の漆で塗装され、端々はいちいち精細な金細工で装飾されている。この馬十頭で引くほど巨大な黒と金の箱が草原の中を走れば、その異様さに誰もが驚くであろう。

 道路には撤収の準備を整えた帝国軍兵士で溢れている。

 その中でも一層、兵装が煌びやかな兵士たちが花道を作り、各々武器を真っ直ぐ目の前に掲げている。皇帝は幼いロマンを連れてその中央を悠々と行く。

 皇帝は馬車の扉の前まで来ると、

「おい、先に乗れ」

 と背中を押してロマンを馬車に押し込んだ。

 皇帝は振り返り、通りにひしめく兵士たちを見渡し、胸に深く息を吸い込む。

 そして、天へ向けて高く腕を突き上げた。

「勝利だ!!!」

 つんざくような声が通りにこだまする。

 兵士たちが一斉に同じように腕を高々と突き上げ、口々に勝利の雄叫びを上げた。

 街中に勝利の雄叫びを響かせながら、大軍の撤収が始まった。

 

 馬車は、城の一室に車輪でもつけてそのまま引っ張っているような有様で、中には高価そうなラグの上に一人がけのデスクや椅子、ベッドなどがあり、移動中に執務ができるような環境が整えられていた。

 ロマンは馬車の端、窓際に設置されていた椅子に座った。

「あ、あの……僕はどうなるんですか?」

 馬車に揺られながら、向かいに座った皇帝陛下に問う。

 皇帝は「さあな」と首を傾げた。

「……お前は、何がしたい?」

 皇帝に聞かれて、ロマンの視線は逃げるように窓の外へと向いた。

 いつの間にか市街地を抜け、広大な大地へと出ていた。

 馬車の周囲に皇帝を護衛する数騎の騎兵が駆けている。そして、馬車の背後からは音を轟かせて撤収する全軍が追随している。

「……どうして僕をたすけたんですか? 街には他にもたくさん人がいたのに」

 ロマンは俯いてしばらく考え込んだ末、答える代わりに聞いた。

 皇帝の問いに質問で返す者など、今にして思えば、その場で首を切り落とされても文句は言えない。

 しかし、幼い子供にとって世界は単純そのものであり、その目に物事のありのままの姿を映す力がある。

 どれだけの肩書きに身を飾ろうとも、この幼い子供にとっては、一人の男でしかない。

 聡明な皇帝はそのことわりをよく理解していた。

 皇帝はロマンの問いに神妙な顔をして黙り込んだ後、口を開いた。

「我は……今まで多くの命を奪って来た。敵も、味方も、大勢の命を……」

 皇帝は窓の外を見る。後方に延々と続く帝国軍の列が見え、その先に徐々に遠のいていく少年の故郷の街が見える。未だにどこかで火がくすぶっているのか、煙が上がっている。

「今回も例に漏れず、だ。だから……」

 と視線をロマンへと戻して寂しそうに微笑む。

「せめて、一つくらいは命を守った。と、そう思いたかったのかもしれぬ」

 ロマンは目を丸くして、皇帝の顔をじっと見つめていた。幼いなりに、その男の背後にある、血の道に思いをせようとした。

「どうしたら、終わるのかな」

 やがてロマンは、顔に暗い影を落として俯いた。

「……こればかりは分からぬ」

 皇帝はため息まじりに言った。

「なら、僕が帝都に行ったら、それを終わらせる方法を探してみようかな……」

 予想もしていなかった言葉に、皇帝は目をぱちくりとしばたかせ、驚いた顔をした。

 そして、盛大に笑い始めた。

「はははっ! それはいい!」

 腹を抱えながら膝を何度も叩き、目に涙すら浮かべている。

 あまりに大笑いするのでロマンはなんだか気恥ずかしくなり、顔を赤らめる。

「……是非とも頼みたいものだ」

 ひとしきり笑い終えると目尻の涙を拭いながら、皇帝は言った。

 そして、皇帝は窓の外に再び顔を向け、しばらく神妙な顔で黙っていた。

「……少年、帝都に戻ったら、お前に紹介したい者が居る。俺と似て偏屈な奴だが、頭は悪くない」

 俯いていたロマンが顔を上げると、さっきまで黙って外を眺めていた皇帝がこちらを見下ろしていた。

「誰ですか?」

「皇太子だ。名をレオニート、と言う」

 皇帝の眼には、言い知れない強い光が輝いていた。

「お前は血の道を終わらせたいと言ったな、少年。ならば、覚えておけ。人がこの暗黒の時代を進み続けるには、『希望』が必要だ。先ほど、我が兵士たちにしたように、勝利が……、そして、その先に未来があると信じるからこそ、民は、兵士は、我が後に続くのだ」

「希望……?」

 少年がつぶやいた言葉に、皇帝はゆっくりと頷く。

「お前が人々の『希望』となりうるか。我が、見届けるとしよう」

 

 今振り返ってみれば、皇帝陛下とゆっくり言葉を交わすことができたのはそれが最後だった。しかし、一度として、その時に陛下の瞳にこもった光の強さを忘れたことはない。

 とロマンは静かな厩舎きゅうしゃの中で語る。


「俺が戦うのは、あの日見た戦火からこの国を守るためだ。それを思うと、諦めようにも諦められない」

 ロマンは見上げた厩舎きゅうしゃの天井に、あの日の凄惨せいさんな戦場の風景を描いている。

「俺の持論だが、人とはつるぎのようなもので、誰しも心のどこかに刃を持っていると思っている。そして大抵、人は己のためにその刃を用いる。お前はまだ、内に隠し持った刃を誰にも向けてはいない」

 壁に頭をもたれたまま天井を眺めていたロマンは、視線を下げてアリサを見る。

 アリサは、ロマンがここに来た時と同じように馬の首を優しくさすっていた。

「……お前、他人が苦しむ姿は見たくないたちだろう?」

 馬の首を撫でているアリサの手がぴたりと止まった。

「現にお前は今も、戦う相手のことばかりを考えている。そして、これは仮説だが、お前は誰かを守るためにこそ、その刃を露わにする人間なのではないかと思う」

 ロマンは再び頭の後ろに自分の半生を映している。幼い頃に戦場の街を逃げ回っていた少年と、皇帝に出会った後の少年は同じ人間とは思えないほど変わった。

「……違うか?」

 ロマンの問いかけに、アリサは振り返る。

 その瞳の光が答えを語っていた。

 あの日、皇帝陛下がロマンへと向けた眼差しに似ている。

「……ならば、明日は武器を取れ。それを証明するために」

 気が済んだロマンは、一度ゆっくりと瞬きをすると、深呼吸した。

 冷静になってみて、えらく熱っぽく話していたことに気が付く。

「……余計なことを話しすぎた。この話は、他言無用で頼む」

 ロマンは腰を上げると、厩舎きゅうしゃの外へと去って行く。

「ねぇ、ロマン。本当に私が、勝てると思う?」

 アリサが背後から聞く。

「それは俺にも、誰にも分からない」

 ロマンは去ろうとする足を止めて振り返った。

「後は、お前の覚悟次第だ」

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