第5話 予感
翌日、アリサは窓から差し込む光に顔を歪めながら目を覚ました。
身体を起こして周りを見回してみる。部屋には白いシーツのベッド数台が連なっている。そして、向かいには薬品や包帯などが並んだ棚。どうやら、医務室らしい。
アリサは記憶を
医務室のデスクに居た白いローブの男は、アリサが目覚めたことに気が付いた。
「やぁ、身体は大丈夫かい? だいぶ酷くやられていたね」
と近付いて来てベッドの横に立った。金色の長い髪。ローブの下は、すらっとした細身。男はずいぶんと若かった。二十台後半くらいだろうか。
「僕はルシアン。魔術学の教師兼、医務室の治癒士だ。まさか講義よりも先に、君に自己紹介することになるとはね」
彼は、冗談を言いながら爽やかな笑顔を浮かべる。
「さて、怪我の治療は済んでいるけど、もう少しだけ、後遺症がないか様子を見ようか」
ルシアンに言われ、そのまま数時間を医務室で過ごした。
アリサが目覚めたことが伝わり、姉のシエルが医務室に現れた。
「……よく眠れたかしら?」
シエルは皮肉を言いながら、ベッドの
相変わらずの姉に、アリサは苦笑いを浮かべる。
先ほど、ルシアンから聞いたが、丸一日気を失っていたらしい。
「負けちゃってごめん。シエル」
昔から勝負事に勝った覚えがない。
そもそも、人はなぜ戦うのだろうか。
自分の立場を守るため。
あるいは己を証明するため。
姉のシエルは、家の名誉のためにと言うが、それは彼女が居れば十分なはずである。
アリサには、戦いに勝つことの意義が見出せなかった。
それに相手が傷つくのも見たくない。
それなら、自分が耐えればいい。
痛みはやがて消える。
恥はやがて忘れ去られる。
(私、一人が耐えれば……)
俯くアリサの顔に
シエルは深くため息を吐いた。
「……過ぎたことを言っても仕方がないわ。正直なところ、私も勝てるとは思ってなかった。想定の範囲内よ。幸い、最下位はこれ以上順位も下がりようがないし……」
「お姉様、フルーツが剥けましたわ!」
タイミング良く部屋の片隅でフルーツを剥いていたマリアナが、手にした皿を二人の間に差し出す。
皿の上には切り分けられた白い果肉がどっさりと盛られていた。
シエルは皿の端に添えられたシルバーのフォークを掴み、果肉に突き刺す。
「……とにかく、明日からまた鍛錬を開始するわよ。次の『決闘』では必ず勝つことね。あなたの成績からして、それがここに残るための絶対条件になるわ」
「う、うん……」
アリサの返事を聞くと、シエルはフォークに刺した果肉を口に運んだ。
そして、顔を歪める。
「マリアナ! 何なの、これ!? 渋いわよ!」
「え!? 私ったら果実の選定を間違えたのかしら……。お姉様にそんなものを口にさせるなんて。このマリアナ、一生の不覚ですわっ!」
マリアナは頭を両手で抱えながら大袈裟に
落ち込んでいたアリサは少し気を取り直した。
その日の夕方には、アリサは健康状態に異常なしとされ、医務室から出ることを許された。校舎から湖の上に架かる渡り通路を通り、庭園の中を歩いて寮に向かった。
道中、シエルの言葉を思い出す。
次の「決闘」に勝つことが絶対条件という。
明日からまた、訓練場でシエルの厳しい指導を受けることになる。しかし、アリサの正直な感想として、何においても飲み込みの早いシエルの教え方は、感覚的で身に付きにくい。このままだと次の「決闘」では、同じ結果が待っている気がする。
庭園の丁寧に切り揃えられた緑の美しい芝や色とりどりの花々。湖面を優雅に行く真っ白な水鳥さえもどこか高貴に見える。帝都士官学校の庭園の風景は皇帝の居城の中庭よりも美しいと言われる。しかし、そのような光景も、悶々としているアリサの目には入っていない。
「手酷くやられたようだな」
「!?」
急に誰かに背後から声を掛けられ、体をびくんと震わせて振り返る。
「……ロマン?」
いつから後ろを歩いていたのか、先日知り合ったばかりの男子生徒が居た。
「聞いたの?」
アリサは恥ずかしそうに顔を
「いや、見ていた」
「え……?」
アリサは驚いて視線を彼の方へと戻した。
確かに「決闘」は誰でも観戦が可能だが、最下位の戦いなど誰も注目していないらしく、あの日はほとんど観戦者は居なかった。
しかし、驚いたことにロマンはその数少ない観戦者の一人だったらしい。
「うん、丸一日寝込んでたみたい。私、才能ないのかな」
アリサは苦笑いしながら頭を掻く。
「俺には、お前は素質があるように見えるがな」
ロマンは何を考えているのかわからない顔で首を傾げる。
「そ、そうかな? 私、武器の扱いも魔術もなんの心得も無いけど……」
急に思いがけないことを言われて、アリサは戸惑う。
「それならば、俺が戦い方を教えても構わない」
「うん……って、えっ!? 本当に!?」
アリサは驚く。
彼と初めて会った時の説明は、武芸を嗜んで来なかったアリサにも簡潔で理解しやすかった。その彼が教えてくれるならば、渡りに船だ。
「ああ、お前が動けるようなら明日から。日中の全ての修練が終わったら訓練場へ来い。俺もそこに居よう」
「あ、ありがとう……。でも、本当に良いの?」
「ああ、少しくらいなら問題ない」
彼は頷くと去ってしまった。
アリサは彼の急な申し出に戸惑いつつも、他に頼れそうな相手も居ないので、翌日に訓練場へ行くことにした。
次の日、校舎の廊下でシエルをつかまえてそれを話すと
「……帝国の生徒よ? 簡単に信用して良いのかしら」
と訝しげな表情で言った。
「お姉様。そのお言葉、わたくしにも突き刺さりますわ」
後ろに立つマリアナが悲痛な顔で胸を押さえている。
「もちろんあなたは別よ、マリアナ。余計な茶々を入れないで」
シエルは呆れたようにため息を吐く。
「お姉様っ……!」
マリアナは目を潤ませながら顔を輝かせる。
アリサは目を点にして二人のやり取りを見ていた。
話が逸れたので、シエルは軽く咳払いする。
「……とにかく、教えてもらうのは構わないけれど、私との鍛錬をこなした上になさい」
「え!? あ、うん……分かった……」
アリサはシエルの扱きから解放されることを俄に期待していたのだが、それほど甘い姉ではなかった。
「あと、彼からはあくまで戦い方を教わるだけにすることね」
シエルが意味深なことを言うのでアリサは首を傾げた。
「あなたは曲りなりにもブランドード家の息女なのよ? 王国の有力貴族の娘。この意味、分かるかしら?」
アリサはまだシエルの意図を察しかねているようだった。傾げた頭の上に「?」が浮かんでいる。
「だから、他国の生徒と恋仲になることは許さないって言ってるの!」
シエルは察しの悪いアリサに苛々としながら言った。
「あぁ、うん、き、気を付けるね……」
アリサは苦笑いする。
そして、その日から訓練場でロマンに戦い方を教わった。その前に一緒に鍛錬をしていたシエルもマリアナと二人で見守ることにしたらしい。
アリサはシエルと鍛錬の後、それ以降の時間をロマンとの戦闘訓練に費やすようになった。
帝都の朝、台地の上に座す皇帝の居城。その白亜の尖塔が朝日を浴びて輝いている。高々とそびえる城の塔の周りを数羽の鳥が大きく翼を広げ、悠々と旋回している。
ヒルデグントは皇族邸宅の窓から、その景色を見上げていた。
彼女は皇帝陛下の計らいにより、帝都士官学校の生徒として帝国に滞在することを許された。そして、広い屋敷の中ではあるが、婚約者候補として皇太子と同じ屋根の下で暮らすこととなった。
とは言っても、婚約者の候補は当然、彼女一人ではない。帝国中の名立たる貴族たちが、何かにつけては皇太子と娘を婚姻させる算段を立てている。
しかし、皇帝は時を見計らっているのか、皇太子の婚姻に関しては言及しない態度を示している。よって、皇太子の婚約者は完全な空席の状態であり、各領地の息女持ちの貴族たちがこの機会を見逃す筈はなかった。
ところが、当の皇太子は貴族の才女たちとの見合いの話を全て門前払いにしていた。
「家名しか知らんような相手と何を話せと言うのだ!」
と無茶苦茶な理由で毎回突っぱねるのだが、使用人はそれをオブラートに包み丁重に言い換えて相手に伝えるのである。
それならば、と貴族たちは皇太子が入学する帝都士官学校へ息女たちを入学させて、そのとっかかりを作ろうと躍起になっている。
他の帝国貴族の息女たちがやっとのことで皇太子を一目見ることが叶ったにも関わらず、他国から来たヒルデグントは、あっさり皇太子と同じ邸宅に居住することを許されている。
よって彼女に対する帝国貴族の娘たちの視線は冷たかった。
故国からは売られ、帝国では冷遇され、婚約者としての立場も保証されているわけではない。彼女は今、異国の地で一人、宙に浮いた存在となっている。邸宅でも使用人たちは皇帝陛下の客人ということで、腫れ物にさわるように彼女を扱っている。
ヒルデグントは部屋を出た。近くに居た使用人の女に、ここに来て以来何度言ったか分からないことを尋ねた。
「皇太子殿下とお話しさせて頂きたいのですが……」
実を言うと、邸宅に来てから一度もレオニート皇太子とまともに話をしていない。食事も別々で、邸宅内では会えないので学内で話しかけようとするのだが、レオニート皇太子は二言目には「他に用事があるので失礼」と言って去ってしまう。
「申し訳ございません。朝方、殿下は取り込んで居られますので……」
使用人の女は困った顔をした後、深々と頭を下げて言った。
最初のころは確認しに行ってくれていたのだが、近ごろは取り合っても貰えなくなっていた。
ヒルデグントは部屋に戻ると窓際の椅子に座り、首に下がっているペンダントを握りしめた。今、彼女の心の最後の拠り所は、使用人のエリカにもらったこのペンダントになっている。
ある日の講義の時間。
講義を傾聴しているヒルデグントの身体を、後ろの席のアルマがペンの先でつついた。
ヒルデグントは驚いて身体を震わした後、振り返る。
すると、アルマがにやにやと笑いながら人差し指で横を示していた。
アルマの示した先を見ると、眠気に襲われるアリサの頭がふらふらと揺れているのが見えた。
二人は目を合わせて声を立てずに笑う。アルマは人差し指をアリサの方へと向け、雷の魔術を静電気大にしてアリサの
ここ最近、シエルとロマンの両方に稽古をつけてもらっているアリサは、疲れから座学の時間は殆どこうして朦朧としている。
アリサの朦朧とした意識の中では、昨日のシエルとの鍛錬が思い起こされていた。
シエルの打ち込みは相変わらずだった。一族に伝わるハルバート槍術を父親から学んだ彼女が手にした槍は、振り回すと空気を切る音が凄まじかった。不用意に受け止めようものなら、武器ごと身体が弾き飛ばされて大勢が崩された。
「手加減が足りなかったかしら?」
シエルは手にした訓練用の槍を肩に担ぎ、地面に這いつくばるアリサにいつもの如く皮肉を言った。
「……立って」
シエルは手を差し伸べてくれた。
加減を考えてくれているらしいが、それでも、吹き飛ばされそうな衝撃を受けては度々地面に伏してしまう。
身体の大きさも背丈も同じくらいなのに、一体どこからこれほどの違いが生まれるのだろうかとアリサは不思議に思ったほどだった。
アリサは地面に横たわる自分の訓練用の槍を握りなおして立ち上がった。
もう二時間近くは休憩もなしにこれを続けている。アリサの武器を握る手にも力が入らなくなって来ていた。
「良いわね? もう一度行くわよ」
シエルは言うと、槍を構えた。
やや遠目の距離から穂先で身体を狙った横薙ぎの攻撃が来る。
これは身体の横に槍を縦に構え、身体と槍の重みを使って受け止めた。
シエルは弾かれた勢いを殺さず反転し、今度は逆から襲う。
槍を握った両手を反対に返して、その攻撃を受ける。
弾かれた後、さらにシエルは軸足を中心に、体をくるりと回して今度は槍の石づきを真っすぐこちら目掛けて突き出してくる。
(これは相手の槍の支点を見極めれば……)
シエルに言われた槍の扱いを思い返しながら、突き出された槍を払いのけた。
しかし、もう一つ言われたことを忘れていた。
「相手の不用意な突きは体重を乗せて大きく弾きなさい。決定的な隙を作り出すことができるわ」
その言葉を思い出した時には、シエルはアリサの槍を左手で掴みながら、小さく弾かれた槍を外側から返してアリサの槍を絡め取った。
シエルは奪ったアリサの訓練用の槍を、片手で横に放り投げた。
「油断したわね」
無防備になったアリサに向かって、シエルは槍を振りかぶる。
バチッ!
「きゃあああああああっ!!!」
絶叫して飛び起きたアリサを、講義室中の大勢の生徒が目を点にして見つめている。
「ど、どうしましたか?」
魔術学の講義をしていた教師、ルシアンが困惑した顔で低い位置にある壇上から見上げている。
寝ぼけていたアリサは状況が理解出来てくると、顔の下から上までみるみるうちに真っ赤になっていった。
アリサは周囲を見回すと、驚いてぽっかりと開いた口を手で覆うヒルデグントと、こちらに向かって人差し指を立てたままの状態で、小動物のように目を潤ませているアルマが見えた。
「アリサ~! ほんとにごめんね!」
講義が終わると、アルマは泣きつくように謝った。ちょっと悪戯をするだけのつもりが、大事にしてみんなの笑われ者にしてしまった。
「あ、うん……。大丈夫だから」
アリサはげんなりとした顔で言った。離れた場所から不機嫌そうなシエルの視線が突き刺さっている。今日もハードな鍛錬になりそうだった。
ヒルデグントはぐっと体を伸ばす。講義で長い時間座っていたので気分転換がしたかった。
「私、少し外を歩いて来るわね」
ヒルデグントはアルマとアリサに告げて廊下へと出た。
「おぉ! お前!」
突然、レオニート皇太子の呼ぶ声が聞こえて来る。
ヒルデグントはやっと皇太子から声を掛けられたと、表情を明るくしてその声の方を向く。
しかし、すぐに勘違いしていたことがわかる。
皇太子は一人の背の低い少女と話していた。
「ど、どうしたの!?」
ルフィナは驚いた顔でレオニートを見る。
「この間、貰ったアレだが、恐ろしく美味かったぞ! 一体どうやって作ったんだ!?」
「どうやって……って、フツーの菓子パンだけど……?」
顔を輝かせるレオニートに、ルフィナは困惑した表情を浮かべる。
「是非またアレを食べたいのだが……!」
「あぁ、うん。じゃあ、明日、また持って来てあげるから」
ルフィナは苦笑している。
しかし、レオニートはその苦笑を別の意味に捉えた。「なるほど」と笑うと
「もちろん、タダとは言わんさ。幾らほしい?」
と言った。
「お代は要らないわよ」
ルフィナは呆れた顔で両手を腰に当てると釘を刺す。
「
彼女は両手を広げて見せる。間違いなく帝都士官学校の制服に身を包んでいる。しかも、どうやって計測したのか、より高価な特注サイズでルフィナの身体にジャストフィットしている。
「そ、そうなのか?」
今度はレオニートが不思議そうな顔をした。さすがに金銭感覚が普通とはかけ離れているらしい。
ヒルデグントはその光景をじっと眺めていた。
話が終わったルフィナは、無邪気な顔でヒルデグントの近くを通り過ぎて行く。
すれ違った彼女を、ヒルデグントの視線が追いかける。
美しいエメラルド色の瞳が、冷ややかな光を帯びていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます