第6話 対局

 今期生が入学してはや二か月が過ぎようとしていた。

 帝国から遥か遠方、神楽の国より来たチカコ・オオウノミヤツカサ。彼女は帝都士官学校内部にあるカフェテリア「湖面の語らい」で飲み物を片手に静かに風景を楽しんでいた。

 この「湖面の語らい」は、帝都士官学校の校舎がある湖中央の島から一つ橋を渡った小さな島にある。

 台地の端近くにあるカフェテリアからの風景は穏やかな湖面と、その向こうに見える帝国の大地、山脈の光景を臨みながら食事を採ることできる。

 広いカフェテリアの中にはゆったりと間隔をおいてテーブルが並べられている。

 壁面には大きなアーチ形の窓が連なっており、外の景色がどこからもよく見える。

 チカコ・オオウノミヤツカサは、その窓の外の景色を見ながら白磁のカップを持ち上げて口元で傾ける。

「ふむ、このこーひーとかいう飲み物は悪くないな」

 と満足気にほほ笑んだ。

「楽しんでいらっしゃいますね、姫様……」

 向かいに座る同い年くらいの少女が苦笑いを浮かべる。

 うなじ辺りまで覆い隠す白髪は、窓から差す光に透けて桃色がかったように見える。瞼は切れ長で凛とした目元。

 彼女はこのチカコを護衛することを役目として入学し、四六時中行動を共にしている。しかし、この姫君は勉学や鍛錬はほどほどに、無邪気にこうして異国の生活を楽しんでいる。

「私はお茶が恋しいです……」

 凛とした見た目に似合わず、向かいの女子生徒はアンニュイなため息を吐く。

「コトネ?」

「あ、申し訳ございません、姫様!」

 名前を呼ばれた女子生徒は、はっと顔を上げる。

「故郷が、恋しいか?」

「……ええ、姫様は違われますか?」

 コトネの言葉を聞きながらもチカコはカップを顔に近づけ、コーヒーの香りを楽しんでいる。

「私にとって、神楽の国は牢屋のようなものだ。正直言って、ここの生活は私にとって最高の休暇になる気がしている」

 チカコはまた一口コーヒーをすすった。

「チカコ様……」

 コトネは少し悲しそうな顔をする。故国でも筆頭としてこの姫君の護衛を務める彼女は、チカコが公務以外で屋敷から出ることを監視する役目も担っている。幼い頃は何のしがらみもない友達だったのだが、今はお互いが家の都合のために生きている。

 コトネはそれを疑問に思ったことはないが、この姫君は違うらしい。

「……行こう」

 チカコはカップを置いて席を立った。

 

「チカコ様、もうじき『決闘』の時期かと」

 士官学校の校舎へと戻り、廊下を歩いているときにコトネが言った。

「ん? ああ、そう言えば、そんな話があったな」

 チカコは足を止める。

「うむ、それにしてもこのスカートとかいう着物はヒラヒラして心許ない……」

 チカコはスカートの裾を掴んで捲り上げる。スカートの下の白い太腿がチラつく。

 が、瞬時にコトネが通行する生徒たちの視界を遮るように立ち塞がる。

「ひ、姫様、人前でそんなに捲り上げてはいけません! はしたないですよ!」

 コトネは顔を赤くしながら、必死にチカコのスカートを捲り上げる手を掴んで下げさせる。

 この姫は故国での窮屈な礼儀作法から解放されて、すっかり隙だらけになっている。

「と、とにかく、『決闘』は戦闘の実戦訓練です。相手も全力で来ますので用心しませんと……」

「なに、剣の練習なら毎日欠かさずしているさ」

 チカコは腰にいた刀に手を置く。

「では、戦う相手の確認はされましたか?」

「誰が相手であろうと自分の全力を尽くすだけだ」

 口煩くちうるさい護衛の小言を、チカコがいつもながら飄々ひょうひょうと聞き流していると

「ちょっと貴女、良いかしら?」

 と一人の生徒から声を掛けられた。

 銀色の髪。黒い薔薇ばらの髪飾り。蒼白の双眸の生徒。

 シエル・ブランドード。

 今期入学者の中で現在成績トップに君臨しているため、コトネは直接の面識こそないものの一方的に彼女の顔は知っていた。

 背後にはまるでしもべのように深紅の髪の生徒が背筋を伸ばした美しい姿勢で控えている。

「何か?」

 コトネが聞く。チカコの一歩前に出て警戒感を示す。

「いいえ、違うわ。そっちの貴女よ」

 シエルは後ろの窓際に佇むチカコを指差す。

 コトネの眉がぴくりと反応する。故国では、道を通れば往来の全員がひれ伏す姫君を、指差すなどということは言語道断である。

 コトネが食って掛かろうとする一瞬前に、それを見通していたかのようにチカコが進み出て制した。

「失礼、何か気に障ることがあっただろうか?」

 チカコは涼やかな微笑を向けて聞く。公務でこういう横柄おうへいな態度に接することは慣れていた。

「学内で殺傷能力のある武器の携行は許可されていないわ。武器が私物にある場合は寮室から持ち出さないようにするか、学校に預ける。いずれかよ」

 シエルは視線を落としてチカコの腰にかれた刀を見る。

「なるほど、それは失礼した。故国では剣が身分を表すため、外出の際は肌身離さず持ち歩く風習なのだ。もちろんこちらの規則に従わせてもらおう」

 チカコはあくまで穏やかに言うと、刀を腰回りの太刀紐ごと外して、誰も居ない方へ差し出した。

 シエルは怪訝そうにその手を見つめていると、どこからともなく女子生徒が現れて一礼しながらそれを両手で受け取った。

 そして、驚いた顔のシエルのかたわらを抜けて行く。

 その生徒の背中を視線で追おうと振り返った時には、刀を受け取った生徒の姿が消えていた。

「お姉様……!」

 と別の方を見ていたマリアナがただならぬ様子で呼ぶ。

「どうしたの?」

 マリアナの視線を追って廊下を見渡すと、まばらに談笑していた生徒たち数人の視線がこちらに向いていることに気が付いた。目の合った生徒はどうやら全員、神楽の国の生徒らしい。

「……あの刀は寮室で保管させてもらうことにするよ。何せ、私にとって大事な物なのでな」

 声が聞こえ、シエルは顔を正面の風変わりな異邦人へと戻す。

 目元には相変わらず涼しげな微笑が浮かんでいる。

「……それで結構よ」

 シエルは表情を変えずに言った。

 

 シエルはマリアナとその場を離れ、校舎内に居る妹の元を目指した。

 アルマやヒルデグントと掲示板の前に居たアリサを見つけ、シエルは歩み寄って行く。

「アリサ、次の予定は?」

 シエルは聞いた。

 前回、アリサが大敗した「決闘」から一か月半が経過し、そろそろ妹の第二戦目の組み合わせが公表される頃合いだった。

「これ……」

 アリサは掲示板の一角を指差した。

 シエルはその指し示された先を見る。

“チカコ・オオウノミヤツカサ 対 アリサ・ブランドード”

「さっきの……」

 シエルは呟いた。

 他の留学生の顔と名前は頭に入っていた。彼女でなくてもほぼ全ての生徒が、最も障害となる各国からやって来た生徒たちの顔と名を覚えているだろう。

 そして、多くの生徒は「決闘」の組み合わせに当たらないように祈っている。

「よりによって同じ留学生が相手なんて……。帝国の生徒とだけ当たるわけじゃないんだ」

 アリサの隣に居たアルマは嘆くように言った。

「それだけ公正に組み合わせが決まっている、という証拠ですわね」

 シエルの背後のマリアナが言う。

 一方のシエルは腕組みをして思考を巡らせている。

 そして、考えに整理が付いたようで視線を上げる。

「アリサ、今日の士官学校での修練が終わった後、すぐに訓練場へ来なさい」

 シエルはそう言い残すと、アリサの返事を聞く前にマリアナを連れてその場を去った。

 

 当日の修練後、アリサはすぐに訓練場のシエルとマリアナの元へと向かった。

「敵を打ち破るには先ず、敵を知ることよ」

 訓練場に来たアリサに気が付くと、シエルは視線を訓練場の端で木の人形を相手に剣を打ち込んでいる一人の生徒に向けた。

 

「おや、あなたは……」

 近付いて来た三人に気が付くと、チカコ・オオウノミヤツカサは訓練の手を止めて言った。

「今朝は、失礼したわ。規則違反はとがめめられる前に伝えた方が良いと思って」

 シエルは相手の機嫌を探るように言った。

「気にしないで欲しい。規則を知らなかった私の落ち度だ」

 チカコは涼やかに微笑を浮かべて言った。額を流れ落ちる一筋の汗でさえ、どこか涼しげに見える。

 内心は読みにくいが、立ち話をするくらいは問題なさそうだ。

 そう判断したシエルは表情を緩める。

「そう言ってもらえると助かるわ。そういえば、自己紹介がまだだったわね。私はラヴァンディエ王国のシエル・ブランドードよ」

「神楽の国、チカコ・オオウノミヤツカサだ。よろしく頼む」

 と言うと、彼女は姿勢を正して頭を下げた。

 かしこまった所作にシエルは少々驚いた顔をする。

「ああ、失礼。私の国なりの挨拶の仕方なのだ。公務の時の癖が出てしまった」

 チカコは照れ笑いを浮かべる。案外フランクな人物なのかもしれない。

 少し拍子抜けしたが、話しやすい雰囲気になったので少し踏み込んでみることにした。

「……実は今度の『決闘』で私の妹と戦うみたいだから、今日は少し挨拶をしておこうかと思ったの」

 とシエルは後ろのアリサに目を向ける。

「妹のアリサよ」

「ああ、そうだったのか」

 チカコもアリサに視線を向け、笑いかける。

「あなたと対戦が楽しみだ。よろしく頼む」

「アリサ・ブランドードです。その、よろしくお願いします……」

 アリサはおずおずと挨拶するが、それ以上の言葉が思い浮かばない。

 気まずい空気が流れかけたのでシエルが別の質問をした。

「これから、どんな鍛錬をするのかしら?」

 シエルは言いながら、離れた場所に置かれた人の銅ほどの太さの丸太に目を向けた。訓練用の木の人形なら幾つも並べられてあるのだが、その中に丸太が突っ立っている。

 チカコはシエルの視線を追って丸太を見た。

「ああ、丸太あれのことか。私の家では代々、『風刃ふうじん』という剣術が伝承されていてな。ただ、私はまだ扱いが慣れないから、これからその練習をしようとしていたところだ」

 言うと、チカコは慣れた手つきで腰の刀をすらりと抜いた。

「少し見せて差し上げよう」

 三人に一度笑いかけると、丸太の方を向いて刀を上段に構える。

 呼吸を整えるように目を瞑るとチカコの周囲に風が取り巻き始め、刀の方へと伝わって行く。

「ハッ!」

 チカコは気を練った声と共に斜めに刀を振り下ろす。

 まるで斬撃が飛び出したかのように、刀を取り巻いていた風の刃が空気を切り裂きながら丸太を貫通して通り過ぎる。

 丸太は一瞬の間をおいて上半分が斜めに切れ、自重でストンと滑り落ちた。

「……やはり、上手く行かないな」

 構えを解くと、チカコはため息を吐いた。

「え? でも丸太はちゃんと切れてるのに……」

 アリサは丸太から目を離し、チカコを見る。

「いや……」

 とチカコは首を横に振る。

 

 訓練場の的や木の人形の後ろは、生徒が放った矢や魔術などが訓練場外に飛び出るのを防ぐ意味で高い石垣が積まれている。

 

 その石垣に斜めに切り込みが入り、轟音と共に崩れ落ちた。

 地響きのような音に訓練場に居た他の生徒たちからざわついた。

「これでは、訓練場が壊れてしまう……」

 チカコが苦々しい顔で刀の刃を見つめる。

「塀の後ろの木まで倒れていますわ……」

 マリアナは目が点になっている。

「せ、制御の方はともかく、素晴らしい技ね」

 驚いた顔のシエルが何とかお世辞を言って取り繕った。

「ああ……ありがとう。気を遣ってもらわなくても大丈夫だ。あなたたちと違って、私はまだまだ未熟者だよ」

「ところでそれ、部屋で保管すると言っていたような気がするのだけれど……」

 シエルは言いにくそうにチカコが手にしている刀を指差す。

「ああ、これはさっきの刀とは別物だ。刃が丸められていてな。あくまで訓練用だよ」

 証明するようにチカコはその刀をシエルに見せながら、刃先の上を指先でなぞって見せる。

「今度、あなたの妹との『決闘』ではこれを使わせてもらおうと思う。木刀よりも実戦のつもりで戦えるからな」

 チカコはシエルの背後に居るアリサの方を見て「ん?」という顔をする。

 シエルは振り返った。すると肝心の妹の姿がなかった。

「アリサ……?」

「お姉様、アリサはあちらですわ」

 呆れ顔のマリアナが、手のひらで訓練場の入り口の方を示す。

 気配を消して訓練場から出て行こうとするアリサの背中が見えた。

「……どこに行くつもり?」

 シエルがアリサの首根っこを捕まえる。

「む、無理だよ! 殺されちゃうよ!」

 アリサは涙目でじたばたと抵抗するが、シエルから逃れられるはずもない。

「だから、これからそうならないように鍛錬を積むのよ!」

 アリサは、シエルに訓練場の別の場所へと引きずられていく。

「うむ、思ったよりも親しみやすい人柄なのだな」

 チカコは腕組みし、二人を満面の笑みで見送った。

 残されたマリアナは隣で苦笑している。

 

 数日後の帝都士官学校、庭園。

「っていうことがあって……」

 アリサはうなだれる。

「ふむ……」

 ロマンは腕組みをして聞いていた。

 シエルと実戦の訓練を積んでいるものの、このままでは負けるどころか命も落としかねない。

 なので、ここ最近会えてなかったロマンに相談していた。

「彼女の使う『風刃ふうじん』とかいう剣術は近接戦闘に風の魔術を取り入れたもので間違いないだろう」

「そうなの?」

 アリサは首を傾げる。

 ロマンは頷いた。

「習得するのにコツは要るが、下級クラスの基礎魔術は詠唱がほぼ無いに等しい。それらを近接戦闘術と組み合わせる戦い方は、帝国の兵法では古くから戦術的に取り入れられている。この国でそれを学ぶことができる筆頭の教育機関がこの帝都士官学校だ。しかし、神楽の国にも帝国とは別に秘伝として伝わる術があるようだな」

「対抗するにはどうしたらいいのかな?」

「魔術に対抗するには魔術を使うのが常道だ。対策を考えるとしよう」

 ロマンはきっぱり断言する。その迷いのない表情から、判断に絶対の自信が読み取れた。

 おかげでアリサは少し安心した。

 

 その日の夕方。

 訓練場にアリサの姿があった。

 木製の円形の的から少し距離をおいて向かい合っている。

「お前の得意な魔術を使ってみろ」

 少し後ろからロマンが指示する。

「分かった」

 アリサが魔術を撃つために手を的に向かってかざす。

「……どうした?」

 静止したままのアリサに、背後からロマンが聞く。

「あ、あの……もう、撃ったの」

 アリサは姿勢を崩すと気まずそうな顔で振り返る。

 ロマンは無表情のまま円形の木製の的を見るが、傷一つない。よりによって新品のようで、綺麗に切断された的の年輪の美しさが際立っていた。

「……そうか。わかった」

 ロマンは背を向ける。

「ねぇ、何か助言はないのっ!?!?」

「無い」

 ロマンはそれだけ言うと、訓練場を出て行こうとする。

「ま、待って! 真面目に練習するから見捨てないで!!!」

 アリサは涙目でロマンの腰に縋りつく。他に頼れる人などいない。

「見捨てる……? 何を言っている? 魔術の修練に必要なものを取りに行こうとしているだけだ。少し落ち着け」

 ロマンは困惑した顔で振り返る。

「え、あ、そうなの……」

 アリサは恥ずかしそうに離れる。生まれてこの方、男性の身体に抱きつくなど初めて経験した。思ったよりもかなり、ロマンチックではなかった。

 

 アリサは訓練場で待つ間、何度も魔術を撃とうと試みた。

 ブランドード家には、代々受け継がれて来た槍術がある。その中には火の魔術を複合した技が多く存在している。

 父から直伝で教示を受けた姉、シエルは火の魔術の扱いを得意としていた。

 幼い頃、アリサも一緒に教えを受けたのだが、シエルばかりが出来るようになり、自分は全く出来もしなかった。父親の期待に応えられず、そもそも戦いそのものが好きになれなかったアリサは、槍術も魔術も辞めてしまった。

 それ以来ぶりに入学試験の時、火の魔術を使ってみようとしたのだが、手のひらから紐のような弱々しい煙が発生したに過ぎなかった。

 

「待たせたな」

 しばらくすると一つの書物を手にロマンが戻って来た。

「基礎魔術の、指南書?」

 アリサは不思議そうにタイトルを読んだ。

「ああ、帝都士官学校では教材にすら入っていないほどの初級の書物だ」

「どうしてそれが必要なの?」

 アリサは聞く。

「俺が今から詠唱の必要ない各六属性の下級魔術を教えていく。お前は特に深く考えずに俺の教えた魔術を使ってみろ」

 ロマンは言った。

「で、でも、私、火の魔術以外練習したことないよ?」

 アリサは不安そうに言う。

「気にしなくていい。言っただろう? 深く考える必要はない」

 言いながら、ロマンは本のページをめくり始めた。

 

 魔術は原則、地、火、水、氷、風、雷、六つの属性に分類されている。

 例外としては以前、ルシアンがアリサを治療した時に使用したような、どの属性にも属さない無属性という特殊な分類も存在する。しかし、扱える者の数は六属性に比べてかなり少ない。

 そして、すべての魔術には複雑さに応じて下級、中級、上級の魔術の階級分けがあり、下級魔術は最も単純な魔術であることから中級以上に必要とされている発動術式を構成する詠唱も必要ない。アリサが今から学ぶのはこれである。

 地、火、水、雷、風、五つの下級魔術はほとんど発動もしなかった。

 しかし、

「で、できた!」

 アリサは思わず歓喜の声を上げた。

「やはりか」

 ロマンは背後から言った。

 的にはアリサが魔術によって放った拳大の氷塊が突き刺さっている。

 アリサは氷属性の魔術を使って見せた。

「才能の問題ではなく、単に適正の問題だ」

 魔術を発動するとき、太古の言語を詠唱に使用する。主に属性ごとに根源となる共通の「概念」があり、太古の言語はその「概念」から枝分かれするように単語が存在している。そのため、属性の根源となる「概念」の理解のあるなしによってある程度扱えるかどうかが決まる。

 しかし、この太古の言語は遥か昔に途絶えた文明のものであり、本当の意味でその「概念」を理解できる者がいない。世界の魔術学の研究者たちはその「概念」について日夜、しのぎを削るようにして議論を交わしている。

 ましてや研究者ではない一般人や兵士たちにその「概念」について深く考える機会はあまりない。また、理解している者も、当てはまる概念が現代の言葉に存在しないことから明快に説明することが難しい。

 こうした理由があって、一つの属性の魔術を極めることでさえ困難と言われる。

「だが、その人間の培った価値観がそのまま太古の言語の「概念」に近いことがある。これが魔術の素養というやつだ」

 ロマンは丁寧に説明していく。

「お前は、家で伝承されて来た魔術にこだわり、火属性の魔術を使おうと躍起になっていたようだが、お前の適正は他の属性に……」

 しかし、アリサは初めて魔術を使えたことに感動し、ロマンの説明も聞かずに喜んでいる。

「おい、説明を……」

「できたよ! 生まれて初めてちゃんとできた!」

(まだ、初歩の魔術が使えたに過ぎないんだが……)

 ロマンは苦々しく笑う。しかし、アリサがあまりに嬉しそうな顔で喜んでいるので言い損ねた。

 

 翌日夕刻。皇族邸宅。

「レオニート、頼みがある」

 ロマンは無表情で盤上の駒を動かしながら、向かいに座る皇太子に言う。ここのところレオニートは機嫌が悪い。先日皇太子が知り合ったパン屋で働く少女、ルフィナにあまり深入りしないように助言をしたところ、少し口論となった。

 それを見ていたオレクは肩をすくめて「ボードゲームでもやって落ち着いたら?」と二人をテーブルに向かい合せに座らせ、テーブルの上に皇太子が好きなボードゲームを置いた。

「……お前が、俺に頼み事だと?」

 盤上を見たままのレオニートの厳めしい顔が少し緩む。

「ああ、本当は立場上、俺がお前を頼ることなどあってはならないのだが、これは友人としての頼みと思って、どうか許してほしい」

「ふん、良いだろう。話してみろ」

 レオニートはまんざらでもない顔をしている。

 ロマンは、自分が皇太子の従者である以上、友人であろうとも弱みを見せないようにして来た。

「可愛げのない奴だ」

 とレオニートはいつも言っているから、こういうふうに頼られるのは悪い気がしない筈、とロマンはふんだ。

「……アリサ・ブランドードというラヴァンディエ王国から来た生徒が居るだろう」

 ロマンが頼み事の内容を話し始めるが、レオニートは真顔で

「……ん? 居たか?」

 と首を傾げた。

 皇太子の無関心さにロマンはため息を吐く。

 本来なら皇太子としての立場上、他国の将来を担うであろう異邦の留学生たちに挨拶をして回るくらいのことはしても良いと思うのだが、そのことは心底どうでも良いらしい。

「兄貴、知らないの?」

 部屋の端から呆れた様子でオレクが言った。

「ラヴァンディエ王国の重鎮、ブランドード家の次女。姉のシエルさんと言えば、今期生の頂点に君臨してる実力者だよ」

 オレクが詳しく他国の生徒の情報を調べていたことに、ロマンは意外な顔をする。

「ほう、日ごろ呑気にしているお前でも他国の生徒は気になるか」

 オレクの生家であるクリシュトフ家は、大陸の西側領土の大部分と交易の要衝である港を任されている。皇帝一族に次ぐほどの名家であり、任された領土の重要さからしても皇帝陛下からの信頼のほどが伺える。

 その家の次男ともなれば、将来的に有事の際には第一線で働く必要がある。適当そうに見えて、案外頼りになるらしい。

「当たり前だろ」

 オレクは神妙な顔でロマンとレオニートが座る方を見る。

「女子のリストは全部頭に入ってるさ!!!」

「……お前に一瞬でも期待した俺が馬鹿だった」

 ロマンは呆れて項垂うなだれ、その向かいでレオニートは愉快そうに笑っている。

「……とにかく、そのアリサ・ブランドードという生徒が今度『決闘』である訓練生と戦うことになっている。俺は個人的に、アリサ・ブランドードに勝ちがついて欲しい。そのための作戦をお前に頼みたい」

「へぇ〜、やっぱ、あの子のこと気になるんだ?」

 オレクは顔を輝かせながら、椅子の背もたれに肘を乗せて二人の方を向く。

「お前は黙ってろ。そして、なぜ寮に戻らん?」

 ロマンは苛々と言った。

「ルームメイトがすげー気難しいヤツでさぁ。部屋に居るの気まずいんだよなぁ……」

 オレクは頭を掻く。

 レオニートはロマンを見て、目を細める。

「気難しいヤツならここにも居るがな」

「ぐっ……」

 不意にレオニートに突かれ、ロマンは眉間に皺を寄せる。

「……頼む、レオニート。引き受けてくれ」

 ロマンは話を戻し、レオニートは、ふっと表情を緩めた。

「いいさ、分かった。が、交換条件だ」

「交換条件……?」

 ロマンがその条件を聞こうとした時、不意に部屋のドアを叩く音が聞こえた。

 レオニートはため息混じりに「またか……」とボヤく。

「入れ」

 と返事をすると、視線を目の前のボードゲームに戻し、顎に手を当てて思考し始める。

 レオニートの不機嫌を知っている執事の男は、静かに入ってくる。

「殿下、エルドニク家のご令嬢とお会いになられる件、如何でしょうか?」

 入ってくると愛想よい微笑を浮かべながら男は言った。

ていよく断ってくれ」

 レオニートは一瞥いちべつもせずに盤上の駒を動かす。

 遠まわしの縁談である。レオニート皇太子の縁談嫌いは邸宅の中では有名だった。毎度こうしてばっさり断られるのは慣れているだけに執事の男も動じなかった。

「かしこまりました。それから、ヒルデグント様がお会いになりたいと申されてますが、こちらは……」

「断ってくれ、ていよくな」

「……かしこまりました」

 執事の男は一礼すると部屋から出ていく。


「……一度くらい会ってやれば良いのではないか?」

 ぱたりとドアが閉まった後、ロマンは言った。

「そうだぜ、兄貴。一緒に住んでるヒルデグントって子、前に見たけど超絶美人だったぞ? 一体どこが不満なんだよ」

 オレクが大袈裟に肩をすくめて言った。

「だから何度も言ってるだろう。利益のための縁談なんぞ幾ら持って来られても会いたいと思うか。おい、ロマン。早く駒を動かせ」

 レオニートはやや長考となっているロマンを急かす。

「ちょっと待て……」

 ロマンははやるレオニートを抑える。

「……お前の立場上、どのみち婚姻には国益が絡む。単なる恋愛結婚だと思うな」

 急かされたロマンは盤面をじっと見つめて考えつつも、理路整然と言った。

「やかましい。口ではなく駒を動かさんか、駒を」

 レオニートは組んだ腕の上で指を苛々と人差し指を打ち始める。

「……それから、お前は勝手に決めつけているようだが、俺はまだ皇帝陛下の後を継ぐとは言っていないぞ」

 レオニートの言葉にロマンは苦悩の混じった重いため息を吐く。もう何度、このやり取りを繰り返したか分からない。

「レオニート、頼む。帝都士官学校にも入ったんだ。もう覚悟を決めてくれ」

「……お前の番はどうした?」

 レオニートは聞く耳を持たず、ボードゲームの話に戻した。

「……降参だ」

 盤面上も詰みとなり、ロマンは両手を上げた。

(今のところは、な)

 ロマンは密かに心の中で呟く。これはもちろん皇位の継承のことである。

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