春の句

宮島織風

春の句

 私が生まれた時、父は佐世保の潜竜ヶ滝にて滝行をして無事を願っていたと聞かされた。1980年の暮れ、さぞかし寒かっただろう。私は、いわゆる「詰め込み教育」の末期にて義務教育を収めた。

 学習指導要領の改訂にて、ゆとり教育なるものが推し進められたのは私の様な者にとっては良かったのかもしれない。だけど、教職になった私に待っていたのは上の命令で右往左往する教育現場であった。


 春、私は弓張と言う名士の家に生まれたが兄の叡一郎が当主を継いでしまった。あれほど気骨と柔軟性に溢れた人間を、私は知らない。

 私は弓張潤三郎、佐世保を見下ろすあの山の苗字を持つ名士の生まれだがそう言う堅苦しいのはどうにも合わなかった。社交の場や新事業の発表会の後に行われる、洒落乙なものを私は嫌った。

 その代わりに小学校の先生と言う責務と実家から白い目で見られた事により乾いた心に潤いを与えたのはロックであった。Mr.Crescentと言うバンドの、ウォールナットと言う曲が当時の私の心境に合いその後ずっとこのバンドの曲を聞き続けている。

 後にそのボーカルの桜田さんの息子さんの幼馴染と言う児童を一回担当したが、彼も中々に難儀な家に生まれたなと思った。


 さて、話を戻そうか。新任の私の前に並べられた仕事は膨大だ。普段の仕事に児童たちの諸問題、余計な研修やコネクションの為の座談会、頭が痛くなる。お陰で趣味であった釣りの時すらも、私は書類仕事を思い出してリュックから取り出し仕事していたら、スズキに釣り竿ごと持って行かれてしまった。

 初任給で買ったものなのに、この時は実家に助けを求めたかったが、せっかく嫡男の政一が生まれたばかりで不安をかけたくなかった。だから仕方なく、泳いで釣り竿はどうにか回収する羽目になってしまった。

 これを、二兎追う者は一兎を得ずの類題として国語の時間に出すことになってしまったのは笑い話にしていいだろうか。


 特に、私が問題視したのは総合の時間と言うものだ。国から各々にこれをすればいいと言うものを委ねられている、人格の涵養を施せとのお達しだが皆具体的に何をすれば良いのか分からないと言っていた。

 ある人は、戦争の恐ろしさと軍隊を持つ事の愚かさ伝え、ある人は松浦氏と言うこの地域を治め守ってきた軍事力(と言うか武士団)について調べさせたりしていた。私はこの姿勢に疑問を覚えた。

 まず前提知識というものを知らない子供達に、一方的に知識を詰め込むという事をする2人の教員をまさに“反面教師”として、まずは児童たちの知っている魚を挙げてもらった。

 それから、図書館からありったけ借りて来た魚の図鑑を用いて気に入った魚に関してレポートしてもらった。

 更には私自身が釣ったものの魚拓や魚の実物を見せて、触らせたりした。そう言えば、磯に行ったものを見せて、磯で遊ぶ時の注意点なども見せたことがあった。

 これがもし、他2人と同じであるならばこの場で詫びよう。


 しかし、時の流れは残酷と言うべきか。世間がその潮目に付いて行けずに「ゲーム脳」とか喧伝する様になる事が示す通り、据え置き型・携帯型問わずにゲームをやる子供達を見る様になって来た。

 否、メンコとか皆んな子供の頃やっていただろう…私はそうツッコんだが、堅物な校長が「ゲーム脳は問題だ」と言って聞かなかった。頑なに他人の意見を間違っているとして拒む思考停止こそが、ゲーム脳の正体であると今は考えている。

 だがそれを言った翌年、私は五島列島に飛ばされた。


……………

……


 五島列島での日々は思いの外刺激的だった。相変わらずゲームで遊ぶ子供達は居るが、私は積極的に流行りを聞いて子供達の興味関心をどうやって引き立たせるかを考えた。

 緑色の、まだら模様のあるデフォルメされた緑の恐竜キャラに因んで恐竜の最新研究をサラリと調べて話す事もあったが、やはり特筆すべきは子供達と磯遊びが出来た事であった。


 私の父も母も兄2人も、全く自然に興味を示さなかった訳ではないが“はしたない”からと磯遊びに中々連れて行ってくれなかった。

 長男は経営、次男は考古学の方でなにやら素晴らしい成果を上げた様だがそんな事私が知ったことでは無い。

 こんなに海に親しむ子供達を見て、私はホロリと涙した。しかし、子供という者は舐めてはいけない。油断した隙に膝カックンをかまして来たからだ。

 岩場でそんな事をしたら殺人に等しい。ここばかりは本気で怒った。その子供を泣かせてしまったが、ここでそのヤンチャを止めねばいつか過ちを犯すかもしれないと考えたからだ。


 最中、子供の1人が磯遊びの時に私の格好を見て「蒼藍のファーヴニルの加賀谷君みたい!」って言って来た。その時私は犬も飼っていて、磯遊びに同行させていた事がそれに拍車をかけた様だ。

 私もすっかりハマってしまい、政一や、その息子の興一に見せて第6話で泣かせてしまったのもいい思い出だ。


 刹那、女の子が海に飲み込まれた。急な高波、その理由は多分フェリーだったと思う。溺れる彼女を落ち着かせ、再び陸に戻って来た時に私はこう言った。「しっかり守ったぞ」と。

 まぁ、そんな事をこれ以上列記しても致し方ない。だが、五島では様々な事があった。蒼藍狂いの柚木ちゃん(弟君が居る)や磯遊びでは必ず水着で来る西海くん(姉が居たらしい)など、個性的な児童を思い出す。

 文化祭では観察した海の生き物の図鑑を子供達が作って、廊下に貼り出していた。小学校の先生は一部科目以外は全て担当するから満遍なく知識を要したが、私は今からでも中学理科の先生になろうかと思った。

 されども、中学生よりも小学生の方がこの純粋なものを感じるのでそこに負けたのだった。


 五島でほのぼのと教員をしていた私に、突如縁談が舞い降りて来た。鹿児島県の名士の子孫だと言うが、実家に私は逆ギレした。これまで放置して、兄にばかり目を掛けていたのは誰だったのか。そう問い詰めた。

 薩摩弓張家、かつて薩摩島津氏に取り入って琉球との交易を促進させた一族の血筋を引いている。私はここに来てまさかのその一族中興の祖にされそうになっていた。


 結局、どこに行こうと弓張である限りは本家から逃れられない。私はそんな宿命をここで感じた。一抹の不安、しかしそれは入来浜の海を見て希望に変わった。

 名士の娘とは言え、弓張の富を支えた海に関しては関心があってくれた。どうやら上が便宜を図り、鹿児島県の教員として転がり込む事になってしまった。

 日置市の学校の先生になったが、ほのぼのとした五島の学校とは違い何かがっしりとしたものを感じた。みな、腹の中を…否弱さを見せないと言うべきだろうか。

 日置流弓術を見学する機会があり、それがかなり実戦的な武術であると兄から知らされた時に理由が分かった。舐められたら死ぬ、弱みを見せたら死ぬ。まさか彼らは常在戦場の価値観が染み込んでるのではないかと、私は危惧した。


 私は彼らを知りたかった。流石に風聞にある様に「夜明け前に猿叫を上げながら数千回の素振り」を行う人は…1人だけ居た。私の義父であった。義父は腹の内を見せない人だったが、それでも不器用な優しさとたまに出る“照れ”がある人であった。

 それを優しく諭してくれたのが私の妻であった。程なくして、第一子が生まれた。蒼藍のファーヴニルでも、ヒロインの姉の自然受胎判明とほぼ同時期だった。

 彼女から話を聞いたのは第6話が終わった辺り、そして引っ越したのは加賀谷君の水没の2日後であった。急な別れを惜しむ暇がなかったが、ここで急に寂しくなり手紙を書いた。

 数年後、日置から薩摩川内に移っていた私に「先生は予言者でしたか」と言う手紙が届くとはこの日の私はつゆ知らず。


 余所者の私だが、夏休みの最中にこの地域の風土を理解しようと義父の素振り数千回に付き合っていた。これによって、町のご老人達から覚えが良くなった。

 夏休みが終わる頃には、子供達と一緒に砂浜で素振り数千回に打ち込んでいた。多分、今なら言える。きっと、新しい先生に戸惑っていたのだろうと。しかも遠いところから来た人、そんな人を信用していいのか分からない。そう思ったのは、明らかだろう。

 だけど、そうやって怯えていた子供の姿はここにはもう無かった。


……………

……


 私は、薩摩川内に移った後更に鹿屋にも移っていた。ここには昔使われたと言う大きな飛行艇が露天で保存されていて、薩摩大隈両半島に毎年迫る風雨の恐ろしさを感じた。立派な存在も、いつか朽ち果て無に帰る。諸行無常を感じたが、すぐに先生としてここに居直らねばならなかった。

 時期は紅白のボールをモンスターとの仲間の印として、仲間を増やして次の街へ行くゲームの陰陽の色をしたものの世代だっただろうか。


 担当した学校は、後の日本国防軍の英雄や絶叫で有名になるタレントを輩出する所であった。私が担当したクラスには、両方とも居なかった様に思える。

 それはそうと、私のクラスは陰険とした雰囲気が漂っていて日置の最初のクラスの様なものかと最初は思っていたが、イジメ…否、複数児童による児童に対する暴行などの諸犯罪行為が発生していた。

 私は激怒したが、それでもあくまで冷静に対応したと思う。

 もう1人の先生にも頼んで対応に入り、私は被害児童から事細かに聞いた。最初は何があったかよりも、まずは「恥ずかしい事じゃない、むしろ相手が誰かを貶すと言う恥ずかしい行為をしたのだから。」と前置きして話しを聞いた。

 その後に、日置の義父に助力を求めつつ非行に走った児童を別の学校に転校させた。しかし、被害児童は不登校になってしまった。

 毎日毎日、私はその子の家に通ったがやはりイジメが心の傷になってしまったのだろうと思う。


 怒りなのか、苦しみなのか、分からない。だけど後で知った。「復讐したかった」と。生徒の目の前なのに、私も心に思っていた事が洪水になって出てしまった。

 私も昔から本家の都合に振り回されて来た。私も出来れば本家の理不尽に抗いたかった。でも、問題が解決したのなら戻ってくるべきだ。

 そう言ったけど、恐らくその気持ちの行き場を無くしていたのだろうと思う。


 休日、私はその児童を連れて日置のあの入来浜の海に連れて行った。そこには私の娘も一緒であり、最初は警戒していたが、広い砂浜と海を目の前にして子供達ははしゃぎ回り、遊んだ。

 彼は私にお礼を言う、そして今日の出来事を日記として書いて私に提出してくれた。彼が何を隠そう私の娘の婿養子になる事になるとは、当時の私は分からなかった。


……………

……


 また、本家から命令が下った。また全ての理不尽が妖怪のせいにされる様になった頃、私はどう言う意味か次男と共に葉山に居た。どうにも弓張家の不動産経営と鉄道事業拡大に基づき、この地域の“紅白の”大手私鉄を子会社化させようとしたいたとの事だ。

 それと同時に、次男は元より始めていた競馬事業を成功させ“ハリノトライデント”と言う競走馬が逃げでG1を6勝すると言う功績を挙げていた。明らかに政治的意図だが、私は彼の交渉の補佐、そして競走馬を見てこいと言う命令だった。

 またも本家の理不尽、抗いたかったが順応するしかなかった。幸運な事に、葉山でも先生を続ける事ができた。

 この時にMr.Crescentの桜田さんの息子さんを生徒として持つ事ができた。その幼なじみもまた、ピアノが上手くて面白い児童であった。


 葉山の学校はそこまで波風が立っておらず、むしろ私の方言が生徒のイジリの対象になっていた。この年の学習発表会では、何故か西郷隆盛公をモチーフにした劇をやっていた。一年で私は学校の中心になってしまっていたのだろうか。

 私はここでも普通に業務を行い、素振りで鍛えた持久力で他の先生の仕事も手伝い、相談に乗っていただけなのに。

 だが、問題がもう一つ。我が娘も同じ学校に来てしまったのだ。そして先述の演劇で西郷隆盛公役にされてしまったのだ。ここまで目立つのは如何なものかと思ったら、かなり乗り気でやっていて驚いた。

 愛娘は義父から示現流を教えてもらい、朝からそれに励んでいた。人生で出会った人間の中で、私の長兄の次に気骨のある人間は彼女だろう。


 それはさて置き、義父は普段何をやっていたか。それは割と広い牧場を持っており、その経営を行なっていたのだ。後に“ハリノトライデント”もそこで種牡馬になっていた。

 郷愁に浸る事なく、私はここの子供達と一緒に大変だけど楽しい時間を過ごした。卒業式で泣きながら剣舞を見せたりとすることはあったが、自分にとって1番幸福な時期だったと思う。


 そんな最中、ある国で発生した病気が世界を跋扈する。次男がクラスター感染した船に乗っており、それに運悪く感染してしまい重症化して死亡。私は家族と共に船での感染爆発の報を受け即座に日置に避難。競馬事業は私が引き継ぐ事になったものの、教員を辞めねばならない時が来てしまった。

 帰ってきた義父との手合わせで認められ、薩摩弓張家の再興と競馬事業を推し進めた。

 そんな折に私は交通事故で長男を失ってしまった。都会に来て、いつもの調子で車が来ないと思っていたのだろうか。大型トラックに撥ねられて死んでしまったのだ。

 私は、耐えられなかった。相次ぐ家族の死に、心が壊れそうになった。


 その次第を報告し、心苦しく思った現当主…甥の政一が娘の縁談の為に誰かいい子は居ないかと尋ね出来た。すると、娘の提言にて致し方なく婿養子を取る事になってしまった。

 それが、かつていじめられていたあの子であった。久しぶりに会いに行くと、彼は成長して立派な青年になっていた。

 余談だが、そのかつていじめられた婿養子の家系図を調べると、島津忠長の子孫であった事が判明した。


 宗家の次世代の後継、つまり弓張興一が生まれる前に私の初孫が生まれた。都姫と言う名前には、家族ぐるみでかつてから知り合いだったある研究者の思いが込められているらしい。

 私は彼女の事を割と昔から知っており、彼女に名付け親…昔で言えば烏帽子親に等しい事をしてもらったのはそれが理由だ。

 その若き研究者は、興一や果苗の名付け親であり私はよく知らないが“ある凄まじい研究”を行い、それを元に様々な新技術を開発する科学者であった。


 再び日置に戻ってきた私だが、待っていたのはオンラインでの会合に次ぐ会合。次男の後任として補佐は付いていたものの、それでもやはり接した事のない“上級国民”と再び向き合わねばならなかった。

 そんな最中、昔の教員仲間と久々に飲む機会があった。七月の五島での、宅飲み。そこに集まったのは当時の先生だけでなく自分の息子・娘を連れた柚木ちゃんや西海くんの姿であった。

 こんなにも成長してくれていたなんてと、感無量になり叫び涙してしまった。そんな私を、五島の彼らは優しく包み込んでくれた。


 これに活力を貰った私は、仕事に邁進して行った。牧場の経営や競馬関連事業、土地関連事業の引き継ぎとして“紅白の鉄道”を弓張家が子会社に出来たのだ。分かりやすさを追求した結果、味気ない駅名になってしまったと抗議文が沢山届いてしまったのだが…。

 それもまた、ハリノトライデントやワコウオー、オウチョクなどの活躍により弓張家が“地方の巨大企業”から都会にもその勇名を轟かせる事になった。

 トライデントが日置にて種牡馬入りして、ワコウオーやオウチョクもまた競馬界を席巻していた。自分の努力ではない、ここまでは次男のシナリオだったのかもしれない。

 仕事に忙殺されながらも、夏休みになり甥の政一が興一を連れて来た。紅白のボールのゲームでは、長らく愛されていたアニメ主人公の能力を2人の少女少年に分割したような存在が主役を務める新アニメが開始した時期であった。

 その時に有名になっていたのは後二つ、名馬を擬人化したゲームと、たぬきの様と称される少女がロボットを駆るというアニメ。そして… 蒼藍のファーヴニルの最終章の地上波放映時期であった。

 葉山に居たら、自分はそれを録画出来たがここは僻地。諦めてDVDを借りて見ていた。


 話はだいぶ逸れたが、興一は中々に見込みのある少年であった。4歳の頃に日置にまた遊びに来たが、都姫に連れられてその海を見た。そこでかつての私の子供の様にはしゃぎ回り、更には気性難で知られたワコウオーに気に入られ、トライデントの背中で昼寝をしていた。

 

 義父から「自由にさせすぎだ」とお叱りを受けたが、それでこそ子供だった。無分別の楽しみこそ、子供の本分であると思っていたからだ。

 最中、鯛の天ぷらを食べて食あたりを起こして私の義父は無くなってしまった。遺言は「過ぎたるは猶及ばざるが如し」であり、年甲斐も無く食べ過ぎてしまったのを恥じたのだろうか。


……………

……


 名実共に、私はこうして“薩州弓張家再興の祖”となった訳だが鹿児島県の教育改革にも寄与して地元の郷中教育制の現代版を施行。そもそも教員の転勤と言うものが、積み重ねたノウハウを破壊する事に直結するのを危惧したのだ。

 競馬事業も、この時代の中盤に最高潮となる。トライデント産駒のハリノワスプが地方競馬を荒らし回り“薩州の熊蜂”と恐れられた。トマホークは中央競馬にて中距離での追い込み戦での戦闘を得意としていた。

 この頃には対外交渉は手慣れなもので、弓張家は更に弘明寺及び金沢瑞景、更に浦賀の再開発事業にも取り掛かっていた。弓張家はかつて松浦党に与していて、松浦は平家側として鎌倉殿と争う立場にあったが帰順したとされていた。

 しかし800年振りに鎌倉に幕府でも作る気ではないかと、この宗家による再開発に戦々恐々としていた。

 どうにも例の科学者が松浦党の末裔であり、源氏系統ならば幕府を作る構成条件にも当てはまる。だがそれも杞憂に終わった。

 港こそが弓張家が必要とするものであったのだ。港の付近の不動産を購入し、そこに拠点を構えて本家の造船とあの科学者により齎された秘匿技術により、東京湾-九州間を飛行機より低価格で上質な乗客輸送を実現させようとしていたのだ。


 結果は成功した。私はその船の処女航海に同行、その速度と安定性に驚いた。そして6時間で見知った葉山にたどり着いたのだから驚きであった。

 幼い都姫と作路、そして果苗と興一の4人も目を輝かせていた。余談だが何やら伊豆半島の沖合を通り過ぎた時に、巨大なものを目にした気がするが政一からは「気のせいか、鯨でしょうな。」と言われた。


 興一はじめての上京に、私がお守りを命じられてしまった。あちこちに目を輝かせる少年であり、水族館と新交通システムには取り分け目を輝かせていた。

 その際、丁度東京湾で何かの調査をする為に磯子で船を止めていた松浦の科学者に会ってしまった。彼女の船に乗せられ、あっという間に東京に来てしまったのは旅情を分かっていない様な気がした。


 東京の様々な名所で4人は遊んだが、小学生にしては皆興味関心の成長度合いが高く感じた。江戸博物館や海洋博物館、更に翌日にある場所に行かねばならなかったので川崎のプラネタリウムを見てから彼らと別れた。時期は5月の末であった。


 翌日、東京競馬場にて開催されたG1レース。ハリノの冠名を持つ“ハリノサディウス”初のG1であった。

 サディウスは最終盤まで足を溜めて、集団をかち割って優勝したのだった。何度か馬主として足を運んだが、モーセの海割の如く走りは見たことが無かった。


 天命、そこで尽きた。

 私はその帰りの馬運車にて、そう思った。阪神でのG1出走の前に、厩舎へと挨拶に行こうと同行していた。そんな最中、子供が車に轢かれそうになり、急ブレーキを踏んだ車の後方から馬運車が追突する大事故が発生してしまったのだ。

 馬運車は莫大な富を生む“競走馬”を乗せて運ぶ以上、それを傷物には出来ない。故に利益を生むと言う側面に関して、より価値のないと判断される子供と、目の前にいたワンボックスカーに乗っている家族を見殺しにせねばならなかった。

 私も怪我を負ったが大した事はない、サディウスもその時は次の阪神でのレースに出れると獣医に言われた。

 しかし私は我慢ならなかった。命は平等の筈なのに、そして10名の人間の未来も同等に扱われるべきなのに…どうしてこんな事になったのだろうか。

 馬主であると同時に、元教育者としての信念が、生き残った私とサディウスを許せなくなった。この日以降、私は生きている事を恥と感じてしまう様になってしまった。


 それを忘れようと、私はあの科学者の船に乗せてもらった。忘れはしないあの日、海の上でも忘れる事はできない。大海原を裂くこの小さな船に揺られ、何故かついて来た興一はとても喜んでいた。

 だけど、私はあの事故で失われた子供達の事を考えると、あの子供達が彼のような笑顔を咲かせる日は二度と来ないのだと、そう思い悩んで苦しくなってしまった。


 そんな最中、発砲音が聞こえた。


……………

……


 「順のコーストガード」と叫ぶ科学者、興一は謎に臨戦態勢を取っていた。幾らなんでも移乗攻撃で子供が本気で殺しにくる大人を相手出来るのか、そう止める私を君は黙殺して睨みつけていた。

 さらなる発砲音、耳を閉じたの鼓膜を、轟音が揺るがした。

 興一が、黒い渦の様なものを飛ばしてコーストガードの船を次々と沈めていったのだ。それどころか、海の上を駆けて、猿叫の下船を真っ二つにするなど、とても人間とは思えない事を行っていた。

 科学者は「特殊能力…君ならこの程度どうにでもなる事は分かっていた、さあ…更なるものを見せてもらおうか」と叫ぶ。

 頭の処理が追いつかない。とうとうストレスで幻覚と幻聴に苛まれてしまったのか、そう思うも肌に降り掛かる水しぶきが否応なく現実である事を理解させてくる。


 何隻もの船を沈めた興一だが、何やら上空に幾重にも重なる天使の輪の様な、ブラックホールの様なものを広げていた。そして、それを岩だらけの島の方角に向けて解き放った。

 一瞬で、島々が溶けて、あたかもそこは元から海の底であった様に思えた。静寂か、そう錯覚させる狂気と惨劇か。今でも分かる訳がない。だが、科学者の言うには「能力暴走」との事で自我による制御では特殊能力の制御が出来なくなった時に発生する現象であると、後で話してくれた。

 海に落ちた興一は、私が回収した。もう50代も良いところだが、思いの外泳げる自分に驚いたものだ。だが、これもまた…私が強く突き返しておけば発生せずに済んだ事かもしれない。


 ここまで私は自分の人生を叙述して来たが、これは、あくまでも私の遺書だ。これを書く数時間前、ハリノサディウスの出走を事故による大怪我として取り消して、自らの手で介錯した。罪の意識に耐えることができない、そんな私に彼は慈愛の表情を向けていたと信じたい。

 その後、自らの手で切り刻み、その肉を最後まで、臓物までも喰らい尽くした。これではあの子たちへの贖罪にはならない、一緒に地獄までサディウスは走ってくれる。そう自分に言い聞かせているが、それはエゴだろうか。

 これを書き終えた後、私は自殺する。ゴトウノヨゾラの出走は、本家により取り消すことが出来なかったが弓張家は競馬事業から退く。


 これはその決意を、私がお世話になった人々への感謝として送る。興一、君は僕以上に優しい。だからその優しさを忘れないでほしい。それが、私の最後の願いだ。


…………

……


 僕は弓張興一。

 泣き叫ぶ都姫から受け取ったこの手紙を、僕はずっと持っている。忘れない、あの優しさ、あの強さを。僕は先生として、否1人の人間としてあなたを超えてみせます。あなたの優しさ、子供達に対する思い、受け継ぎながら、今の苦難に立ち向かおうとしています。

 あなたの没後、貴方が耐えれない位の苦しみが、世界を跋扈しました。それでも尚、私は守れる存在はなるべく守り、困難に立ち向かいます。

 僕の生徒も、とても素晴らしい人たちであり、個性的です。今は、都姫とのこともあるけど、それら全てを守り抜き、貴方を超える立派な教育者になってみせます。


 佐世保に移築された館と牧場は今日も平和です。だから、これからも見守っていてください。私は貴方の行いを、罪を、肯定します。だからこそ、前に進みます。

 ありがとう、大叔父上。


 鹿児島県知覧の山川港に彼の敷島能力術学校の船オーバーカム号が停泊している間、興一は単身で日置に赴いていた。それは、この手紙を菩提寺に預ける為であった。


 「しっかり渡しましたよ、大叔父上」


 ふと、そよ風が彼の髪に触れる。この日の蒼穹は、いつにも増して蒼かった。

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春の句 宮島織風 @hayaten151

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