想像と現実の違い
ごぉう、おぉう、と地響きを伴う不気味な音が鳴り続ける。
世界は大量の砂に覆われていた。
どれほど足掻こうとも埋もれて行く体が、大量の砂に押し流されて奈落へと引きずり込まれようとするのがわかる。
いや、わかるどころじゃない。
大波に攫われるように大量の砂に押された体は、大量の質量に引きちぎれそうなほどに苦しいんだ。
「アリシア! 手を放せ、放すんだ!」
砂の波の切れ間から、相棒となったシオンの必死な声が聞こえる。
私がまだこの砂の波に飲み込まれていないのは、私が何かをしているおかげではない。彼が――シオンが自分の命も顧みず、私のハーネスにつながったロープを保持し続けているからだ。
「手を放せ、アリシアぁーっ!」
だけれど、それだけはできなかった。
「嫌だよシオン! 私は、私は見捨てるなんてできな……っ!」
叫ぶと同時に口の中に入り込んだ砂に、言葉が続かない。
それでも私は握りしめた手を放すことができなかった。
◆◇
二時間前――
「シオン、ここ凄いね。ドミナ砂海、だっけ。入り口から半日でこんな景色が広がってるなんて、迷宮って本当にすごいね……!」
きょろきょろと辺りを見回すアリシアは感動しきりという様子で、テンションがいるようだった。
彼女が入隊してちょうど二週間。
番手が低く上層入り口近辺が任地のカウフマン隊には救助要請自体がなく、任務といえば詰め所での待機任務ばかりだ。それだけに実際に迷宮に潜ることができる訓練は楽しくて仕方がないのだろう。
かくいう俺も久しぶりの迷宮とあって心が沸き立つのは一緒だ。
救助要請自体が珍しい俺達のような上層勤務の隊にとっては、月に一度義務づけられた迷宮内での特務訓練は貴重な迷宮に入れる時間なのだ。
訓練の場所と任地は普段自分達が働く場所よりも一歩先で行われる。
俺達の場合は入り口から半日ほど進んだ先にある、ここドミナ砂海だった。
「気を付けてね。そのロープより先に行くと戻ってこれなくなるよ」
アリシアが興味深そうに近づいて行く先には、人の出入りを規制するロープが張られていた。
実に頼りない古びたロープ一本だ。
物理的に人の出入りを防ぐことができるわけもないが、明確にその先が危険地帯であることを示す区切りとしては十分以上の役割を果たしていた。
ロープの先はどこまでも続くなだらかな斜面に見える。
登山にすらならない、ハイキングにちょうどよさそうな勾配は転げ落ちても多少擦り傷を負うくらいで、訓練している救助隊ならすぐに体勢を立て直して落下を止めることができるだろう。
だが、実際にはそうではない。
「怖い顔しなくても大丈夫だよ。でも、すごいね。ただの岩に見えるのに、これ全部砂岩鉱なんだよね?」
「ああ、そうだよ」
そう、見える範囲の斜面が全て、砂と同じくらいに脆い砂岩鉱なのだ。
触れればぼろぼろと崩れ、まるで流砂に飲まれるように砂の海に沈み、下方へ下方へと流されていく。そしてその先に見えるのは見通すことのできない闇だ。
一度物好きな猟兵が先を探ったことがあるそうだが、ある一定のところで迷獣に襲われ、這う這うの体で逃げ戻ってきている。彼曰く、まだ先は深く底には行きつかなかった、ということらしい。
ついたあだ名は人呑み砂海。
決して不用意に立ち入ってよい場所ではない。
とはいえ定期的に落ちる馬鹿はいるもので、俺達は命綱で砂の海に埋もれた彼らを救助するという状況想定訓練を行うのだ。
訓練自体はスムーズだった。
カウフマンが訓練前日に別の部隊の隊長と夜通し飲み明かし、大口を開けてあくびをしてラーミアルフィに砂海に落とされそうになったり、アリシアが新人らしいミスで備品を一つ砂海に沈めてロストしたりといった事件はあったが、軒並み順調と言えるだろう。
ただ、なにか、妙に嫌な予感がした。
肌がぴりつくような、産毛の一本一本が静電気で立つようなむずがゆさと言えばいいか。
口にすると本当に起きそうで嫌だが、何か悪いことが起きそうな気がした。
「どうかしたの?」
急に動きを止めた俺を心配したのか、アリシアは砂海に降りるためにロープをハーネスに通しかけた格好のままこちらの様子を伺っていた。
ちょうどいまから、落下した要救助者を救助する訓練で、アリシアが砂岩鉱に降りるところだ。すでに俺もやった後だが、気を抜くと危ない。気を引き締めないとな。
「変な顔してるけど……なに?」
「いや、なんでもないよ」
俺は誤魔化すように笑った。
何か嫌な予感がする、なんて口にすることはできない。
メルロイの猟兵団にいた頃は、勘が鋭いことで重宝されていたのは事実だ。実際、迷獣や毒気の吹き溜まりといった危険を結構な頻度で当てていた。
外れることもあったが、それでも七割、八割は当たっていたと思う。
当時の俺なら嫌な予感がした時点で声をあげていただろうが、救助隊に入ってからこちら、俺の勘はどんどん鈍くなっていた。
何が原因なのかはなんとなくは分かっている。
自信が持てないのだ。
自分の実力が、自分の勘が、自分の考えが、それら全てが正しいと確信が持てない。
それでも勘が当たるなら信じられもするが、現実問題として当たる率も下がっていた。体感だが、良いところ五割。下手をすると三割程度まで下がるかもしれない。
当たれば危険を避けられるが、外れれば無意味な危険回避のための労力や時間の浪費をする。結果としてディアンからは無能呼ばわりされ、自然と自分の勘を口にすることができなくなっているというわけだ。
不思議なもので、口にしなくなると余計に自分の感覚があやふやになっていく。本当に感じていたのかどうかも怪しい気分で、今回とてちょっとした空気の変化に敏感に体が反応しただけにも思えてしまうのだ。
やはり勘は当てにならないと頭を振って意識を切り替えようとしたが、アリシアは逃がしてくれなかった。
「なんでもないことないでしょう。なんなのか言ってくれてもいいじゃない。相棒でしょ?」
「……笑わないか?」
「笑わないよ」
嘘じゃないぞと大真面目な顔で頷く彼女はどこかコミカルで、俺は思わず笑ってしまった。途端に急角度に跳ね上がったアリシアの眉に慌てて説明する。
「嫌な予感がするなって思っただけだよ」
こういうのは誤魔化すに限る。特にアリシアはいい意味で目の前のことに熱中しがちだ。
案の定、アリシアは話に食いついた。
「嫌な予感?」
「ああ、ただの勘だよ。当たりも外れも博打なりってね。何の根拠もない馬鹿話だよ」
「おっと、そうでもないぞ」
俺は笑って話を終わらせようとしたのだが、思いもよらぬ方向から否定の手が入った。
カウフマンだ。
濃緑色の隊服をだらしなく着崩し、本当に隊長かと疑いたくなる。
カウフマンはにやりと笑いながら、俺の肩に腕を回して体重を乗せ、アリシアに視線を向けた。
「こいつの勘はすげえって話だ。元々こいつの面倒を見てたメルロイって野郎が言うには、危険を察する能力がずば抜けてんだとさ。俺の隊に来てからはあまり振るわねえが、こいつが危ないっていうなら気を付けたほうがいい。当たろうが外れようが、どっちにしろ危険は回避できるって寸法さ。なぁ?」
「重いですよ、腕どかしてください。それに、当たるかどうかもわからない勘なんて当てにしちゃだめでしょう。俺達は救助隊ですよ?」
「なんだよ、スキンシップ嫌いか?」
よいせ、とさらに体重をかけてくるカウフマンの腕からなんとか逃れ、ため息をつく。
「とにかく、気にする必要もないよ。勘なんて当たるかどうかもわかんないんだし……っていうか、当たらないから」
「当たらないの?」
不思議そうにアリシアは目を大きく見開き、俺を凝視する。
俺はその目の圧力に負けるように目を逸らした。
「当たらないよ。それより隊長、もう少し真面目に……あぁ、人が来ますね」
視界の端に、数名の猟兵らしき集団が近づいてくるのが見えた。
ここは迷宮で、猟兵はあちらこちらと歩き回っている。特にここは迷宮上層は一本道で、より奥へと進むにはこのドミナ砂海の端に沿って歩くルートしかないから、猟兵の姿を見かけること自体は珍しくもない。
ある程度の距離まで近づいたところで、俺達は揃って右手を上げ、大きく円を描くように動かした。
迷宮で行きかう者同士が行う一種の挨拶だ。
大きく腕を回せば、「やあこんにちは。特に異変はないからこのまますれ違おう」という意味で、上下に大きく動かせば、「助けが欲しい」だし、上げた腕を制止すれば、「危険が近い」となる。
これ以外にもいくつか種類があり、それを組み合わせることで簡単な挨拶と同時に意志疎通を図るのだ。
顔が見えるくらいに近づいてきた相手も腕を大きく上げ、円を描くように回していた。
特に問題なしかと安堵の息を吐きかけたところで、ふいに通り過ぎようとしていた猟兵の一人、年若い少年が声を上げた。
「アリシア!?」
ぎょっとしたのは名前を呼ばれるなんて思ってもいなかったアリシアだが、彼女も声を上げた少年の顔を見て、それが誰かわかったらしい。
「バッツ……?」
「誰、知り合い?」
アリシアの顔は曇っている。
知り合いとしてもあまりいいものではなさそうだと予想しながら小声で問うと、案の定アリシアは少し嫌そうに頷いた。
「私を見捨てた猟兵団の子だよ。助かったから別にいいんだけど……」
けど、の後はなんとなくわかる。
一時的に仲間になった猟兵団から切り捨てられるのは、倫理的によろしくはなくとも、ありえることだ。実際事情を聴いた俺達も、渋い顔ながら「まあ仕方ないか」という意見だった。
とはいえ、仕方ないと納得できるは別の問題で、アリシアもまた助かったとはいえ感情を処理しきれていないのだろう。
だがそんなことは考えてもいないのか、バッツと呼ばれた少年はうれしそうに顔を輝かせて走り寄ってきた。
「アリシア、生きてたのか! なんだよ、どうやって生き残ったんだ? それならそうと声をかけてくれればよかったのに!」
「あー、うん……そうですね」
邪気のないバッツに、アリシアの中にあった感情が萎んでいるのがわかる。
いや、あれは単に困惑しているだけかもしれないが。
どちらにしろバッツはアリシアの微妙な反応に気付く様子もなかった。
「迷宮にいるってことは猟兵なんだよな? なんだよ、水臭いな。俺達の猟兵団に入るって言ってたじゃん! いまからでも遅くないから、俺達と一緒に行こうぜ! ちょうど新しくベテランの猟兵が加入してくれてさ。良い猟場を教えてくれるんだ。前みたいに危ないこともないし、あれはちょっと失敗だったけど、ほら、お互い新人だったしさ。今回はばっちり俺が守ってやるよ!」
うん、悪気はないんだろうなと思う。
だけれど、謝罪の一つもなく自分の要求だけを突き付けるその姿は、傍目に見ていても痛々しい。
アリシアの顔もなんだか妙に憑き物が落ちたような落ち着いた表情にか終わっている。
関わることすら馬鹿馬鹿しくなったんだろうな。
しかし虫を見るようにそんなさげすんだ目で相手を見るのはいけないと思うな。本気でどうでもいい存在を踏み潰す猟奇的な人間のようだが、運よくバッツ少年は気づいていないようだ。
だがバッツの仲間達は正面からしっかりとアリシアの目を見ていた。
慌ててバッツの口を塞ぎ、暴れる彼を無視して距離を取った。
「ご、ごめんなさい! うちの馬鹿が迷惑かけて! もう関わらないから、大丈夫だから、ね、ごめんなさいね!!」
「本当にごめんよ! 俺達が全面的に悪かったから!」
「あ、あの! よかったら俺のこと踏んでほしいのであとで連絡しても……!」
一部おかしな奴が混じっていたが、とにかくわいわい言いながら離れて行った。なんともうるさい奴らである。
「ん?」
遠ざかる彼らの中に、ひと際大きな背中が見えた。
どこかで見たような、そうでないような。
新人らしい彼らと違って使い込まれた装備だ。きっとあれがバッツの言っていたベテランなのだろう。
なぜか興味を惹かれたが、いまはそれどころではなさそうだ。
「アリシア、平気?」
「ううん、まったく?」
平気じゃないらしい。
俺にまで冷たい目を向けないでくれと願いながら、逃げ出そうとするカウフマンの腕を掴み、二人でなんとかアリシアの機嫌を取ることに成功した。
訓練前だというのに前途多難だ。
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