アリシアという少女 3
右頬にめりこんだ拳は、冷静になればちょっと驚くくらいの威力しかなかった。
しかしどうにも間が悪すぎた。
均衡は要点さえ押さえれば簡単に崩れるもので、踏ん張りのきかない地形、崩れた姿勢、そして意識の外と三つも揃えば抗いようがない。
そしてここは崖の壁面、少しでも横に転がれば真っ逆さまに底の見えない崖下へ落ちるような場所だった。
「うおっ、うおわぁっ!?」
最悪なのは、必死に掴まるところを探して泳いだ俺の右手が、少女のいたいけな部分を鷲掴みにしたことだった。
どことは言わないが、小ぶりながら年相応よりは発育を感じさせ、きっと将来は豊かな実りを実現させるだろうと思わせる柔らかさに一瞬気を取られたのもつかの間のことだ。
寝覚めの一発に自分でも驚き大きく広がっていた少女の緑色の瞳が、みるみるうちに剣呑な色に変わっていく。
ああ、これはまずい。
状況を考えて欲しいとか、悪気はなかったとか、色々言いたいことはあるが、理解してもらえるとは到底思えない。
「あ、ご、ごめん、その――」
「嫌ぁっ!!」
再び繰り出された拳はさきほどよりもはるかに力強く、俺の左頬に炸裂した。
目からちかちかと火花が飛び出た気がした。
勢いよく殴られたことで体が跳ねた先が壁面側だったのが不幸中の幸いだ。背中を強かに打ち付けたが、落下の可能性はない。
ただ、少女のほうは俺とは逆に体が動いていた。
「あれ?」
間の抜けた声を漏らしながら、少女の体が苔玉の上から滑り落ちていく。
「くそっ!」
俺が飛び出したのは、彼女の手を掴み取れるギリギリのタイミングだ。
かろうじて掴んだ少女の手を離さぬよう、力任せに握りしめる。少女の顔色が変わった。きっと痛いだろう。だが我慢してもらうしかない。
「じっとしてろ!」
崖下までの落下はほんの数秒だ。
無理やりに引き寄せた少女を抱きしめると同時、装具を操作してロープを固定した。
あとはラーミアルフィの保持が立て直されていれば――よし、手ごたえがあった。
骨がきしみ、反動で体勢が崩れてラーミアルフィに引き上げられていた要救助者人形よろしくくるくる回ってしまうが、それでも落下は免れた。
「きゃ、きゃああっ!」
一難去ってまた一難、落下が止まった代わりに振り子のように降られた俺達に硬い壁面が近づいて来る。
これはまずい。
両手が自由であれば、あるいは体勢が整えられたかもしれない。
だがハーネスでロープに固定されている俺とは異なり、少女は俺が抱えているのだ。手を離せば少女が落ちる。
迫る壁面に覚悟を決めた。
「目をつぶって歯を食いしばって!」
吐き出された言葉は語気荒く、胸の内で少女が言う通りにしたのがわかった。
衝撃は一瞬、こめかみに強い衝撃があり、ぬるりとした液体が飛び散ったのが分かった。
体を捻り、左肩からぶつかろうと試みたのだが、うまくいかずに頭もぶつけてしまったらしい。
「なに、雨……でも、ここは迷宮で……ひっ」
俺の顔を見て、少女が息を呑んだ。
そんなにひどいのか?
ぜひともどんな状況か口にしないでもらいたい。心がめげそうだ。
意識ははっきりしているが、左のこめかみがずきずきと痛い。左頬からぽたぽたと液体が流れている感触がするから、結構な出血をしているらしい。
とはいえそれくらいで済んだのは、うまく肩からぶつかれていたからのようだ。
左肩は力が入らず、動かそうとすると激痛が走った。
骨が折れたか、あるいは肩が抜けたか。視界の端で力なく垂れさがる腕を見れば、たぶん脱臼だろう。
左腕は使えない。
ロープで吊り下げられた状態で治すのは無理がある。
肩を強くぶつけて脱臼を治すなんて小説だけの特権で、現実はそんなことで肩は入らないし、肩回りを損傷して悪戯に怪我の度合いを重くするだけだ。
「だ、大丈夫ですか……!?」
「問題ないです。でも、動かないで。落ちるから!」
「は、はいっ」
少女が身じろぎした瞬間、わずかに体がずれたのは気のせいではない。
少女の体を支えているのが俺の左腕一本、それも不安定な姿勢で宙吊りのままで、まともに保持できているのが奇跡だ。
「大丈夫です。絶対に離さないから安心してください」
「わ、わかりました……!」
こくこくと頷く少女に安心しろと微笑んで見せながら、俺はさてどうしたものかと周囲を見渡した。
「シオン、生きてるかーっ!?」
明らかに高い女性の声だというのに女らしさを感じないその声に視線を上げれば、ラーミアルフィが崖上からのぞいていた。
「はい、生きてます!」
「よし。すぐ引き上げるから待ってろよ!」
言葉通り、すぐにロープが手繰り寄せられる感覚とともに、ぐん、ぐん、と体が上昇していく。
だがその衝撃に俺の腕が耐えられなかった。
このままだと上に上がる前に少女が滑り落ちる。
「ちょ、ちょっと待って。ラーミアルフィさん、一旦停止! 体を固定するから、合図があるまで待ってて!」
「わかった! でも早くしろよ、親父一人で迷獣を止めておくのも限界が近そうだ!」
そういえばカウフマンが一人で迷獣の注意を引いてせき止めてくれているのだった。
嫌煙香もあるが、それでも興奮状態の岩甲蟲は突破してくることがある。
きっとそれはカウフマンが煙の向こうに叩き返しているのだろうが、普通は二人で対処するのだ。カウフマン一人では長くはもつまい。
俺は一瞬悩んだものの、できることは一つしか思いつかなかった。恐怖に顔を真っ蒼にしている少女に目を向ける。
「あなた、お名前は!?」
「え、あ、アリシア、です……っ」
恐怖の色は濃いが、はっきりと返事を返してくれる少女は思ったより冷静だった。
これならなんとかなるかもしれない。
俺は覚悟を決め、アリシアに協力を依頼した。
「俺の右腰に金属の輪があるのがわかりますか。ロープが通してある丸い金具です」
「み、見えます……たぶんあれです!」
あれがどれかは分からないが、いまは信じるしかない。
「手が届きますか? 輪に通してあるロープを掴んで、自分の体に巻き付けて固定してください。そうすれば、引き上げるときに落下の危険はありません!」
「で、でも、そんなのやったこと……!」
それはそうだと納得するばかりだが、では自分がとは言えないのが現状だ。
要救助者に協力を依頼するなど申し訳ない。
反省するばかりだが、ここはそれを押して頼み込むしかない。
こうしてる間にもシオンの右腕は苦悶の声を上げ、全ての仕事を放棄しそうになっている。
というか、もう限界だった。
もう少し持つかとおもったが、腕がぷるぷると震え、アリシアの体ががくんと一段下がる。
「アリシアさん!」
「は、はい!」
驚きながらも返答するアリシアを真剣な目で見つめ、俺は大きく息を吸った。
「ごめんなさい、先に謝っておきます!」
「え、それってどういう……?」
それ以上の問答は無用。
文句は全て後で聞く。
俺は両足を持ち上げてアリシアの胴を挟み込み、思い切り力を込めて締め上げた。腕一本で駄目なら両足も、というわけだ。
ただし代償として、女の子に全力でしがみつくという失礼極まりない体勢になってしまう。命を失うよりはマシと諦めてもらおう。
柔らかな肌と、女性らしい双丘がシオンの胸で潰れる感触を感じるのは役得――いや、不可抗力だ。
それに気づいたのだろう、アリシアの顔がみるみる真っ赤になった。大変ありがと――申し訳ない。
「思い切りしがみついて! すぐに終わりますから!」
「は、はひぃっ!!」
アリシアの妙な返事は聞かなかったことにして、俺は崖上で待機しているラーミアルフィに合図を送った。
「ラーミアルフィさん! 持ち上げてください、できるだけ急いで! 色々限界です!」
色々が何を指すのかは口が裂けても言いたくない。
たぶんアリシアの真っ赤になった顔と、柔らかな感触から意識を遠ざけようと顔をそむける俺の姿を見ればなんとなく想像はつくかもしれない。
そんな限界を共有しながら、俺達は力強くぐいぐいと引き上げられていった。
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