アリシアという少女 1

 世界は隔てられている。

 これは比喩ではく厳然たる事実だ。


 国境によってという点も事実としてあるが、何より大陸中央のアーバン王国を挟み込むように広がる未踏領域が、物理的な隔絶を生み出しているのだ。


そこにはアーバン王国を挟んで東西に二つの王国があった。

 対翼の竜人種が治めるオルグレン王国、技術の華と呼ばれる小人イリヤ人が治めるイリシュ・ラアだ。


 その二つの国は、迷宮が決して人の手で操れる類のものではないという教訓のみを残すのみで、かつて栄華を極めた王都も、牧歌的な暮らしを送っていた農村も、どこもかしこもが迷宮に呑み込まれてしまっている。


 迷宮の裏返り。


 地下深くにある迷宮が、ある日突然地上へと染み出し、ほんの数十日ほどで全てを飲み込む現象だ。


 初めてそれが観測されたのは、イリシュ・ラアが誇る白の庭園である。


 あらゆる白い花々が集められた絢爛豪華なその園は一般に公開され、王族の私有地でありながら王都でも有数の憩いの場だった。


 その日も手近で見ごたえがある名所として王都中から家族連れや恋人達が訪れていたが、その中に突然似つかわしくない何かがいたのだ。


 迷宮に潜ったこともない彼らは理解が遅れたが、それは迷獣だった。

 それも下層に住まうはずの俊敏で獰猛な種で、たった一匹ではあっても油断はできない。


 被害は甚大だった。

 そしてそれは一過性のものではなく、その日を境に二つの国は迷宮に飲み込まれ始め、交換だよとばかりに深淵の迷獣達が地上に染み出してくるようになったのだ。


 そうして、二つの国は人の立ち入れぬ未踏領域と成り果てた。

 迷獣が増えすぎたことが原因と言われているが、それが本当かなどどうでもよいことだろう。


 確かなのは人が踏み込めぬ領域が生まれ、その混乱の最中未踏領域の際まで国土を広げた二つの超大国を前に世界は分断を余儀なくされたということだ。


 人類至上主義を掲げる北の帝国と、獣人至上主義を掲げる南の獣人国の二国と、どちらも相容れぬ人種思想を掲げた軍事大国となれば笑い話にもならない。


 であれば、分断された者達が手を取り合うのは必然だ。


 大陸の東には三国があるが、その真ん中に位置するミリヤ公国は比較的人の流動に寛容で、特に南東のハーシェドと北東のロシドラを繋ぐ海洋貿易の中継港として発展していた。


 人が集まれば文化も混ざるもの。

 それは良いにつけ、悪いにつけ、変化と希望を人々にもたらす。


 そんなミリヤ公国の公都には田舎暮らしに嫌気がさした若者や、やんごとない事情を抱えた者など、様々な 人種が集うものだ。


 アリシア・フェデロナという少女もまた、そんな人々の一人だった。


 ◇◆



「ちょっと待ってください!」


 私はできる限りの大声で叫んだ。

 ちょっと自分でも驚くほどの声量だが、状況が状況だし許して欲しい。


 なにせ声の先は崖の上で、相手は私を見捨てようとしているのだ。


 彼らは十六歳になったばかりの渡し私とそう変わらない、年若い猟兵達だ。


 その中の一人、そばかすが目立つ少年に、赤髪の少女が詰め寄っていた。


「どうするのバッツ、逃げないとまずいよ!」


「わかってる、わかってるよ!」


 バッツと呼ばれた少年は崖下のアリシアに視線を向け、嫌そうな表情で叫んだ。


「すまん、助ける時間がない! 許してくれ!」


 わかっていたことだが、見捨てられる。

 ああもう、本当にうまくいかない人生だ。


 腹立たしいほどに踏んだり蹴ったり。

 崖上から遠ざかるバッツ達の声を聞きながら、私は自分の不運を嘆くしかできなかった。


 生まれは貴族の家で、生活に困窮したこたとはない。


 しかし淑女というには冒険譚を好む性格が災いしてか、政略結婚という貴族の子女としての役割に納得ができなかった。


 剣を握ったり、木登りをしたり、やってみたいことはいっぱいあった。


でもそのどれもが淑女には相応しくないのだと言われ、顔を見た事もない将来の旦那様のために教育を受ける苦痛。最悪、最悪、それ以外に何が言えるっていうの?


 家を捨てて自分のやりたいように生きるか、全てを諦めて家のために政略結婚の道具となるか。

 私に残された道がこの二つなら、悩む余地もない。

 十六歳となり、婚約者と初めて顔合わせをする前日、私は家を出た。


 自由になるんだ。

 考えなしの無鉄砲なんかじゃない。

 甘い部分はあるにしても、計画はあったのだ。


 猟兵になり、自立するつもりだった。

 数は少ないが、女の猟兵だっている。男に比べて筋力で劣るが、それを補う装具は多い。深淵を目指す英雄とは夢を見すぎかもしれないが、上層探索だけでも一般的な市民よりは稼ぎがいいらしい。


 冒険譚が大好きで古今東西あらゆる物語を読み込んだ私なら、迷宮についてのあれやこれも知識として多い。


 現実との違いを見極め、慣れるまでには時間がかかるだろう。

 それでも、何も知らない人間がいきなり猟兵を目指すよりは助けになるはずで、地に足をつけた活動を行う自信があった。


 街に到着してまず探した猟兵団も厳選した。

 ずぶの素人の私をいれてくれるような新人ばかりで、将来的には階層を進める野心があり、結束が強いという基準に見合う、田舎から出てきて一か月ほどだという同じ農村出身の猟兵団だった。


 だけれど、私にいいところを見せようと調子にのったバッツが迷獣の巣に踏み込み、対処できない数に逃げ惑う。


 その拍子に背中を押されて崖から転落した私は、仲間内の結束の高さを見せた彼らによって見捨てられたというわけだった。


 裏目も裏目、ぜーんぶ裏目だ。

 まったくうまくいかなすぎて泣けてきちゃう。


 とはいえ、不幸ばっかりというわけでもない。

 崖から落ちた私は崖下まで真っ逆さまに落ちたわけではない。

 むしろそうだったら今頃こんなに悠長に嘆いてなどいられないだろう。


 いま私が座り込んでいるのは崖の半ばに生えた巨大な丸い植物の上で、崖下を見下ろすと黒々とした暗闇が広がり深さなど見当もつかないのだ。


 苔のような緑色だが、よくよく見ると手のひらくらいの長さの細い毛が大量に生えていて、それが密集することで緑色に見えている。その密集率は凄まじく、高い場所から落ちた私を柔らかく受け止めるどころか、むしろその弾力で弾き飛ばして崖下に転げ落ちかけたくらいだ。


 座ってみれば上質なクッションのようで、嘆いたり泣きそうになったりと忙しくしていた間中、手触りを楽しんでいた。


 できるなら街に到着すると同時に契約した安宿に持って帰りたい。


 一週間分の宿代を先払いしたが、硬い寝具しかない部屋は居心地が悪く、これがあればずいぶんと帰るのが楽しみになりそうだった。


 緊急事態でなければ、ベッドの上で跳ねる子供よろしく、その苔玉の上で飛び跳ねてしまいたいくらいだ。


「さて……現実逃避はこれくらいにして、どうしようかな……」


 一人きりだという事実から目を逸らし、声に出してみる。


 幸いにも崖下の渡しは迷獣に気づかれていないようだ。

 のそのそと地面を歩く岩の塊のような迷獣は初心者の猟兵に人気が高い。怒らせると猛烈な突進をしてくるが、空を飛ぶことはないはずで、例え気づかれても私がいる崖下までやってくることはないだろう


 できることは少なそうだが、ひとまずは現状確認だ。

 崖下に落とさないよう慎重に苔玉の上に背嚢の中身を並べていく。

 日帰りの探索ということで携行食料は予備含めて三食分、万が一の野営用毛布と迷宮石を採取するための解体用の小刀、それであとは細々とした必需品。それが所持品の全てだった。


 ベテランの猟兵が見れば鼻で笑うほどの準備不足だ。

 浅い場所で軽く潜って交流を深めよう、などというバッツの言葉を信じた私が馬鹿だった。


 リーダーだった少年が荷物は最小限でいいと言い切り、逆に不要な荷物で足が遅くなるほうが良くないと、私が一揃い用意した上層探索用の荷物を置いていくよう説得したのだ。


 置いてきた荷物の中にはロープや鉤縄、登攀用の道具もあった。いまこそ喉から手がでるほど欲しい品々である。先輩風を吹かす少年の言葉にほいほい乗ってしまった自分が恨めしかった。


「使うしかないか」


 鞄から取り出したのは、奥底に大切にしまっていた小さな石板だ。


 恐らくパーティーリーダーだった少年がこの場にいれば、きっと目を丸くしたに違いない。


 なにせそれは救助隊が猟兵に売っているもので、救助要請の信号を送ることができる装具である。


 使い方も簡単で、叩き割ればいい。


 それだけで石板迷宮のどのあたりで壊されたかが救助隊に伝わるという優れものだ。


 猟兵であれば誰もが欲しがる品だが、実のところそれほど普及していない。なにせ迷宮下層でしか取れない純度の高い迷宮石を使用している。その金額は引きつった笑いがでてしまうほどに高額で、生半可な猟兵では手も足もでない。


 だからこそ私は拳を振り下ろすのを、一瞬ためらった。

 実家は裕福だが、いまの私はお金持ちじゃない。


 実家を出てくる時に持ち出した宝飾具を売ったお金の半分以上をつぎ込み、それでようやく一枚だけ買えたものだ。


 命の保険、最後の希望だ。

 猟兵になる上でお守りとして買ったそれを、まさか初日で使うことになるとは神様だって思いはしないだろう。


「ええい、仕方ないわ!」


 むしろここで使わねばどこで使うのだ。

 私は死ぬために家を出たんじゃない!


 石板は思ったよりも柔らかく、拳を叩きつけるとばきん、と音が鳴り響いて割れた。


 たったそれだけ。だが、これできっと救助隊に救助要請が届くはずだ。


 あとは待つだけだ。

 ふかふかの苔の上に身を横たえると、こんな時だというのになんだか眠くなってくる。


 うとうとと揺らぐ意識の中で、バッツの申し訳ないと思っていないのに謝る顔が思い出される。


 謝る気がないなら謝るんじゃない、なんだその顔は?

 腹立たしいにも程がある。


「うるさいんですよ、この馬鹿ぁっ!」


 我慢の限界に達して振り抜いた拳は、ふてくされたバッツの顔面をきれいに捉えていた。

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