本編 上編
本編 1
深い深い森の中、一人の老人が暮らしていた。
老人は、かつて賢者と呼ばれたものであり、ひっそりと森の中で最期の時を迎えようとしていた。
だが、人生とは何が起きるのかわからない。
深い森の中でひっそりと死のうと思っていたのに、大きな振動に驚かされて外に出れば、巨大な黒い狼が傷ついて老人に一匹の子狼を差し出した。
「おいおい、私に面倒を見ろというのか? 私も君と同じく死ぬ身だよ」
老人は、反論したが巨大な黒狼は倒れて生き絶えた。
身勝手な話だ。
だが、これも何かの縁だろう。
老人は、巨大な黒狼を火葬してから骨を埋めて墓を作ってやった。
「いいかい。君の親はとても勇敢で優しい親だった」
老人は子狼にクロエと名付けた。
一人で死ぬ前の暇つぶしのつもりで、クロエに自らの知識と魔法を授けることにした。
「クロエは賢いね」
一年が過ぎて、狼であるクロエの体は成人した。
巨大な黒狼になるには、まだまだ数年はかかるだろう。
自分の寿命が迫っているこの状況が口惜しい。
どうして、もっと早く会ってこの子に愛情を教えてあげることができなかったのだろう。
自らの命が尽きることを悔やみながらも老人は、クロエに目標を持たせることを考えた。
「いいかいクロエ。かつて私が勤めた王国という国がある。君には知恵と魔法があるが、私は君に心を教えてあげられる時間がなかった。だから、君は一生をかけて心を学んでほしい。そして、その手段として王国という国で人に接してほしい」
賢い瞳をしたクロエは老人の説明を聞いて、老人が長くないことを悟る。
老人は尽きかけている自らの命を対価に、クロエの体を人へと昇華させた。
「お・じ・い・さ・ま」
「ふふ、私をそう読んでくれるのかい? ありがとう」
クロエは老人の手で頭を撫でられることが好きだった。
老人は微笑んでクロエを一撫でしてから死んでいった。
クロエは老人の願いを聞き入れたいと思った。
王国へ行って心を知る。
そして、老人が愛した王国を守ってあげよう。
そうしてクロエは旅に出た。
深い深い森を抜け、言葉を話せるように練習をして、毎日毎日歩き続けた。
人の中で生きていく知識は老人から授かっていたので、冒険者ギルドに登録して、討伐した魔物を売って宿とご飯を手に入れた。
服という知識はあったが、これまで着ていなかったので、慣れるのに一番苦労した。
幸いクロエは賢い狼だった。
人々は良い物も、悪い物もいることを老人が教えてくれた。
クロエは匂いで、相手が自分に対してどのような感情を抱いているのか判別する術を磨いた。
心はわからないが、敵意や悪意はすぐに理解できた。
命に関わる場合は処理することもあった。
そうして王国へ辿り着いた。
賢者である老人が残してくれた紹介状を理解できる人物を探して、一人の人物へクロエは辿り着いた。
「そうかい。彼奴は逝ったかい」
老人と歳の近い老婆はかつて、老人と共に王国に勤めた宮廷魔術師をしていた。老人の紹介状を見て、クロナの事情を知り後ろ盾になってくれることを約束してくれた。
「確かに彼奴の魔法だ」
その条件として示されたのはかつて賢者が使った魔法を披露することだった。
老婆の前で、ある魔法を唱えると老婆は涙を流してくれた。
そして、老婆の推薦で王へ謁見が叶って志願する試験を受けられた。
「廃れつつある魔法を数多く使えるんだケチケチするんじゃないよ」
「いくら元宮廷魔術師の推薦であろうと、無理なものは無理なのだ。クロエと言ったな。済まぬが、皆を納得させるために派手な魔法を使ってはくれぬか?」
「かしこまりました」
クロエは、王からの命令に従って、王国の民が見ている前で湖の真ん中に立っている城の周囲にある湖を一瞬で干上がらせた。
「なっ! なんという凄い魔法なんだ!」
「だから言っただろ。失われた古代魔法だよ」
「しかし、これでは見た目が悪いな」
苦笑いを浮かべる王様の態度にクロエは、もう一つの魔法を使って湖を元通りに戻してしまった。
「もう規格外すぎるな」
「ここまでだとは私も思わなかったね。今を逃すと王国は滅亡させられるかもね」
「ああ、わかっている。宮廷魔術師として迎えよう。称号はもちろん《賢者》だ」
老人と同じ賢者として称号を授かったクロエは、それから王国の民として認められるようになった。
しかし、差別の対象である獣人。それも失われた魔法が使えることは貴族たちを恐怖させ。その見目麗しい容姿は貴族令嬢たちに妬みを持たれるのに十分な素質を秘めていた。
さらに士官を認めた王様は、「我が息子と結婚してほしい」。
それは王国へ賢者を留めていくための処置であったが、それが貴族たちに不満を持たせることになった。
♢
賢者クロエとして王国に士官したまでは良かったが、人々からは畏怖と蔑みなどの負の感情を向けられることが多く。
王国とは、なんと息苦しく生きることが大変な場所だとクロエは感じ始めていた。
「本日より、賢者クロエ様の護衛として仕えさせていただきます」
そんなクロエの元へ護衛という名の監視員がやってきた。
現れた青年の護衛は、クロエと同じ黒髪黒目の少年で、クロエを見ても太々しい微笑みを浮かべみせた。
それはこれまであってきたどんな相手とも違う。
どこか好意的にも感じる心を持った青年だった。
彼の剣の腕は王国でもかなり高いレベルであり、護衛をしてない時は常に鍛錬をしている。
元宮廷魔術師の老婆が後ろ盾になっているため、ほとんどの貴族が静観を決め込んでいたが、中には老婆を無視する貴族もいる。
老婆の血筋と名乗る貴族から、一人のメイドが送られてきた。
「本日よりクロエ様に仕えさせていただきます。メイドでございます」
メイドはクロエよりも年上ではあったが、どこか怯えた様子でビクビクとしていた。
三人の宮廷魔術師としての仕事が始まったが、王以外の王国民に恐怖を与えているクロエに仕事はなかなか舞い込んでこない。
仕方なく、クロエは魔術を研究して、己を磨くことを優先する。
それでもお給金は発生して、暖かな寝床と美味しいご飯は食べられる。
それに、護衛とメイドが話し相手にもなってくれるようになった。
太々しい護衛は、クロエに対して敬意がないかわりに、接し方も壁を感じない。
「なぁ、クロエ様って、どこからきたんだ?」
「なぁ、クロエ様って、人間か?」
「なぁ、クロエ様って、どんな魔法が使えるんだよ」
彼はクロエのことを知りたがった。
だから、クロエは自分が心を知るために王国にきたこと。
クロエは元々狼で賢者によって人間になったこと。
魔法はこの世界に存在するものならば、なんでも使えると説明をした。
彼が話しかけてくれるからこそ、三人の生活はそれほど苦にならなくなっていた。
彼が護衛をしてくれる間は、悪意ある感情は誰からも向けられない。
メイドも怯えながらも、仕事をキチンとしていた。
♢
ある日の晩。
クロエはいつもとは違う気配を感じて、目を覚ました。
それは世界から自分が隔離されたような感覚。
魔法が使えない。
「よう、寝ている間に殺そうと思っていたんだけどな」
そこにはいつも快活に笑う護衛がいた。
彼は剣を抜いて、いつもとは違う殺意を持ってクロエを見ている。
だが、不思議なのだ。
殺意はあるのに、悪意が全くない。
むしろ、好意すら感じるほどに、彼はクロエに対して敵意を持っていない。
「クロエ。あんたは美しい」
護衛から美しいと言われて、今まで感じたことのない想いが胸をトクンと弾ませた。
弾む胸は次第に熱くなり、なぜこんな感情になるのか分からなかった。
「だが、美しいから恨みを買っちまった。俺はあんたを殺すように命令されているんだ」
護衛になら殺されてあげてもいいかもしれない。
何日もかけて、魔封じの結界を張ったのだろう。
彼が笑顔を向けてくれて、質問をしてくれて、その答えが暗殺だとはとても悲しい。
悲しい? クロエは今、悲しいと思ったのだ。
そして、胸が熱くなる感覚。
この感情にも名前をつけてあげたい。
「あなたは力を欲しいと思ったことはないですか?」
気づけば、クロエは護衛に対して懐柔する言葉を発していた。
少しでも冷静に聞こえるように言葉を発した。
護衛は戸惑い、額から汗を流して息を荒くする。
葛藤しているのだろう。
彼はクロエに質問をしながらも自分の話を聞かせていた。
王国は明確な貴族と平民に差があり、平民は生活をできるが日々の糧を得るために一生働き続けなければならない。
スラムに住んでいる者たちは、ご飯を食べることもできないと彼は嘆いていた。
「賢者クロエ、あんたならこの国を変えられるのか?」
護衛から発せられた言葉は、悲痛で泣きそうな子供のような表情をしていた。
「あなたが代わりに私に心を教えてください」
「わかったよ。一緒に考えてやるよ。俺はあんたの剣になる」
護衛はクロエの騎士になった。
♢
王様によるクロエと、第七王子の婚約が発表された。
「婚約とは?」
クロエは知識としては婚約の意味を知っていた。
だが、どうして王様がクロエと王子を婚約させたのか、分からなかった。
「あ〜、狼風にいうなら、ツガイ? 伴侶とか?」
「そうですか、私は彼の方とツガイに」
「嫌か?」
「そういう感情はありません」
クロエは群れで生活する狼だ。
生き残るためには、ツガイを見つけて大きな群れを作ることを本能で知っている。
だが、賢者として士官して二年が経とうとしていた。
その間に護衛とメイド以外に、クロエを訪ねる者はいなかったので、三人で過ごす時間は穏やかでクロエに少しずつ心を持ち始めていた。
メイドも最初よりも話すようになり、今では怯えなくなった。
「クロエ様、このような野蛮な男の側にいてはいけません。クロエ様は聡明でお美しく、これから王妃になられる方なのですよ」
「うるせいぞ。メイド」
「ふん、この野蛮人!」
メイドが変わるきっかけがあった。
それはある日の出来事だ。
「あなたも殺し屋のくせに、どうして私の邪魔をするんですか?」
「悪いな。俺は賢者様と契約したんだ。力をもらう代わりに心を教えてやるってな」
「はっ、あなた如きが賢者様に心を教える? 無理にも程がありますね」
護衛が夜遅くに誰かと戦っていた。
クロエは、その音に気づいて現場に赴いてみれば、メイドを組み伏せる護衛がいた。
常に強化と魔法による修練をするようになった護衛は二年前よりも強くなっている。
メイドも暗殺者として様々な訓練を受けていたようだが、護衛には勝てなかったようだ。
「殺しなさい」
「はぁ〜? なんでお前が命令してんだよ。無理だな」
「なぜ?」
「クロエが悲しむ。なぁクロエ?」
護衛に問われて、クロエは始めてメイドに裏切られて、彼女を失うかもしれないということに悲しんでいることに気づいた。
寂しいという感情は、護衛の時にも感じたことがある。
あの時とは違うようにも思えたが、メイドに対しては寂しいや悲しいという気持ちが芽生えていたのは事実だ。
だから、自然に一筋の涙を流していた。
「あなたは何が欲しいの?」
「うるさい! 私にはこの仕事しかないのよ! そう育てられてきたんだもの。今更普通の暮らしなんて望めない」
彼女は常に怯えていた。
今、叫んでいるのも怯えからくるのだろう。
彼女を怯えさせる全ての者から彼女を守ってあげよう。
解放してあげよう。
クロエは魔法を発動した。
「そう、ならあなたを縛る全ての者から解放してあげる」
彼女の首に描かれた紋章は隷属の魔法。
最初から気づいていた。
彼女は誰かに隷属させられるように魔法をかけられていた。
そのせいで怯えていたのなら、解放してあげよう。
そして隷属した者たちを全て懲らしめよう。
隷属の魔法は、かけられているだけで彼女に苦しみを与えていたことだろう。
「クロエ様〜!」
メイドが変わった。
いつも怯えていたメイドは、クロエに忠誠を誓った。
クロエもメイドを守りたいと思った。
隷属の魔法を受けながらも、彼女は怯えながら私に悪意は向けなかったから。
♢
王子様が、やってきた。
幼く病弱で強い群れを作れるとは思えない少年だった。
「わっ、私はだっ第七王子です」
王様が勝手に決めた婚約は、病弱な王子を救ってほしいということだろうか? クロエは彼を対象に研究をすることにした。
吃音が酷く、脳が未発達。
生まれながらに未発達な体。
クロエは彼を治すための研究を始めた。
元々誰も来ない研究室だ。
研究課題を与えられたと思えば、仕事ができる喜びがある。
「クロエは、王子様に優しいな」
「そう? 彼の病気を治すことができれば、魔法はもっと発展する」
「そういうものか? まぁ、クロエが優しくしたいなら俺たちも従うだけだ」
護衛はきっと優しい人だ。
メイドも優しい。
クロエが認める二人は第七王子に優しく接していた。
第七王子もこれまで病気のために世話をされるばかりだったが、ここにいる三人は暖かく自分を迎えてくれた。
第七王子も次第に心を開き、クロエの魔法により少しずつ体を動かせるようになっていた。
穏やかで幸せな時間……。
四人にとって、それは貴重で大切な時間だった。
「賢者クロエ様に王より、緊急招集がかかりました。早急に謁見の間にいらしていただけないでしょうか?」
そんな穏やかな日々に水を差したのは王様だった。
クロエは、第七王子の治療を中断して王様の下へ出頭した。
「賢者クロエよ。そなたの知恵を借りたいのだ!」
それは王国を襲う未曾有の危機だった。
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