第4話 記憶喪失になる前は
さて、ここまで私の過去のどん底っぷりを色々試しに書いてみたが、どうだっただろう?
「教員でうつになった」という人はたくさんいるけど、どうやって這い上がったか、ではあまり体験は聞いたことはない・・・(私が教員友達がいないせいかもしれないけど)ような気がする。なので、少しでもそういった方々のお役に立てればと思う。そして私のどん底ライフは現在進行形なので、復帰してからもどん底は続くのである意味お楽しみにと言いたい。
だけど、病気になる前の私はどうだったのか?せっかく実習助手としてエッセイを書いているので、ものづくりネタの1つや2つ、書かなければ工業高校勤務の名が廃る!というわけでちょこっと書いてみる。
病気になる前の私は、それこそ普通に平日5日間、仕事に行っていた。旋盤も、簡単な加工だったらできたし、その練習をするのが楽しくて仕方なかった。旋盤は、扱うのがめちゃくちゃ神経を使う。だって、気を抜いたら材料がどっかに飛んでいくかもしれないし、手や腕を無くしてしまうハイリスクな機械だからだ。その機械で金属を削ってものを作るのが大好きだった。その他、フライス盤とか溶接とか色々実習内容はあれど、フライス盤は削る仕組みはだいたい理解できていたが操作までは練習に漕ぎ着けることはできず、溶接もほとんどできなかった。それでも、(正規職員になってからは)まだまだこれからだし頑張ろ、と前向きになっていた。プライベートでもよく外に出ては色んなところに行った。私の趣味はカフェ巡りとクラシック音楽(大体ロシアとアメリカ)を聴くことと、写真撮影と国内旅行だった。一番遠いところで北は岩手、南は兵庫まで行った。
だけど、病気になってからはコロナ禍もあってそういう趣味は一気に絶たれた。それでうつが悪化し、そういったやる気とか思い出もだいたい吹っ飛んだ。そして、休職すると給料もがくんと下がるため、私の口癖は「お金がない」になった。お金がないから色んなことを諦め、体が動かないからやりたいこともやれず、私はほとんど抜け殻に近い状態になってしまった。本当、つい最近まで好きなものや興味があったものを忘れてしまっていた。
でも、1つだけぎりぎり忘れなかったものもあった。それは、「文章を書く」ということ。私が休職したてでまだ色んなことへの興味の記憶があった頃、とある集まりで小説を書いている方と出会った。それがきっかけで、私は彼が所属する文芸グループに入れてもらって、作品を書くようになった。しかしそのグループのメンバーが生み出す作品は、かなりハイレベルな作品が多く、一時期私は合わないと思ってグループを抜けようかと考えた。しかし、メンバーの方々が「ありのままに書いて良いんだよ」と温かく励まして下さり、私は本当にありのままに作品を書いた。それが「lost answer」である。(カクヨムにも出してるので読んでください)これがグループや色んな読者の方々からプチ反響を得て、私は嬉しかった。まず何よりも、作品を本当の「純文学」として見てくれたことが嬉しかった。
だから私は翌年も作品を書いたし今年も作品を書いた。ありきたりかもしれないけど、私にとって文章を書く、ということは、生きることであるからだ。クラシックが聴けなくなっても、ずっと寝たきりでやる気が出なくてカメラを持って外に行くことができなくなっても、私は何らかの形で文を書くことだけはできていた。だから、文を書くことは続けていきたいし、そのネタになりそうなことも随時復活させていきたいと思う。
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