第3話 執権体制

 そんな時代でも、何とか生き延びてきたのには、一つの大きな理由があった。

 実際には表に出てくることはなかったのだが、弘前家を支えていた、いわゆる、

「執事」

 と呼ばれる家系があった。

 この家系は、幕末から、弘前家とゆかりが深い人物の家系であり、最初は、革命家として、平等であったのだが、弘前家の家系の人が、

「国家の行く末のために、自分が犠牲になる」

 といって、まわりを助けるために命を落とすことになった。

 その時、一番恩恵を受けたのが、その執事となった家系だった。その時の主人もしばらくして病気で亡くなることになるのだが、その時、

「我々の家系は、弘前家に対して、子々孫々に至るまで、絶対服従をし、弘前家を助けなければいけない。そうしないと我が家系も、すぐに滅びることになるだろう」

 という遺言を残して亡くなったのだ。

 その遺言は守られ続けた。

 弘前家の跡取りは、犠牲になった父が死んだ時はまだ、幼少だったが、次第に成長していくと、執事の家系の息子と、年齢も違わないことから、完全に主従関係が形成されていた。

 失意というよりも、

「執権」

 といってもいいかも知れない。

 弘前家は君主として君臨していたが、それを支える執権は、表舞台で活躍した。

 明治のまだ、政府の土台が固まっていない時には、弘前家を中心に、政府が確立していき。国家が次第に固まっていく。

 そのうちに、軍部での勢力を強くしていくことで、政治家としてではないので、今は中江が残っていないが、あのまま軍が続いていれば、いずれは、

「元帥」

 にまで上り詰めるであろう人間も出たことだろう。

 しかし、時代はそうはいかなかった。

「軍部がこれからも力を発揮するには、金が必要だ。実業家と肩を並べるくらいでないと、これからの軍隊はやっていけない」

 というのが、弘前家の考え方で、ただ、本当にそのことを考えていたのは、執権の方であった。

 扇動するように、弘前家をスポークスマンとしても使ったところが、彼らの画期的なところだったのだろう、

 つまり、彼らは、

「君主である弘前家であっても、自分たちのやり方に逆らうことは許されないということを自覚させなければいけない」

 ということ、そして、もう一つは、

「決して我々が表に出てはいけない」

 ということを徹底させなければいけない。

 つまり、

「この両極端なやり方を、うまく調整していかないと、我々の目指す日本はできあがってはこない」

 ということであった。

 そして、日本が輝き続けるためには、弘前家がどんな形であっても、

「国家の最先端にいなければいけない」

 ということであり、戦争前の金が必要な時期には、

「財閥」

 としての力を発揮していたのである。

 歴史上は、タブーになっていることなので、学校で教えたりはしないが、軍部出身の財閥となった変わり種としての、弘前家が運営する、

「弘前財閥」

 というのが、国家に君臨していたのだ。

 そんな弘前財閥が、バブル崩壊前に、建てたこの屋敷の中華風の建物だが、さすがにピークはその頃だったと言えるだろう。

 さすがの弘前家でも、バブルの崩壊までは、予測できたわけではなく、他の会社と同じように、バブルが崩壊したことで、慌てふためいていたのだ。

 ただ、バブル崩壊後の混乱時期を何とか乗り切ったことで、次期当主に対してもそうだが、今回は、真剣に経済学や、経営に対してのプロフェッショナルと育てることを真剣に考えるようになった。

 特に、執権の方からすれば、必死であった。

「本来なら、自分たちがバブルにいち早く気づいていれば、こんな混乱くらい、さほどのことなくやり過ごせたかも知れないのに」

 と、一歩間違えれば、手遅れになっていたかも知れないということを、恐れていたのだ。

 実際に、最初から衛材や経営に関しての知識があれば、もう少しうまく立ち回れたかも知れない。

 いくら混乱を何とか逃れたとしても、結局、出血はしたのだった。その証拠に、致命傷には程遠かったが、資産のいくらかは食いつぶすことになった。

 しかも、関連会社の倒産を防ぐために、救済としての金銭も惜しまなかったことが英断ではあったが、それも、執権一族の判断だからできたことで、少しでも躊躇っていれば、関連会社もろとも、弘前財閥は瓦解していたかも知れないのだ。

 実際に、財閥と言われるところも、破綻したところもあった。

「他の企業と合併しなければ生き残れない」

 という時代であるにも関わらず、プライドが許さないのか、結局その決断に踏み切れずに、倒産した財閥もあった。

 子会社、関連会社、もろともにである。

 当然のことながら、弘前財閥も他の会社を吸収合併することで、何とか難を逃れたのだ。特に、元々の大手銀行と提携できたのは、後々においてよかったことだろう。

「銀行不敗神話」

 というものが崩れたことで、銀行側も必死である。

「銀行はつぶれない」

 という神話を一番信じていたのは、他ならぬ銀行だっただろうからである。

 それだけ銀行というものは、信頼されるべきものであり、逆にいえば、

「今後の企業にも、銀行が培ってきた金融に関してのノウハウが必要な時代になってきたのだ」

 ということであろう。

 金融機関のノウハウは、今まで想像もしなかった、

「バブルの崩壊」

 というものを迎えて、一段階銀行もレベルアップした、

「想定外のことが起こった時の対応」

 というものと、

「銀行だって、いつどうなるか分からない」

 という、一種の覚悟を身につけたことで、一層強固なものになり、そして、それが、危機管理を必要とする、今の時代にそぐう企業になるのだった。

 何といっても、今までの社会は、

「頑張れば報われる」

 という、単純なものだった。

 もちろん、細かいやり方はあるのだろうが、少なくとも、危機管理を考えないでいいというところだけでも、単純だったと言えるだろう。

 もちろん、倒産したことで、他の企業がビビッてしまったのも間違いないが、そのおかげというか、銀行も真剣に考えるようになり、

「吸収合併」

 や、

「大規模リストラ」

 などと言った、

「血を流す」

 というような方法で、生き残りをかけてきた。

 弘前財閥も、吸収合併に絡んできたが、自分たちよりも大きい会社が存在するはずもなく、そのすべてが、吸収する側になるのだった。

 銀行の方も、

「相手が弘前財閥なら」

 ということで、弘前財閥との話を望んでいた。銀行くらいであれば、執権の存在には気づいていたはずだ。

 実際には、世間に対して、弘前財閥側では、執権の存在を、敢えて公表するようなことはなかった。

 とにかく執権職を担ってきた家系はいなければ、まず、どこか、早い段階で、弘前家というのは、潰れていただろう。

 少なくとも、軍部を牛耳っている間は大丈夫だったかも知れないが、それは、

「時代が求めた」

 というだけで、確かに、

「見る目があった」

 といえば、それまでだろう。

 政治からいち早く軍部に乗り換えたのは、

「自分たちは、幕府を倒したのは、政治家になるためではない」

 という意識があったからだろう。

 さらに、士族の人たちが、どんどん迫害されていき、最期には昔の武士が亡んでしまったのを見ると、

「武士の心意気を持った、軍というものを作っていきたい」

 と考えるようになったからだ、

 ただ、その意識が強すぎたからだろうか、戦陣訓にあるような、

「プライドを守るためには、死をもいとわない」

 という考えが、次第に日本を廃墟への道へを歩ませることに一役買うようになっていったのだ。

 武士道から、軍隊精神のようなものが、弘前家には、備わっていた。当然、執権の家系にも同じような精神が備わっているのは、いうまでもないだろう。

 お互いの家もそれぞれに、

「自分たちは一蓮托生。いいことも悪いことも、そう、地獄の底まで一緒だと言える仲間だ」

 ということを、ずっと意識しているのだった。

 そんな弘前家は、バブルが弾けてからこっち、それまでは、財閥系ではありながら、あまり目立つ方ではなかった。

 三井、住友、三菱などのような旧財閥系は、派手にいろいろな業種に手を染め、多角経営をしていた。

 もちろん、弘前財閥も、手を広げてはいたが、それほど、メディアへの進出が大きかったわけではない。

 例えば電化製品でも、客が、

「この製品、いいわね」

 といっているのを聞いて、店員が、

「ああ、これは弘前電機の製品ですわ」

 というと、

「へぇ、そうなんだ」

 というくらい、それほど有名ではなかった。

「この電気機器なら、どこのメーカー」

 というのは、ある程度電機メーカーであれば、確立されているものなのだろうが、弘前電機に関しては、看板製品があったわけではない。

 それなので、製品ごとのメーカーランキングでは、どれも一位ということはないのだが、しっかり、ベスト5には入っている。

 それだけに、地道に売り上げが伸びているので、結果、総合ランキングにすると、いつもしれっと一位にいるのが、弘前電機で、まるで、忍者か忍びのようで、そのせいもあってか、世間から、

「ステルスメーカー」

 と言われるようになっていた。

 それが、評判としていいのか、それとも、またしても、目立たないということを皮肉ったことなのか、相変わらず、メーカーとしては、印象は浅かったのだった。

 そんな弘前財閥も、バブルが弾けてからは、

「ステルスメーカー」

 というわけにはいかなくなり、財閥の中に、研究チームを結成することになった。

 それが、新製品開発チームで、それぞれの業界の製品開発に長けている人を、他の会社から、

「引き抜く」

 というやり方をしていた。

 軍隊時代には、引き抜きなどはお手の物だったが、民主主義の自由競争の時代になると、そこまで必死になることもなく、

「軍隊時代とは違った活動をしよう」

 ということで、戦後の混乱期から、

「あまり世間で目立たないようにしよう」

 という考えが定着し、高度成長期は、流れに則ってやってきた。

 おかげで、経費をそれほど損なうことなく、売り上げはそれなりにあったのだから、利益はどんどん生まれていった。

 それも、戦後の財閥解体にも、新円の切り替えも、何とか乗り気ってきた、

「執権政治」

 の手腕があったからだった。

 執権が、本当の実力を発揮したのは、この戦後の混乱期だったのかも知れない。

 そんな動乱の時代を乗り越えてきた、弘前一族に、今まで逆らう者はいなかった。だが、今回は、勢力争いなどという形のものではなく、まったく想像もしていないところからの攻撃があろうとは思ってもいなかったのだ。

 それが、

「営利誘拐による脅迫事件」

 ということになるとは、さすがに弘前家も、執権家も想像もしていないことだったに違いない。

「営利誘拐」

 ということになると、弘前家では、昭和末期の、あの

「社長誘拐事件」

 を想像してしまったが、今回は自分がターゲットではなく、孫だったのだ。

 今の当主は、すでに60歳近い社長が、元気で切り盛りしているのだ。

 先代は逆に、50歳になる前から、今の社長にその座を譲り、自分は会長として君臨した。

 そのおかげで、若いうちから今の社長の時代ということになり、今の社長が、30年近い長期政権となっているのだった。

 そもそも、弘前家というのは、代々、社長職を早く息子に譲り、会長となることで、

「会長。社長」

 という2つのラインが並び立つことで、その権力を維持してきたのだ。

 さらに、そこに、執権の一族がいることで、

「一種の、トロイカ体制」

 いわゆる、民主主義の基本に則っとったかのような、

「三権分立」

 だったのだ。

 ただ、弘前家の考え方としては、民主主義における三権分立に見られるのは、一種の、

「ケガの功名」

 だったわけで、本当のところは、陸軍で培った、

「陸軍三長官」

 という考え方だったのだ。

 陸軍三長官というと、前述の三人となるが、陸軍大臣と参謀総長を兼務すると、権力が集中するというのは、大日本帝国憲法には、

「天皇の統帥権」

 というのがあるからだった。

 天皇の統帥権というのは、

「陸海軍は、天皇が直轄で収める」

 というものだった。

 つまりは、政府と言えども、軍部のやり方に口出しできないということである。そして、軍部の頂点にいるのが、参謀総長で、陸軍大臣というのは、政府内における大臣となるのだ。

 つまりは、陸軍大臣はおろか、総理大臣ですら、軍に作戦に口出しができない。そもそも、軍部の会議に、政府の人間が入ることすら許されないからだ。政府が軍に口出しをしたり、軍部に関係あることを、勝手に国際会議などで決めてくることは許されない。

 それが、

「統帥権干犯」

 という、重大な憲法違反となるのだ。

 天皇は国家元首である。その国家元首が統帥するものに政府が抵触するということは、天皇への反逆とも取られかねない。外国でいうところの、死刑にも値する、

「国家反逆罪」

 ともいえる罪に問われても仕方のないことなのであろう。

 それを思うと、弘前財閥が、トロイカ体制を取っている理由も、おのずと分かるというものであった。

 そんな体制だったので、これまで、内部でも、他からも、それほど攻撃はなかった。

 といっても、反乱分子であったり、外敵などに対しては、執権がしっかり調査し、

「出鼻をくじいてきた」

 ということで、事なきを得てきたのだった。

 だが、それはあくまでも、他の企業であったり、内部抗争などに対してであり、個人的な恨みであったり、

「金持ちであれば、誰でもいい」

 というような衝動的な犯罪であれば、実際問題として、防ぎようがないというところであろう。

 しかも、社長や重役などの身辺警護まではできても、家族となると、そこは難しい。

 今回誘拐されたのは、社長の孫にあたる、

「つぐみ」

 という娘であった。

 彼女は、現在23歳で、四年生の大学を卒業してから、間もない頃だった。

 就職も、コネであればいくらでもあったのだろうが、それには及ばないほどの成績を収めていたので、就職は、引く手あまただったのだ。

「もっと大きなところがあっただろうに」

 とまわりから言われたが、彼女が選んだ会社は、地元では大手だが、全国的には、さほど名が知れているところではなかった。

「地元で家から通えますからね」

 というのが彼女の言い分で、彼女も、弘前家を出たいというような思いは、毛頭ないようだった。

 弘前家は、確かに子供の頃から英才教育や、帝王学などを学ばせることもやっていたが、比較的、自由な家庭だった。

「弘前家の血が流れているのであれば、それなりの礼儀作法や心構えは持っているはずだ」

 というのがその理由で、今の社長も、先代も、さらに、もっと古い代々の当主も、一般的な帝王学しか学んでいなかった。

 というのも、執権の家系の助けがあったので、弘前家が、肩ひじを張る必要はなかったのだ。

 ただ、問題は、次期社長と言われる人に、男の跡取りがいないことであった、

 娘としては、つぐみが恵まれたのだが、男の子の跡取りがいなかった。今のままでは、

「娘に養子をとるか?」

 あるいは、

「どこかから、優秀な人間を養子として迎え入れるか?」

 ということであるが、まず一番は、

「娘のつぐみが、優秀な婿を選んでくれる」

 ということであった。

 弘前家も、戦前までは、許嫁などということもあったが、

「今の時代にはそぐわない」

 ということで、戦後早々と、その考えを改めた。

 それくらいの気持ちや臨機応変さがないと、戦後のあの混乱を乗り越えることはできなかっただろう。

 それも、執権一族の意見と取り入れることで、あらためた考え方だった。

 それだけ、弘前家というのは、

「臨機応変」

 で、機転の利く、元華族だったのだろう。

 だからこそ、今も、

「財閥系」

 としてやってこれるのであり、日本という国に、今でも君臨できているのだった。

 しかし、今回の誘拐事件は、完全に、

「寝耳に水」

 と言ったところで、まったく予期できることではなかった。

 それに関しては、執権を責めるわけにはいかない。とにかく、まず執権のいうことを聞いて、いかに、事件を解決するか? いや、娘を無事に返してもらえるかということが先決なのであった。

「警察に相談した方がいいんだろうか?」

 というと、執権も少し考えていたが、

「そうですね。とりあえずは私の方から話をしてみましょう。状況を説明してきます。警察が、介入やむなしということであれば、それも仕方のないことだと思いますので、そのあたりの警察の事情も、私の方で確認してきます」

 と、執権がいうのだった。

 今まで、何をおいても、執権のいうことに間違いはないとして、安心して任せていたのだが、今回は命に係わること、しかも、その命というのが、大切な孫娘であった。社長の方も気が気でないということは、あからさまに分かるのだった。

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