2 名前はキイロ

 訳がわからず迷いこんだ森。


 どれだけ歩いただろう。

 歩き続けた道の先に、やっとひとつの明かりが見えてきた。小さなオレンジ色がチロチロと揺れている。

 人の気配を予想させるものを見つけただけでも、暗い海の底から抜け出した気分になり、微かな期待が膨らんだ。


 明かりを目指して歩いていくと、道の先に一本の巨木が立っていた。

 薄暗い中に浮かび上がったシルエットは相当大きい。

 大蛇がのたうっているような何本もの太い根元の分け目に、扉が一枚ついている。

 扉は飾り彫りのついた重厚なしつらえで、遠くから見えた明かりは、扉の上に吊るされたランタンの灯りだった。中で太いロウソクの火が揺れている。

 その上に看板がかけてあり、ランタンの灯りで「ユメカイ屋」と読めた。


 ユメカイ屋?


 扉の横には木の札が一枚ぶら下げてあり、文字が書かれてあった。


-夢買います-


 夢買います?

 夢ってどっちの夢?

 寝てる時に見る夢?

 それとも目標とか希望って意味の夢?

 そんなものを買ってくれるの?

 ここは一体、何屋さん?


 改めて周りに目をやる。

 巨木は相当大きな杉のようで、ドキュメンタリー番組で観た屋久島の樹齢何百年のものよりも大きそうだ。もしかしたら千年を越えているかもしれない。

 見上げても上の方は暗くて全く見えない。一体どれだけ大きいんだろう。

 重厚な飾り彫りの扉には、何かの動物の姿を型どった金属製のドアノックがついていた。扉の両脇の壁には左右ひとつずつ丸い小窓があり、明かりが漏れている。中に人がいるようだ。

 店は営業中ってこと?


 こんな怪しい店、そもそも店なのかどうかもわからないし、中にどんな人がいるかわからない。

 とてもドアをノックする勇気が出ない。

 でも誰かに道を教えてもらわないとキャンプ場に戻れないし、まだ誰とも出会えていない。

 一人ぼっちで心細い。とにかく誰かと話がしたい。


 どうしよう。


 扉の前で思案している時だった。

「いらっしゃいませ。さあさあ、お入りください」

 後ろから突然声を掛けられて振り向くと、一匹のタヌキが立っていた。


 いまタヌキがしゃべった?


「さ、どうぞ、どうぞ」

 タヌキは扉を開けて、半ば強引にボクの背中に手を回す。

「いや、あっ、ちょ、ちょっと!」

 抵抗したものの、タヌキの力は意外に強く、押されるまま中に入ってしまった。


 巨木の中はホールのようになっていて、手前にベンチが幾つか並び、奥にはテーブルがひとつ置いてある。

 テーブルの両奥には、右側に大きな木の扉、左側に大きな鉄の扉があった。

 まるで病院の待合室のようだった。

 テーブルにはキツネのような動物が一匹座っている。いや、キツネにしては小さいな。


「タヌキに化かされてる」

 思わず声に出してしまった。

「タヌキ!?」

 タヌキに聞こえてしまった。

「お客さん、今、タヌキて言いました?」

「いや、あの、その」

「ひょっとして私のことですか?私はタヌキではありません。私はアナグマです」

 アナグマ?

 ボクは今一度その姿をよく見たが、タヌキとアナグマの違いはよくわからなかった。

「すいません、アナグマさん。ボク、お客さんじゃありません」

「え?なんて?客ちゃうの?」

 タヌキ、いやアナグマの口調がいきなり変わった。

「客じゃねえのかよ」

 奥に座っていた小さいキツネもしゃべった。

「ほんなら、なに?何の用?」

 アナグマが聞いてきた。

「何の用って……あの、ボク、道に迷ったみたいで」

「道に迷た?」

「はい、あの、ここはどこですか?」

「ここかいな?ここはやなあ」


 アナグマが答えようとした時、鉄の扉がガチャンと大きな音を立てて開き、大柄の女の人が入ってきた。

「あらあら、ようこそ、いらっしゃいまし」

 女は微笑んだが、

「いや、客やないんですわ」

 アナグマが口を挟む。

「なんだ、客じゃないの。だったら何だい?」

 女はきつい口調になり、にらみつけるような表情に変わってボクを見た。

「道に迷たて言うてます」

 にらまれて声を出せなかったボクに代わり、アナグマが即座に答えた。

「道に迷っただと?フン、お前どこの小僧だい」

 随分と口が悪い人だ。

 女の人は目鼻立ちがはっきりとしてメイクが濃く、腰の辺りまで伸ばした紫色の髪を変わった形に編み、黒いドレスのような服を着ている。年齢はよくわからないが、うちの母さんと同じか少し上のように見えた。

「小僧、どっから来た」

 女がギロリとにらんだ。

「え、えと、キャ、キャンプ場です」

「はあ?」

「キャンプ場です。テ、テング山の」

 そこに戻りたいんです。

「一体どこのことを言ってるんだい。訳のわからんこと言うんじゃないよ」

「テ、テ、テング山キャンプ場です。し、知りませんか」

「知らないって言ってるだろ」

「そ、そんな……」

 ここからそんなに遠いはずはないのに。知らないわけないでしょ。

 嘘ついてるのかな……

 意地悪しないでよ……

「訳のわからんこと言って、困った小僧だねえ」

 女が腕組みをした。

「ここはアタシの森なんだよ。用がないならとっととどっかへお行き」

「そんなこと言われても……」

 どっかへって、どこに行けばいいんだよ。 

 ボクは元の場所に戻りたいだけだ。

 どうしよう。

 女はにらんでボクから目をそらさない。

 ボクはそれ以上言葉が出ない。

 ジリジリと顔を見合ったままだ。


 ど、どうしよう。


「さて、困りましたなあ」

 黙って見ていたアナグマが頭をかく。

「そうだ、召し使いが欠員出たままですよ」

 思いついたように、小さいキツネが突然言った。

「なんだって?」

「この間の、例の召し使いの代わりですよ」

「ハハン、そうだったねえ」

 女が不敵に笑った。

「だけど、役に立つかい?こんなのが」

 女は舐めるようにボクの全身を見回した。

「ま、なんなりとできるんじゃないっすか。バカじゃなさそうだし」

 小さいキツネも値踏みするように、ボクの全身を見た。

「そうだね、丁度いいわ。坊主、お前を雇ってやる。今日からここで働きな」

 女がボクの鼻先をつついた。

「ちょ、ちょっと待ってください。ボクはキャンプ場に戻りたい……だけ……」

「おだまり!こっちは人手が足りなくて困ってたんだ。お前は行く宛がないんだろ、お互いにとっていい話じゃないか」

「え、そんな、勝手に……」

「おだまりって言ってるだろ!ここじゃアタシに口答えするんじゃないよ。アタシが全部決めるんだから。今からお前はここの召し使いだ」


 め、召し使い?


「ちょ、待って」

 反論しようとするのを止めるように、アナグマが慌ててボクの肩に手を置いた。

「心配しなさんな。飯と寝るとこはちゃんと用意してやる。安心しな。それで十分だろ」

 女がまた鼻先をつついて、怖い目でボクの目を覗きこんだ。


「さて、名前はどうするかね」

 どうするって……

「ボ、ボクの名前は、ユメ…」

「おだまり!お前に聞いてないよ。黙ってな!」

 女はそう言うと、人差し指をクルクルと三回回してボクの喉元を指差した。


 うっ……


 途端に息ができなくなった。


 うぐっ……

 く、苦しい……

 声も出せない……


「なんか、いいのあるかい」

 女が小さいキツネに目をやった。

「うーん、キイロでいいんじゃないすか」

 小さいキツネがボクのシャツを見て、投げやりに言った。

「キイロか。はは、そりゃいいね。それで十分か。よし、お前の名前は今日からキイロだ。わかったかい」

 女はご満悦そうな笑みを浮かべ、さっきと同じようにクルクルしてボクの喉元を指差した。


 うっ、はあ、はあ、はあ、はあ……

 途端に息ができるようになった。

 なんだ、今のは。

 はあ、はあ、はあ……


 ちょ、ちょっと本当に待って。

 待ってって。

 召し使いとか、キイロとか、勝手にいろいろ決めないでよ。

 ボクは戻りたいんだよ。父さん、母さん、ヒマリの元に帰りたいんだよ、

 焦った。ボクは焦った。


「おい、クリ!クリはおらんのか!」

 女が大きな声で誰かを呼んだ。


 えー、いや。

 ちょっと、本当にちょっと待ってよ。

 えー……

 そんなあ……

 えー……

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