ユメカイの森

コロガルネコ

1 はじまりの森

 蝶を追いかけていた妹が、木立に少し立ち入ったところで足を止め、驚いた顔でボクを振り返って前を指さした。

 さっきからちょこまかと走り回って危なっかしい。

「ヒマリ、危ないって!」

 ボクは走り寄り、妹が指さした方へ顔を向けた。


 ?


 その瞬間、朝露に濡れた下草に足を滑らせて、一メートルほど下の窪みに落ちて尻餅をついた。


 痛ってー。

 あー、痛ったー。

 思わずつむった目を開け、お尻をさすった。


 うん?

 あれ?


 え?


 なんか風景が変わってる。


 さっきいた小川沿いの木立の風景と全然違う。もっと深い森の中だ。すぐそこにあった水辺もなくなっている。

 大きな木がうっそうと立ち並んでいて、まだお昼前だというのに夕方のように薄暗い。


「ヒマリ!ヒマリ!」

 妹の名前を呼んでみたが、返事がない。


 というより、足を滑らせた土手がない。建ち並んでいたサイトがひとつもない。誰ひとり、人の姿が見えない。


 おかしい。


「父さーん、母さーん、ヒマリー!」


 大声で叫んでみるが、辺りは静まり返っている。

 遠くに鳥の鳴き声が聞こえる。ただただ木々が並ぶ薄暗い森の中だ。


 どうしちゃったんだろう。どこに迷い込んだんだろう。

 説明がつかなくて、頭の中が混乱する。

 不安が一気に襲ってきた。泣きそうになってきた。


 だいたい怖いことは大の苦手だ。

 ホラー映画なんて絶対観ないし、観る人の神経が分からない。

 お化け屋敷だってそうだ。わざわざお金を払って怖がらせてもらって、何が楽しいっていうのだろう。ボクには全く理解できない。

 しかし、目の前の現実は、ホラー映画でもお化け屋敷でもない。


 ボクはたった一人、見知らぬ森の中にいる。

 

 どうしよう。

 何が起こったんだろう。

 さっぱりわからない。

 どうしよう。

 怖い。


 ど、どうしよう。


 何してたんだっけ。


 駐車場に車を停めて、父さんはさっそくバーベキューの準備を始めた。

 ボクもクーラーボックスをサイトまで運んだ。

「ヒマリ、ちゃんと見ててよ」と母さんに言われた。

 蝶を見つけて走る妹を追いかけた。


 で、今だ。


 もう一度辺りの様子をうかがう。

 うっそうとした森の木々は背が高く、微かに吹く風に葉を揺らし、ワサワサと音を立てている。種類はわからないが、相変わらず遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。

 誰の姿も見えないし、人の気配が全くしなかった。


 なんだかこのままでいると、大きな口を開けた深い森に自分が飲み込まれていくような感覚になる。

 ここでじっとしている方が急に怖くなってきた。

 怖い。ここにいるのが怖い。

 だけど知らない森の中だ。

 どうする?どうしよう?

 道は一本、先へと続いている。というより、尻餅ついた場所からはそっちに進むしか他に道がなかった。

 そっちに行くしかない。


 ……


 勇気を絞り出して、前に進むことにした。恐る恐る歩きだす。

 歩きながら、さっき足を滑らせた時のことを思い出していた。


 そうだ。妹が指さした向かいの木立の中に人影を見た。

 一瞬だったので、はっきりとはわからなかったが、白い服装に顔の辺りが赤っぽく見えたので、多分帽子を被っていたかマスクをしていたんだと思う。

 その人影がボクと妹の方を真っ直ぐに見ていた。

 どうしよう。変質者とかじゃないだろうな。妹は大丈夫かな。


 不安が襲ってきたが、どうすることもできない。

 ヒマリ、ヒマリ……

 六つ違いの妹はまだまだ一人じゃ心配だ。 

 妹が無事で、ちゃんと父さん母さんと一緒にいることを祈った。

 妹のことを心配しながら一本道をとぼとぼと歩き続けた。妹も心配だし、自分のことも心配だ。不安でまた泣きそうになってきた。

 泣かないよう、ぐっと奥歯を噛みしめて、とにかく前へ前へと歩いた。

 薄暗い森がずっと続いている。


 やがて開けた場所に出た。

 左手に沼が見える。沼はそう大きくはないが、暗い水面が静かに広がっている。

 水の中を覗き込んだが、水草や魚の姿は見えず、生き物の気配がしなかった。

 岸から少し離れた辺りに、妙な形をした大きな石が幾つか、水面から頭を出していた。

 なんだか陰気な沼だ。こんなところで長居したくない。先に進もう。


 その時、岸辺の草むらでガサっと音がした。音のした方を振り向いたが、すぐに音は消えた。

 歩き出そうとするとまた、さっきとは少し離れた辺りでガサガサっと音がした。そしてまたすぐに音は止んだ。

 ネズミでもいるのかな。


「・・・」「・・・」「・・・」

 何か聞こえてきた。


「チリチリチリチリチリチリ」

「チリチリチリチリ」

 少し間があって、また。

「チリチリチリチリチリチリ」


 何?何?なんだ?

 ネズミはあんな声は出さない。

 虫?虫の鳴き声?


 いや虫にしては、さっきの草むらの音が大き過ぎる。

 気持ち悪くてもうその場にいられなくなり、ボクは走り出した。とにかく思い切り走った。


 なんだ今のは。何がいたんだろう。何か危険な動物だったらどうしよう。追いかけてこないかな。

 さっきの沼が見えないところまで走って、やっと歩を緩めた。

 窪みに落ちて、ここまで来て、どれだけ時間が経っただろうか。

 森全体が薄暗いので時間がよくわからないが、陽が傾いたのか更に暗くなったように思う。


 怖い。


 不安に押し潰されそうになりながら、ボクは一人で途方にくれ始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る