第9話 噂話と領主

 ──おい、聞いたか。エタンセル軍に攻めこまれてノクイエが陥落したらしいぞ。

 ──ああ、知ってる。王も王子も死んじまったって噂だ。

 ──本当か? どこぞのホラ吹きの作り話じゃないのか?

 ──作り話じゃないさ。俺はノクイエに行商に出てた仲間から、直接話を聞いたぞ。


 ディアボリカは目の前の料理に集中するふりをして、うしろの席から漏れ聞こえてくる商人たちの会話に耳を澄ませた。彼らのやりとりは、酒も手伝って白熱している。

 賑やかしい食堂でも難なく耳に入る声量で、会話は続いた。


 ──もしそれが本当なら、リヴレグランはどうなるんだ? このオウマは?

 ──いずれエタンセルに占領されるんじゃないのかね。

 ──俺たち商人はどうなるんだろう。エタンセルのいいようにされるのか……?

 ──略奪、そうでなくても指揮下に置かれて、とんでもない税金をかけられるかもなぁ。

 ──いや、そんなことにはならんだろう。そんなこと、ヘドリック殿が許すはずがない。

 ──確かにそうだな。エタンセルの軍隊がどれだけ強くても、ヘドリック殿の傭兵団とぶつかったら、たたじゃあすまない。オウマは簡単にはエタンセルの言いなりにはならんだろうよ。


(ヘドリック……)


 商人たちが口々に上げるその名を、ディアボリカは胸中で反芻はんすうした。


 陽が落ちて宿屋に戻ってしばらく、三人は宿に併設されている大衆食堂で夕食を摂っている。さまざまな民族が入り乱れた食堂は活気に満ちており、しかし簡素な燭台のせいで室内は薄暗かった。それも手伝ってか、みんな誰かの目を気にしたり、誰かを見咎めるそぶりがない。三人がフードを被ったまま食事をしても、誰も気にしていないようだ。


 皿の上に乗った鶏肉にナイフを入れつつ、ディアボリカはアルセンとモイラに目くばせした。二人ともディアボリカを見て頷く。アルセンの視線がモイラの手もとに移ると同時に、モイラは持っていたスプーンを手放した。


「あっ」


 モイラが驚いたような声を上げる。金属製のスプーンが床を跳ねる鋭い音が立った。一瞬店内の注目が集まるが、すぐに食事や会話に戻っていく。

 栗色の髪を結いあげた給仕女が近づいて、新しいスプーンをモイラに差し出してきた。


「すみません、ありがとうございますっ」


 モイラが礼を言うと、給仕女は軽く頭を下げた。そのままきびすを返そうとする彼女を「あの」とモイラは呼び止める。


「あたしオウマにきたばかりなんですけど、ヘドリックって方は、どんなおひとなんですか? ここに来るまでにお名前をしょっちゅう耳にしたから、気になっちゃって」


 三人のなかで一番この街に溶け込みやすい容姿のモイラが、人懐っこい笑みを浮かべて尋ねた。給仕女は特にいぶかしむでもなく「あぁ」と得心したように声を漏らす。


「ヘドリック様は、このオウマの領主ですよ」

「わっ、領主様だったんですか……!!」

「ええ。でも御本人は全然気取ったところがなくて、日がな一日、鍛錬所で傭兵に混じって剣の稽古をしていらっしゃいます。この食堂にもよく顔を出してくださいますし」

「へぇー……。親しみやすい方なんですねぇ……」


 モイラが感嘆のため息をつくと、給仕女の笑顔が華やいだ。


「オウマの者は皆、ヘドリック様をお慕いしています。この商業都市で安心して商売ができるのも、あの方のお陰なんです。街を警護している衛兵だって、ヘドリック様お抱えの傭兵団から派遣されているんですよ」


 遠くの卓から注文を強請ねだる声がして、給仕女の話は打ち切られた。一礼をして立ち去る彼女の背を見送ったあと、モイラは卓に向きなおった。


「こんな感じで良かったですか?」

「ああ、ありがとうモイラ」


 ディアボリカは微笑んで、口に運んでいたフォークを卓に預ける。


「オウマの領主ヘドリック卿か……。ずいぶんと民に人気があるようだな」

「一度会ってみる?」


 アルセンがマスの香草焼きを口に運びながら、まるで知人に会いに行くような気軽さで言う。


「街に着いて、旅に必要な物を揃えて、次に求めるべきは、あなたの意志に賛同して力を貸してくれる仲間だと思うよ」

「彼がそうだと?」

「まだ分からない。でも、めぼしい人にはとりあえず会ってみるべきじゃないかな」


 アルセンはそこまで言うと手を上げて、麦酒のおかわりを注文した。

 ディアボリカはフォークをすくい上げ、鶏料理をまた口に運び始める。


 確かにアルセンの言う通りだ。いくらディアボリカとアルセンが剣に覚えがあるとはいえ、侍女であるモイラを含め、たった三人でエタンセルに乗り込んで、セシル王子を倒すのは無理だ。


 その昔、かつての勇者が魔王城を攻めたときも、彼は幾千の兵を率いて、魔王城を囲い込んだという。魔王城に詰めていた魔王の配下を倒したあと、勇者を含めた四人の英雄達が、リヴレグランの王をくだしたのだとか。


 今度はその逆だ。勇者の裔であるセシルが治めるエタンセルを、魔王の裔の生き残りであるディアボリカが攻め落とす。有事のときはターニャをはじめとする乙女騎士達が力を貸してくれるかもしれないけれど、それでも戦士の頭数が圧倒的に不足している。


(オウマは豊かで大きな街だ。もしヘドリック卿が私の考えに賛同してくれて、彼と、彼が率いる傭兵団が力になってくれたなら……)


 エタンセル攻略も、夢ではなくなるだろう。


 食事もそこそこに思考にふけっていたディアボリカだったが、食堂の入口扉のあたりで歓声が上がったのを耳にして、我に返る。

 三人は席に着いたまま首を伸ばして、声の上がる方を見た。


 杯を手に持った客が人だかりを作っている。手の空いている給仕女達もこぞって集まっていた。いくつもの歓呼かんこの声のうちに「ヘドリック殿」という言葉を拾い聞き、三人は顔を見合わせた。思わず椅子を蹴って立ち上がる。


 人々の輪の中心に、ひときわ上背のある青年が立っていた。

 高くひとつに結った髪は、深い青。とがった耳に銀の装飾具を幾重にも飾り、黒の毛織物の外套を羽織っている。

 堂々たる体躯の男だった。年は二十なかばくらいだろうか。しっかりと着込んだ服の上からも分かる筋肉は、しなやかな野生の猟豹りょうひょうを思わせる。太い首筋には力強い炎をかたどった黒い入墨が覗いていた。


「あ、あの人がヘドリック卿ですか……!? 思ったより若っ……というか、いかつっ!」


 モイラが漏らした感想に、正直なところ同意せざるを得ない。ヘドリックのまとう空気は、重く、物々しく、鋭かった。彼を慕う人達に応じるときですら、彼は微笑みすらしない。表情は変化にとぼしく不愛想で、顔面の筋肉が硬直しているのかと思うほどだ。


「ほら、旦那は食事に来たんですよ! 歓迎はそれくらいにして、なかに入れちゃあもらえませんかね」


 ヘドリックと共にやってきた取り巻きの一人が、群がる人々を追い払うように手を振る。彼もまた筋骨隆々で、おそらくヘドリックの召し抱える傭兵の一人であるとうかがえる。


 散り散りになった人のあいだを通り過ぎて奥へ行き、ヘドリック達は部屋の隅の卓を陣取った。大柄なヘドリックが勢いよく椅子に腰掛ける。木製の椅子はミシリときしみ、ついでに彼が腰にいた大剣の鞘の金具がガチャリと鳴った。まるで巨獣のように、一挙一足に迫力がある。


 彼らは肉料理をいくつかと麦酒を注文した。酒が運ばれて来るや否や、ヘドリックと杯を合わせようと、他の卓のあちこちから人々がやってくる。ヘドリックは微笑むでも眉をしかめるでもなく、淡々と、しかし律儀りちぎに、求められるまま彼らの乾杯に応じた。


「わ、悪い人じゃなさそうですけどぉ……」


 迫力に気圧されたままのモイラが漏らす。

 反対に、アルセンはどこか愉快そうだ。挑むような視線をディアボリカに向けてくる。


「どうする? ディア」


 問われて、ディアボリカは食具を皿に預けた。


「……ここは人目がありすぎる。ヘドリック卿が店を出る時を見計らって、私達もここを出よう。それから卿に声をかける」

「ひぃ……ぶっ殺されませんかねぇ……」

「見た目は怖いが、あれだけ民に慕われているんだ。心根は優しい御方だろう。……たぶん」

「そうであることを祈るばかりだね」


 やがて月が高く冴える時間になると、夕食を腹に収めたヘドリックは、長酒をするでもなく席を立った。名残惜し気に声をかける客の声にひと通り応じて、彼とその取り巻きは店を後にした。ディアボリカ達も彼らを追って、店を出る。


 春が来たばかりのオウマの夜は、空気も月も、凛と澄み渡っていた。野外に出たディアボリカは「ヘドリック卿」と大きな背中に声をかけた。


 賑やかな店から漏れる灯りに照らされたヘドリックが、ゆっくりと振り向く。影を背負った彼は、室内で見るより一段と物々しい。


「誰だ、お前は」


 彼に代わって、取り巻きの一人が声を上げた。

 突然素顔を隠した者が声をかけたのだから当然だろう。ディアボリカは意を決して、被っていた黒いフードを肩に落とした。


 長い黒髪が月明かりに輝く。おもてを上げて、金と青の双眼で彼らを見据えると、取り巻きが虚を突かれたような顔になった。


「私はリヴレグランの魔姫、ディアボリカ」


 取り巻き達がざわめく。そのざわめきごと吹き飛ばすように、声を張る。


「あなたはオウマの領主、ヘドリック卿とお見受けする。あなたと話がしたい。どうか私に、対話の機会を設けてはいただけないだろうか」


 ヘドリックの表情は動かない。彼は相変わらず唇を一文字に引き結んだままだ。


 取り巻き達は「本物か!?」「王族はみんな死んだんじゃないのか」と、各々好き勝手に憶測を広げている。あまりの言い草に、背後に控えるモイラが息を飲んで何か言いかけたとき、ヘドリックが取り巻きに向かって「やめろ」とつぶやいた。容姿にたがわず、低く、重い声だった。


「……魔姫を見たことはない。が、その容姿。嘘を言っている訳じゃなさそうだ」


 ヘドリックが鋭い眼光をディアボリカに向ける。

 知れず、拳を握りしめる。気圧されまいと、ディアボリカは彼のまなざしを真っ向から受け止めた。


 しばらく視線が交錯こうさくして──ヘドリックは静かに吐息を落とす。


「今日はもう遅い。あんたも疲れているようだ。日を改めよう」


 ディアボリカは思わずぱちぱちと瞬きした。ヘドリックは無表情のまま「顔の血色が悪い」と付け加えた。


「俺は鍛錬所にいる。何か話があるなら、また陽が昇ってから訪ねてくるといい」


 そう言い残して彼は外套をひるがえし、ディアボリカ達に背を向けて歩き出した。ディアボリカとヘドリックを交互に見ていた取り巻き達も、あわてて彼の後を追う。


「……とりあえず、一歩前進かな?」


 後ろに控えていたアルセンが、詰めていた息を解いた。恐れるものがいなくなったモイラは水を得た魚のように「あの人、ディア様に向かって不敬ふけいじゃありません?」とぷりぷり怒る。


 二人の声を聞きながら、ディアボリカは張りつめていた全身の力を抜いた。背中にぬるい汗が伝う。


 ──ヘドリック卿。


 対話は拒まれなかった。彼は見目に反して、きちんと誰の言い分にも耳を傾ける人だ。そう、誰の言い分にも。

 ディアボリカが魔姫だと明かしても、彼は身分におもねることはしなかった。彼は、たとえ自らが仕えるべき王族であろうとも、不当だと感じたなら意見を跳ね除けてみせるのだろう。


「明日の訪問は胆力がいりそうだな」


 ぽつりとぼやくと、アルセンが「お疲れ様」とねぎらってくる。


 早春の月は高く、遠い。欠けたものが満ちるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。

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