第2話 ミサ、駆ける

 夜になった。

 天仰ぐ星々は回り、黒炭色の雲が踊る。始の月ミシリアを追いかけ終の月ゲーテが天頂に上っていた。

 女神と男神、淡いブロンドの光を放つミシリアは必ず先に空を照らし、強いプリムローズイエローのゲーテがそれを追いかける。決してたどり着けない二人を旅芸人ロマ達は悲劇として好んで口ずさんでいた。

 ……いいわね、貴方は追いかけてもらえて。

 ミサは多数の小瓶を抱えて夜空を見上げていた。

 ミサ、という名前はミシリアを語源としていた。今は亡き両親が付けた名前だ。いい男性を捕まえられるようにと。

 ただの村娘へ付ける名前にしては畏れ多い。そのせいで揶揄する大人も多くいた。それでも親愛する親の情は幼心に羽毛のような温かさを与えていた。

 それが今では嘲笑の的になるとは露ほどにも思わなかった。


「止まれ」


 根拠地ベースキャンプに辿り着いたミサを兵士が止める。

 緑の肌を篝火が照らしている。亜人種だった。

 魔王領ではありふれた種族であり、手には丸く太った棍棒を持っている。

 その武器がミサの前に出されていた。行く手を阻むように突き出した腕を延長していて、無理に通ろうとすれば、頭蓋など簡単に砕け散る事だろう。


「夜警ご苦労様です。こちら村長からお礼の品を預かってきました」


 ミサは抱えていた小瓶をひとつ振り、見張りの亜人に手渡す。

 透明な瓶には、今は夜ではっきりと見えないが、薄紅色の液体が入っている。

 中身はただの酒だ。山で取れる硬いヤマモモを蒸留酒で漬け込んだ、村の特産品でもあった。

 一年以上漬け込むとヤマモモの色が溶けだし、香りと爽やかな甘みが生まれる。ヤマモモと同時に入れる香草により、世に二つとない深い味わいになるが、そこは村の秘伝でもあった。

 亜人は節くれだった細い指でコルクを抜いて、中身に鼻を近づける。火気を近づければ燃え上がる程に強い酒精が鼻腔をくすぐり、意図せず目尻が下がっていた。


「通していただけますか?」


 ミサが問いかける。その声にたるんだ表情を締め直した見張りは、小瓶とミサを交互に見つめたあと、それを懐に大事にしまって根拠地へと歩を進めていた。

 ……想定通りだわ。

 毒ではなく、ただの酒。賄賂ではなくちょっとした役得。曖昧なところをそのままにしてミサは亜人の後ろについていた。


 根拠地は古ぼけた布のテントが立ち並んでいた。最低限の通路を確保したら後は寄せ合うように密集している。

 大きさは画一的でなく様々だ。亜人の中でも大人よりも大きいものもいれば、子供程しかないものもいる。そもそもテントすら必要ないものは直接地面に横たわっていた。

 そこを縫うように、二人は進んでいく。時折休憩中の兵士が顔を覗かせるが、ミサの姿を見ると途端に興味を無くしてテントに戻っていた。


「ここだ」


 見張りが足を止める。

 そこは小さなテントの前だった。人が入るには十分だが過ごすには少し窮屈そうで、嫌な予感を脳裏によぎらせながらもミサはテントの垂れ幕を押し上げて中を覗いていた。

 ……あっ。

 そこには膝上まである木箱が山のように積まれていた。鼻が拾うのは香ばしさと酸味の混じった、かぐわしさだ。

 そこがどこなのか、ミサはすぐに察する。同時に目的の場所と似ても似つかないことも。


「置いていけ」


 見張りが告げる。

 当然だった。酒を持ってきても直接手渡せるわけがない。一度食糧庫において、飲むべき時に飲む。

 しかしそれでは困るのだ。


「あの、直接感謝の言葉を伝えるよう申し付かっているのですが……」


 ミサが食い下がる。が、見張りは相手にする様子はなく、こん棒を握る手に力を込めていた。


「魔王様は忙しいのだ。帰れ」


 反論させない、強い命令だ。

 はいそうですねと帰れればどれだけ楽だろうと、思いながらミサは渋々荷を下ろす。

 空いていた小さな木箱に小瓶を丁寧に並べ、テントを出る。外は冬が間近なこともあり、息を吸うと鼻の奥がつんと痛む。

 ……どうしましょう。

 どうしようもなにも、やるしかなかった。

 ミサは不意に立ち止まる。後ろから聞こえる足音も止んだ。

 空を見上げていた。澄んだ空は小さな星々でさえ明確に映し出している。

 ミシリアは、今日もゲーテを置いて落月の時を迎えていた。


「――すみません」


 誰に向けた言葉なのだろうか。それはミサにすらわからない。ぽつりとつぶやいた言葉を置き去りにして、ミサは地面を蹴って走り出す。


「――! ……、……!」


 乾いた空気が行く手を阻む。思うように身体が前に進まず、粘度の高い水の中を必死でもがいているように思えていた。

 背後からは見張りの怒号が響き渡っていた。それに触発されて周辺のテントから虫の群れのように兵士たちが湧いて出てくる。

 捕まれば、終わり。目的を達成しても、終わり。

 戦後すぐということもあり、気が立った兵士たちは容赦なく得物を振るう。侵入者に対する配慮など当然ない。

 屈み、飛び越え、時には鋭利な小石だらけの地面を転がりながらもミサは進む。テントから出てきたばかりの兵士は状況を呑み込めておらず、見当違いな方向へ攻撃することも往々にしてある。そのおかげで細かい傷を全身に負いながらもまだ足を止めることなくいられた。


 ……どこ?

 走りながら、ミサは注意深く周囲を見る。泥を吸った服が重い、緊張から吹き出る汗が鬱陶しい。

 年齢の数を超えるほどのテントの間をすり抜ける。瞼から垂れる、視界を塗りつぶす赤を拭いながら、ミサはようやくそれを見つけていた。

 闇に同化する漆黒の天幕だ。周囲に比べひと際大きく真新しいそれは、隔離されているような空白の中にあった。


 あれだと一目でわかる。違ったらもう機会はない。

 諦めたくなる弱気な足に今一度活を入れ、ミサは翔ける。土石流のごとく迫る軍勢の気配を背中に感じながら。

 テントの森を抜け、広間に出る。地獄の門のような闇の入り口までは十歩もなかった。

 一歩、二歩。まだ無事だった。息が荒い。

 三歩。すぐ脇を手斧が通り過ぎる。

 四歩、五歩。前を塞ぐ影が現れた。

 手を伸ばせばそこは天幕の中。それを阻む亜人は、意地悪い笑みを浮かべていた。

 ――ぶつかる。なら……。


「やあっ!」


 腹から息を吐き捨てると同時に、力強く地面を蹴る。ふわりと綿毛のように飛ぶミサの残り香を、亜人は大きく広げた腕で挟み込んでいた。

 間の抜けた亜人の表情を一瞥する。浮いた身体は自然の摂理に従って落ちていく。飛ぶことのみに全力を尽くした行動は着地まで考える余裕などなかった。

 迫りくる地面。空中でうつぶせになった身体は、足裏よりも先に膝や手が前に出ていた。

 猫ならばそのまま駆け抜けることが出来ただろう。しかしミサは人間だ。対処する時間もなく、地面へと激突していた。


「ぐぅ……」


 口から呻き声が出る。同時に星明かりとは違う光が薄く閉じた涙目を焼いていた。

 上半身と下半身で感じる空気が違う。それはすなわち――。

 現状を肌で察してミサは身体を上げようと試みる。

 ザンッ。

 しかし、首の上で交差する剣がそれを許さない。追いついた兵士が馬乗りになり、さらに二人が地面を貫く。


「……何事かな?」


「は、はい。賊が侵入しまして……」


 天蓋の中にいた人物の声に、兵士の身がすくむ様子を背中で感じ取る。

 ……あれが。

 目を向け顔を向け、ミサはその姿を捉えていた。

 寝台に横たわるのは男性のようで、金糸と銀糸をで編まれたアメジストのローブがだらしなく地面に触れている。

 透き通るような肌は薄い緑みを帯びていて、気だるげに持ち上げた顔には、額に小さな突起があった。

 男性はミサを一瞥して、近くのサイドテーブルに置いてある果物に手をかける。小さな実が連なる葡萄を房から喰いちぎると、張りのある実から甘い香りが漂っていた。


「ふーん。賊の侵入を王の寝所まで許したんだ……」


 間延びした声が突き刺さる。ただの言葉であるはずなのに、兵士たちは雷に打たれたように痙攣を起こしていた。


「い、いえ。これには訳が――」


「――訳なんてない。そうだろ?」


 弁解も許されない。子供のような意地の悪い表情の奥に、蒼い瞳が槍の如き鋭さを見せていた。

 男性は身体を横に倒し、肩肘をついて掌に顔を乗せる。

 見定められている。害があるかではなく、楽しめるかどうかという目だ。

 ……可哀想。

 ミサは男性を見返しながら、そう感じとっていた。何故だかは本人にも分からず、思い返しても理由が見当たらない。

 違和感がしこりのように残って胃が受け付けないでいると、


「で、それはなんだい? 暗殺者にしてはずいぶん汚いし、平凡だ。いや平凡を装っているほうがいいのか、今まで見たことないからわからないなぁ」


 話題がミサに移っていた。

 それをよい機会だととらえ、ミサは喉を震わせる。


「私はザイスィン村のものです。今回助けていただいたこと、心より感謝しています。感謝していますが焼かれた畑に殺された男手、これで例年通り税を徴収されては冬を越すことなどできません」


「――黙れっ!」


 馬乗りになっている兵士が拳を後頭部に叩きつける。骨の軋む音が脳内を駆け巡った。

 視界が白く濁るが、それでもミサは止まらない。


「黙りませんっ! 陛下、どうか今回ばかりは温情を、お願いします――」


 叫び散らして、その口を節くれだった手でふさがれる。

 それでもなお藻掻くミサに、男性が告げる。


「あのさ、そういうのはここの領主に言ってよ。それが筋ってもんでしょ? ……あぁ人族だからか、そりゃ領主も取り合ってくれないだろうからこういう手段を取るしかないんだね」


 男性は一人納得するように手を叩いていた。

 ……そうだけども。

 ミサは告げられた言葉を嚙みしめる。

 魔王領には多種族が共存していた。亜人種以外にも、獣人、エルフ、スライム、アンデッドなど。人種もその中に含まれるが、気の遠くなるほど昔から続く魔王と人による戦争のせいで魔王領の人種の立場は底を割っていた。

 怨敵と同じ姿のものが隣にいることが耐えられない。それは当然の感情だ。しかし人間領からすれば、先祖代々から続く裏切り者として見られる。それゆえ魔王領の人族はどちらにも居場所がなく、魔王領の外縁で戦火におびえながら細く生きていくしかなかった。


 男性は値踏みするようにミサを見つめた後、重い腰をあげて立ち上がる。そのまま歩を進めると、ミサの目の前で腰をかがめていた。

 身体に合わないローブが地面の上に折り重なる。怖いほどに整った顔が、上を向く長いエメラルドのまつげが眼前にあった。


「殿下、危険ですので――」


 兵士の一人が声をかける。

 男性は途端に表情をゆがめていた。邪魔するなと、目で訴えて。

 閉口せざるを得ない兵士の顔に満足したのか、愛想のいい笑みを張り付けミサに向き直る。


「で、この青写真を描いたのは誰だい?」


「……わ、私の独断です」


 ミサは咄嗟に用意していた嘘をつく。

 信じられていないのはわかっていた。それでも押し通すしかなかった。

 男性はふーん、と言葉を漏らす。そして、


「誰をかばってるか知らないけど不敬だね。人間の村ひとつくらいなら潰したっていいんだよ?」


 その言葉に欺瞞など込められてはいなかった。

 やろうと思えば簡単なのだろう。それこそ命令ひとつで済むほどに。

 しかしそれをしないのは、

 ……弄ばれてるから、だわ。

 苦悩する顔が見たいから。媚びへつらう様子を笑いたいから。それが容易に理解できてミサは奥歯を噛みしめてじんわりと湿る眼を見開く。


「私で人形遊びをしたいならかまいません。その代わり村の人には手を出さないでくださいっ!」


「あっそ。なら――」


 男性は手を伸ばす。

 氷柱のように冷たい指がミサの顎を掴む。持ち上げられ、底なしの深い双眸に囚われていた。


「お前は俺の――」


「――何をしている?」

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