第36話 私、幸せです
「待ってください、アザレア」
アザレアがコンパクトを使おうとすると、サフタールから「待った」の声が掛かった。
「アザレアの周囲に
朱い魔石が込められているコンパクトを使うと、アザレアの魔力効果が一時的にだが無くなってしまう。
ストメリナも滞在している城内で、無防備になるのはよくないとサフタールは考えたのだろう。
「……強化!」
サフタールがスペルを唱えると、アザレアの周囲に六角形の模様が入った丸いバリアが張られる。
「これで属性攻撃魔法を無効化できます。いつ何が起こるか分かりませんから」
「ありがとうございます、サフタール」
「ほほう、さすがは婿殿だ。
「ぜったいにおやめください。……跳ね返った氷の矢が刺さりますよ」
大公の笑えない冗談に、サフタールは目を据わらせる。アザレアはこういう軽口が苦手なので、サフタールが真面目な人間で本当に良かったと思う。
(サフタールは私の代わりに怒ってくれた……)
証拠なんか何もなくとも、大公には自分のことを本当の娘だと宣言して欲しかったし、亡くなった母のことも庇って欲しかった。朱い髪が魔力依存だと分かった段階で公表して欲しかった。
ゾラが何度となく励ましてくれたから、何とか卑下することなく生きてこられたが、そうでなかったら今どうなっていたことか。
本当はこの場で大公に怒りたかったが、アザレアは何も言えなかった。何故言えないのかは自分でもよく分からない。大公への苦手意識からか、それとも恐怖からなのか。
だから、代わりにサフタールが怒ってくれたことはすごくありがたかった。
アザレアは心が軽くなるのを感じた。
「では、……あらためて」
アザレアはコンパクトの蓋を開けると、細い指先を翳した。
◆
「おおっ……これは……!」
大公の青い瞳が見開かれる。
その驚きの表情に、アザレアは自分の髪色が変わったことを知る。
「このコンパクトには、一時的に魔力効果を無くす魔法が込められています」
「なるほど、このコンパクトに朱い魔石を入れたのだな? しかしこれは……いや、いざ目の当たりにすると言葉にならないな」
大公は銀色に変わったアザレアの髪をしげしげと見つめ、瞳を潤ませた。指先で目尻を拭うと、高い鼻をすんと鳴らす。
「お前にはその髪のせいで苦労をかけたな」
「……お父様」
「庇ってやれなくてすまなかった。朱い髪をしていてもお前は私の娘だと、……言ってやれなくてすまなかった。今更謝ったところで許されないことは分かっている……」
「もう、いいのです。お父様」
意外なほど、アザレアの心は落ち着いていた。
大公に自分の本当の髪色を見せれば、もっと何かがあると思っていたが、心は鎮まっている。
「私にはもう、サフタールやイルダフネ家の皆さんがいます。皆、私の朱い髪が好きだと言ってくれました。お父様に、私の本当の髪色はお父様と同じ銀髪なのだと伝えられれば……それでいいです」
「アザレア……。そうか、お前は幸せなのだな」
「はい! ……お父様がイルダフネ家との縁談を取り決めて下さったおかげで、私、幸せです」
アザレアの髪がまた、朱に染まっていった。
◆
別室にて、大公らの様子を窺う者がいた。
(おのれ……!)
女は長い爪をつけた手で、高価な魔道具を握り潰す。
(アザレアの髪が本当は銀髪だったなんて……そんなこと、聞いていないわ……!)
大公の血を引く人間は自分だけ。
女──ストメリナはそう信じてきた。
(……嘘よ、アザレアがお父様の娘なんて。どうせあのあばずれの後妻が、エトムント家の分家の人間と寝て作った娘に決まってる……!)
アザレアが正式に大公の娘として認められてしまったら。そう考えるだけでぞっとする。アザレアを祭り上げようと考える人間が出てくるかもしれない。
何とかしなくてはと頭をフル回転させるストメリナは、ふいに思い出す。
(そういえば、ディルクにアザレアをたぶらかすように言っていたわね)
ディルクはアザレアをたぶらかした証拠にと、彼女に口づけた映像を持ち帰っていた。
アザレアはいかにもおぼこらしく、ディルクに口づけられて驚いていた。その驚いた顔はそれはもう滑稽だった。
(……ディルクと口づけた映像を記念式典中に流せば)
少なくともアザレアの幸せの邪魔は出来る。
アザレアはイルダフネ家の人間に上手く取り入ったらしく、間者らが手に入れてくる映像に映る彼女はいつも笑顔だった。それがストメリナには腹だたしくて堪らない。
ストメリナにとって、アザレアが認められたり、幸せになることは絶対にあってはならないことなのだ。
アザレアは、未来永劫虐げられていなくては。
(……ぜったいに、サフタールとの仲を裂いてやるわ)
婚約中に他の男と口づけを交わす。そんな女をあの堅物で有名なサフタールが受け入れるだろうか? きっと婚約破棄になるに決まっている。
アザレアの絶望に満ち満ちた顔を想像するだけで、ストメリナの胸は多幸感でいっぱいになった。
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