第36話 優しすぎて

 星南が席を外してから、いろははジュースを飲む陽に尋ねてみたかったことを訊いてみた。


「佐野森様は、星南様のことをどう思っておられますか?」

「――ごほっ」


 げほげほと咳を繰り返し、陽は真っ赤な顔で涙目になっている。いろははまさか自分の問いかけのせいで陽が咳込んでいるとは思いも寄らず、慌てて小さな前足で陽の背中を撫でた。


「大丈夫ですか?」

「けほっ。……あ、ああ」


 気管に入りかけたジュースを押し戻し、陽はようやくひとごこちつく。ふぅ、と息を吐き出した陽に、いろはは「どうなんですか?」と改めて問いかける。


「……どうって、どういうことだよ」

「好きか嫌いか、聞いています。星南様のことを」

「き、嫌いになんてなれるはずがないだろ」


 カッと顔を赤くして、陽は言い返す。売り言葉に買い言葉となっている彼に、いろはは更に畳み掛けた。


「星南様のこと、好きですか?」

「なっ……っ。はぁ、お前な」

「残念。言質を取れると思ったのですが」


 クスクスと笑ううさぎを睨み、陽は頬杖をついて諦め顔で口を開く。


「……好きだよ、あいつのこと。だけどおれが伝えれば、あいつを困らせる」

「困らせる? 何故そう思うのですか?」

「あいつは、岩永星南は優しすぎるんだ。……前世からずっと、自分よりも他人を優先する癖がある。おれがもしも告げたら、おれが傷付くことを恐れて断れない」


 おれを憐れんで、付き合って欲しくはない。陽の言葉に、いろはは肩竦めた。


(貴方も充分、優しすぎるんですよ。佐野森様)


 互いを思いやるが故に、一歩踏み出せない。それは長所であると同時に短所であるとも言えた。

 しかし、いろはは星南がその均衡を崩そうと決めていることを知っている。この時代のイベントの一つ、バレンタインデーに目の前の少年に想いを告げるのだと言っていた。


(その時、貴方はどうするんでしょうね?)


 いろはは自嘲気味に笑う陽を見つめ、彼の身にもうすぐ起こることを思った。

 陽もまた、いろはに見つめられていることには気付いている。いろはが何を思っているのかは検討もつかなかったが、話題を逸らそうと彼から話しかけた。


「いろは、比古のことを教えて欲しい。いろはから見て、比古はどんなやつだったのか。おれの中の、思い出した比古という人物とどう違うのか、知りたい」

「良いですよ。……比古殿は、物静かで聡明な人でした」


 いろはは目を閉じ、遠くなってしまった日々に思いを馳せる。その思い出の中、鮮やかな彼らとのことを少しだけ取り出すことにした。


「ただいま」


 星南が部屋の戸を開けると、陽といろはが話をしているところだった。随分と打ち解けたのか、陽の表情が少し柔らかい。


「おかえり、岩永」

「お帰りなさい、星南様」

「二人共、楽しそうだね? 何の話してたの?」


 何気なく、疑問を口にした。しかし星南のその発言に、陽はサッと顔を背け、いろはは変わらずニコニコしている。


「……」

「えっと……?」

「ボクらの秘密です。ね、佐野森様」

「あ、ああ。秘密だ、岩永」

「そうなの……? 残念」


 首を傾げつつ、星南はテーブルにジュースのペットボトルを置いた。オレンジジュースがあったため、そのまま持ってきたのだ。


「あ、クッキーもあったから一応持ってきた。足りなかったら食べてね」

「ありがとう」


 コップの中の残りを飲み干し、陽は星南が持ってきたペットボトルを掴む。そこからジュースを注ぎ、トンとペットボトルを置いた。


「そういえば、岩永は岩長姫の記憶があるんだろう? その、神話で語られるような内容なのか?」

「うん……そう、だね。妹と一緒に瓊瓊杵尊のもとに嫁ぐことになって、だけど容姿を理由にわたしだけ実家に戻された。凄く悲しかったけど、ほっとしたのも事実で、しばらくぼんやりと過ごしてたかな」


 妹だけが必要だと言われ、瓊瓊杵尊の邸から放り出された。たった一人、呆然として、どうやって実家に帰ったのかは覚えていない。気付けば、自室で横になっていた。

 懐かしく、そして寂しさも感じる記憶だ。何となく居心地が悪くなり、星南はジュースを自分のコップに注いだ。その時、陽がふと呟く。


「覚えてる。帰って来てから、姫様は毎日庭を見ていた。おれといろはと、みんな見守ることしか出来なかったな」

「覚えて……」

「思い出したっていう方が正しいんだろうけど、岩長姫様の背中は鮮明なんだ。寂しそうで、悲しそうで。……おれは、瓊瓊杵尊のことを想っているんだと思っていた」

「――っ、違う!」

「岩永……?」


 思わず身を乗り出した星南の瞳に、驚く陽の顔が映り込む。


「わたしは、今も前も瓊瓊杵尊に気持ちを寄せてなんかいないよ。わたしが好きなのは、ずっと……」

「岩永、ストップ」

「……!?」


 ぽふっと陽の手のひらが星南の口元を覆う。それに驚いた星南が口を閉じると、陽は「よし」と頷いて手を離した。


「何となく、勢いで聞いたらいけない気がした。……そういうのは、本人に言ってやれ」

「え、あ……はい」


 すとん、と星南はクッションに座り込む。陽の言葉は最もだが、彼女にしてみればそうではない。


(違うよ。わたしが好きなのは……)


 貴方だよ、と。今口に出せたらどんなに良いだろうか。それとも、言わなくて正解だったのか。わからない、と星南は唇を閉じる。


「……」


 目を伏せる星南と、顔をわずかに背ける陽。二人それぞれの反応を見比べ、いろはは内心ため息をついていた。


「……もう少し、昔話をしましょうか。ボクが今も忘れられない、笑い転げたお話を」

「そ、そんな話が?」

「嫌な予感もするけど……聞いてみたい。話してくれよ、いろは」

「はい」


 星南と陽が食いついた。そこに、先程までの憂いはない。いろははほっとして、あの日のアクシデントを語って聞かせた。

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