第3話 わたしの前世

「えっと……いろは?」

「はい、です!」

「待って。本気で頭が追い付かないんだけど」


 文字通り星南せなが頭を抱えたのも無理はない。目の前には、両手に乗るくらいの大きさの薄茶色の可愛らしいうさぎがいる。しかしそのうさぎは日本語を喋り、自分はいろはだと自己紹介までしてくる始末だ。

 更に、星南の前世にまで言及してくる。


「わたしの前世が……イワナガヒメ?」

「はい、岩長姫様です!」

「ごめん。そもそもイワナガヒメってどんな人?」

「……え?」


 ポカン、といろはが口を開けた。もともと丸い目を更に丸くして、じっと星南を見つめる。星南が申し訳なくなってくるほど、じっと。


「……ご存知ない? いや、お忘れなだけか?」

「わたしが知ってるのは、お父さんが勤めている神社の神様だってことだけ。わたし自身にもその、前世の記憶なんてないし。学校の授業では神話ってほとんど触れないし」

「そうなのですね……では」


 こほん。咳払いをして、いろはは話を始めようとする。長くなりそうだと察し、星南はそっと小さめのクッションを差し出した。十一月にもなると、朝晩は冷えるのだ。


「これに座って。ずっと床じゃ体冷えちゃうよ」

「ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げ、いろははクッションに座る。居心地が良いのか、嬉しそうに目を細めた。


「では、現在伝わっている岩長姫様のお話を簡単にご紹介しますね」

「うん、お願いします」


 人違いかもしれない。そもそも前世なんてものがあるとは思えない。星南は目の前で繰り広げられる非現実的な状況を見ながらも、なんとか信じてきた現実にしがみつこうと試みた。

 そんな星南の心など露知らず、いろはは『古事記』等に描かれる岩長姫の話を教えてくれた。


「……つまり、岩長姫様は妹と一緒に嫁がされたのに、容姿が気に入らないからって実家に戻らされたってこと?」

「簡潔にまとめるとそうなりますね」

「うわぁ……それは酷い」

「岩長姫様は、岩のように硬く長い繁栄を約束する役目を持った女神様でした。神話では、姫様と離縁したが為に人には寿命が生まれたのだとされています」


 そして、その後岩長姫がどうしたのかは書かれていない。ここまでが正史における姫様の物語です、といろはは言った。


「姫様は、望まぬ婚姻だったとはいえ、一方的に離縁されたことを大層悲しがっておられました。己が至らぬせいだとご自分をお責めになる姿は見るに耐えられず……。姫様はその後もご縁に恵まれることはなく、ボクたちのような者たちと暮らして生涯を終えたのです」

「……」

「姫様は、確かに容姿は妹様に比べれば劣っていたのかもしれません。しかし、心根の清らかさは誰にも負けなかった。ボクらはそれを知っているから、誰よりも幸せに生きて欲しかったのです」


 目に涙をいっぱいにためて、いろはが切々と語る。いろはの話にほだされかけながら、星南は自分の前世だという岩長姫を思う。


「きっと、岩長姫様は幸せだったと思うな。確かに一般的な結婚して幸せになるっていう形ではなかったかもしれないけど、あなたたちみたいな子たちと一緒に暮らせたなら」

「岩長姫様も、亡くなられる直前に同じことをおっしゃいました。『あなたたちがいてくれたから、わたくしは幸せでしたよ』と」


 けれど、といろはの顔が曇る。


「ボクは知っていました。姫様が時折、寂しげに月を見上げる姿を何度も見たことがありました」


 一度だけ、見つかってしまったのだといろはは言う。


「姫様は驚いた顔をした後で、微苦笑を浮かべながら『内緒ですよ』とおっしゃいました。その時の表情が、今も忘れられません」

「……なんとなくだけど、わかる気がする。いろはたちのことが好きだから、だからこそ、そんな姿を見せたくなかったんだよ。……心の何処かで、誰かと添い遂げる夢を抱いていたなんて。――えっ?」

「星南様?」


 きょとんとしたいろはの姿が薄くなり、星南は慌てた。前触れもなく気絶したのかと思ったが、事態はそう簡単ではなかった。


(月が……。見たこともないくらい美しい満月が、見える!?)


 目に映ったのは、真っ暗闇の中に浮かぶ泣きたくなるほど美しい満月だ。現代日本で見られる月の中で、こんなにも鮮明なものは一体どれほど見られるだろうか。

 そこまで思い、星南はふと気付く。これはのだと。


(何で、こんなに切ないの? 悲しいの? ……ううん。わたし、この感覚をよく


 何度も月を見上げた。誰もいない、寝静まった夜空を一人で。三日月も新月も満月も、どれも故意に一人で眺めていた。

 涙が流れたことも、一度や二度ではない。その度に急いで涙を袖で拭い、唇の端をきゅっと引き上げる。わたくしは誇り高き豪族の姫なのだから、と。


「……思い出した、わたし」


 月夜の景色が歪み、今へと視界が戻って来る。星南はポロポロと涙が溢れるままに、心配そうにこちらを見つめるいろはを見返す。


「思い出したよ、いろは。わたしは、あなたたちに隠れて、何度も夜の月を見上げた。一度だけ夢見た願いを思って」

「はい、そうでしたね」

「何だか、不思議な気分。星南であるわたしと岩長姫の記憶が混在してる。どちらも本当だから、とてつもなく長い時を生きてきたようにさえ思えるよ」


 千年以上前、岩長姫はヤマトで確かに生きていた。正確な年代までは不明だが、星南にはその記憶が確かに蘇る。

 どちらも自分なのかもしれないが、実感があるようでないようで不確かでもある。星南が苦笑すると、いろはは耳をそよがせた。


「それが前世を思い出すということでしょう。……星南様は星南様であり、岩長姫様と全く同じではありません。けれど、同じ魂を持つ貴女に今度こそ幸せになって欲しいから……そのお手伝いをさせて頂けませんか?」

「わたし……」


 いろはの真摯な瞳に、星南は息を呑む。

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