第6話 マゴリーノと性悪妖精

 小さな森の慎ましやかな泉には確かに霊験あらたかな空気が漂っていました。水は清らか、ほとりには美貌の女神像が立ち、ここなら妖精の一人や二人潜んでいても不思議ではありません。


「あの像ですね?」


 リチャルドに尋ねると彼はこくりと頷きました。私は石像に近づいてそっと眼鏡を外しました。普段は余計なものを見ないようにするために装着しているガラスの膜を。


(この子か……!)


 女神像のドレープたっぷりのワンピースにしがみついていたのは小さな黒い妖精でした。小さいと言っても私の膝下程度の身長はあります。このサイズなら生まれてまだ三十年くらいでしょう。目つきは悪く、鼻は尖り、髪はぼさぼさで美しいのは虫羽だけです。生まれたての妖精は醜く、成長して精霊に近づくほど見目麗しくなっていくと言いますから彼は弱い個体であると知れました。──そう、人の子にしょうもない呪いしかかけられないくらいには。


「な、なんだお前……!? 俺のことが見えてるのか!?」


 視線が合っていることに気づいて妖精が尋ねます。普通妖精は自分で呪った相手とか、契約で繋がっている相手にしか認識できない存在なので異質な私にびっくりした様子です。


「妖精さん。あなたに話があって来ました。あなたがリチャルドにかけた呪いを解いてはいただけないでしょうか?」


 単刀直入に私は要望を伝えました。もちろん彼はすぐには頷いてくれませんでしたが。


「はああ? なんで俺が人間の頼みなんか聞かなきゃいけないんだ? 知ったこっちゃないな。そいつは以前俺の領域を侵したんだ! 呪われて当然だ!」


 うーん、実に妖精らしい回答です。もはやお手本通りとも言えます。妖精とは自分本位な生き物ですが、そもそも彼がルビリアン家の敷地にお邪魔している事実は頭にもないようでした。


「マ、マゴリーノ」


 私のすぐ背後に立つリチャルドが怯えて腕を引っ張ります。彼は私が妖精に何かされないか心配なようです。森に入る前にちゃんと平気だと伝えたのに。

 私はふうと嘆息し、妖精に向き直りました。できればあまり脅すような真似はしたくなかったのですけれど。


「では人間の頼みでなければ聞いてくれるということですか?」

「はあ? 何言ってんだ、どう見てもヒトのガキのくせして。いいからとっとと家に帰り──」


 突っぱねる言葉は最後まで紡がれることはありませんでした。私がパチンと指を鳴らしたと同時、私の肩にくっついていた家蜘蛛から凄まじいまでの光がパアアとほとばしったからです。


「は!? なんだこの光!? いや、この力は……ッ!」


 私は昔から妖精や精霊が見えるのが当たり前でした。でもそんな人間は今や稀少になったようです。素で会話までできるのは世界に私くらいだと聞きます。

 人が犬猫を愛するように、精霊たちにも人を愛してやまない者は多いのです。つまり私は幼少期から一部の妖精・精霊にとてつもなくちやほやされてきたのでした。


「──頭が高い。精霊王の御前だぞ。ひれ伏せ、小さく卑しき者よ」


 家蜘蛛にとりつくことで私の守護霊を気取っていた風の精霊王シルフィードは真の姿を現すやふんぞり返って命じました。妖精はもう蒼白です。いきなりの大物出現に可哀想なほどうろたえています。


「シ、シ、シルフィード様!?」

「聞こえなかったのか? ひれ伏せ」


 シルフィードは威厳ある美しい顔に険を浮かべて繰り返します。弱き妖精に逆らう術などあるはずもなく、彼は地に膝をつきました。


「そなた名は?」

「ヴィ、ヴィーと言います」

「ではヴィーよ。マゴリーノの願いを受け入れ、その男の呪いを解け」

「そんな……! なぜあなた様がそんなことをお命じになるのですか!?」


 ヴィーの疑問はもっともです。偉くて強い精霊は普通他人のためになど力を振るおうとはしません。彼が人間愛玩趣味のない妖精ならば理解不能な行動にしか見えないでしょう。


 それに命令の内容も内容です。これは「うちの子猫ちゃんがお前のおもちゃを気に入ったからこっちによこせ」と言っているのと変わりません。呪いをかけたということは、ヴィーにとってリチャルドは縄張りの一部なのですから。


「マゴリーノが望んでいる! 理由はそれ以外にない!」

「嫌ですよ! んな簡単に呪いを解いたら仲間に舐められるじゃないですか!」


 震えながらもヴィーは要求を拒みます。力の差は歴然としているのに意外と根性があるようです。


「はあ? そなた風霊の末端のくせにこの私に刃向かう気か?」

「だ、だって! 俺はちゃんと理由があってそいつに呪いをかけたんですよ!? 俺が解く気になって解くんならともかく、納得できない解呪はしたくないですよ!」


 ヴィーの主張にも一理あります。元々彼は大事にしていた石像に指輪なんかつけられて、怒って呪いをかけたのです。簡単に許しては妖精の沽券こけんに関わるのでしょう。ヴィーからすればあくまでも悪いのはリチャルドなのです。


「そ、その節は本当に申し訳なかったゲス……。どうすれば僕はあなたに許してもらえるゲスか?」


 と、会話の断片を聞いていたリチャルドがいたたまれなさそうに詫びました。けれどヴィーはふんと顔を背けるのみです。


「人のオンナに手を出したんだ! お前のことは許さない!」


 オンナって。私は思わず石で造られた美麗な女神を見やりました。呆れた顔でシルフィードも石像とヴィーを眺めます。


「この石像ってルビリアン家のものですよね? どちらかと言うとあなたではなくリチャルドのオンナなのでは?」

「誰の財産とか関係ねえ! 俺がずっと、生まれたときからそばにいて大事にしてきたんだからな!」


 妖精って本当にこういうところがありますよね。人間社会のルールとしては勝手に他人の所有物を私物化しているあなたのほう悪いんですが。


「なんだ。女人の像から離れられぬとは、そなたまだ乳離れできていない赤ん坊ということか」

「シルフィード、そんな言い方良くないですよ。実際生まれて三十年くらいなら人間換算では三歳です。お母さんのおっぱいを吸うにはちょっと大きいですが、母親離れはもう少し先ですよ」

「何勝手な解釈してんだコラァ!」


 と、顔を真っ赤にしたヴィーが私たちに凄みます。「それ聞いて仲間が本気にしちゃったらどうすんだ!」と彼は虫羽をばたつかせました。


「大人の妖精だと言うのなら解呪の条件くらい提示すればどうなんだ? 誰か呪うならそれを解く方法も伝えておくのが習わしだろう。まさか何も考えずに呪いだけヤアッとかけたんじゃなかろうな?」

「かかか考えてますよそのくらい!」


 ヴィーの慌てぶりからすると解呪の条件なんて決めていなかったのでしょう。忘れた記憶を思い出そうとするふりをして彼はもごもご続けました。


「ほら、あれです、し、真実の愛! 真実の愛があればゲスの呪いは解けるはずです!」


 ヴィーの返答に私は思わずがっくりします。真実の愛だなんて定番すぎるし具体性もありません。もっとこう、新月の夜にワイングラスに満たしたコウモリの血を持ってこいとか、百個の蛇の抜け殻で作った紐で黒猫を縛れとか、わかりやすい話を期待していたのに。


「そなた若いのに感性が古すぎてちょっとコメントしづらいな……」

「やめてくださいよ! 仲間が聞いたら笑うでしょう!?」


 忌憚ない精霊王の言葉にヴィーは半泣きです。でも古いのは確かでした。今は愛も多様な時代で何が真実かは他者に判定されることではありませんから。


「私も解呪条件が真実の愛というのはやめたほうがいいと思います。たとえばですけど身分違いの男女が胸に一生秘めた恋慕とかどう見極めるんですか?」

「うっ……!」

「表現されなかった愛は存在しないのと同じとか言いませんよね? それに私、ささやかに注がれ続けた親の愛も、一日一緒に遊んだきりのお友達との友情も、尊さは真実の愛に匹敵すると思うんです」

「ううっ……!」


 ヴィーはよろよろと石像の裏に倒れ込みました。そんな彼にシルフィードがとどめの一撃を放ちます。


「今時真実の愛なんて生でキスシーンを拝みたいスケベ妖精しか言わないぞ」

「うわーーーーッ!!!!」


 このパンチは強烈だったようでした。ヴィーはノックアウトされ、起き上がる気力もない様子です。彼が弱っている隙に私はすかさず条件修正を図りました。


「真実の愛ではなく、真実の苦しみではいけませんか? リチャルドは十年もゲスの呪いに耐えてきました。腹いせとしては十分でしょう?」


 私はヴィーに訴えます。そもそも呪いはかなり不当なものであったと。


「十歳の子供がしたことなんですよ? 許さないほうが大人げないです。大体この石像に『触るな! 呪うぞ!』と張り紙していたわけでもないんですよね? だったらあなたが怒るのもお門違いじゃないですか?」

「うるせーーーーーーーーーーッ!!!!」


 どうやら集中砲火を浴びせすぎたようです。あ、まずい。思ったときにはもう遅く、ヴィーは憤怒に髪を逆立てて大声で怒鳴り散らしていました。


「呪いは解かねえ! 絶対だ! 俺をコケにしやがって……! 一生ゲスゲス言ってろバーカ!」


 風に乗ってヴィーは天高く逃げ出しました。ああ、本当にまずいです。慌てて私はシルフィードの薄いケープを引っ張りました。


「グワーーーーッ!」

「あ、こら! マゴリーノ! 邪魔するから攻撃が逸れただろう!」

「殺すのはやめてください、殺すのは!」

「半殺しにしかならなかったよ、まったくもう!」


 空からぽとり、トルネードに巻かれた妖精が落ちてきます。私は彼をキャッチして腕の中に保護しました。


「すみません。うちの怖いお兄さんが……。でもこれでリチャルドの呪いを解く気になってくれてたりしませんかね?」

「な……っ、なってねえ……っ!」


 息も絶え絶えにヴィーが首を横に振ります。なんて強情なのでしょう。将来は気骨のある精霊になるに違いありません。


「マゴリーノ、やはりそいつ殺さんか?」

「駄目ですって! 解けないまま呪いが残っちゃうでしょう!」


 心の底ではリチャルドのゲス口調などどうでもいいシルフィードが溜め息とともに肩をすくめます。精霊王に睨まれても呪いを解除してくれないとは一体どうすればいいのでしょう。私はほとほと困り果ててしまいました。


 こうなったら作戦Bを実行するしかありません。できればあまり騙すような真似はしたくなかったのですけれど。


「わかりました。じゃあ呪いは解かなくていいです。その代わり、こういうのはどうでしょう?」


 私は一つまったく別の提案をしました。

 仲間からの評価を気にしているヴィーが面目を保て、愉快な話題を提供でき、こちらの望みも同時に叶える方法です。


「……へえ? 面白そうなこと言うじゃん? 最初からそっちを聞けよな!」


 どうやら彼は乗り気になってくれたようでした。精霊王の不興を買ったままなのも居心地が悪いでしょうし、いい落としどころになったのかなと思います。


「それじゃさっそくお願いしますね」


 私はスカートのポケットからクッキー袋を取り出しました。中身を平らげて空にすると、それをリチャルドとヴィーの前に広げます。

 そして……。

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