第3話 マゴリーノと可愛い義弟
夫人には申し訳ないですが、実りのない授業から逃れられて私はほっとしていました。明日以降もあんな感じのレッスンが続くのでしょうか。であれば少々考えものです。このままでは私もつまらないですし、オルネア夫人は更に危険な目に遭ってしまうかもしれません。
うーんうーんと悩みながら別邸まで戻ってくると中から誰かの談笑する声が聞こえました。どうやらリチャルドにお客様が来ているようです。ひょっとしてよく会いにきてくれるという彼の弟さんでしょうか。
「ゲースゲスゲス!! 笑いすぎてお腹が痛いゲスー!!」
「まったくもう、兄上ったら……」
声は玄関ホールの脇にある食堂から響いてきます。リチャルドって笑うときそんな風なんだ……。衝撃に動揺したまま私はそちらに顔を向けました。
「あっ、マゴリーノ! もう帰ってきたのゲス? 弟が来ているゲス! 君に紹介したいゲス!」
半分開いていた食堂のドアの隙間からひょいとリチャルドが顔を出します。客人はやはり弟さんだったようです。続いて彼の後ろからこれまた整った顔をした金髪紫眼の少年が現れました。
リチャルドが精霊的な美貌の持ち主だとするとこちらは小生意気な美少年といった風情です。年齢は私より少し下、十六歳くらいでしょうか。彼は吊り気味の大きな目に私を映して言いました。
「初めまして、マテオ・ルビリアンでガス」
「もしかして弟さんも呪われているんですか!?」
今日イチ大きな声を出して私はリチャルドに問いました。語尾は伝染しないという話でしたし、弟さんはゲスではなくガスと言っていますので別の呪いと考えたほうが妥当でしょう。
しかしどうやらこれは私の早とちりだったようです。「違うでゲス!」と首を振り、リチャルドは混乱する私に説明してくれました。
「弟は僕に配慮して会話のレベルを合わせてくれているんでゲス」
「そ、そうだったんですね」
呪いではないと知って私は胸を撫で下ろしました。息子が二人ともゲスだのガスだの愉快な語尾を強いられているとしたらオルネア夫人の精神が歪むのも無理はありません。片方は無事で本当に良かったです。
「母上に叱られるからやめろと言っているんでゲスけどねえ。マテオは反抗期なのかちっとも言うことを聞かないゲスよ」
「それは母上が悪いのガス! あの人は語尾がゲスというだけで兄上のことをまったく認めようとなさらないじゃないガスか!」
ぷりぷりと憤慨しもって弟さんはそう答えます。彼はリチャルドが大好きなようで私は微笑ましくなりました。
「自分の意思で語尾をガスにするなんてマテオさんは兄想いなんですね。私はマゴリーノ・ウラキーモンと申します。不束者ではございますがどうぞよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ兄上をよろしく頼むでガス」
兄想いと評されてマテオの頬がほんのりと赤く染まります。なんだか可愛い少年です。
「そうだ。兄上たちにデザートを持ってきているでガス。せっかくだから三人で食べるガス」
マテオが厨房に向かったので私も紅茶を淹れるべく後を追いました。するとぱたぱたリチャルドの足音もついてきます。
「わあ、待ってほしいゲス! 僕にも用意を手伝わせてほしいゲス!」
「じゃあ兄上にはテーブルセッティングをお願いするガス!」
こうして私たちは厨房と食堂とに分かれました。マテオはてきぱきケーキを切り分けていきます。私も甘味に合いそうな茶葉を選んで湯を沸かしました。
マテオが静かに耳打ちをしてきたのはそのときでした。
「マゴリーノさん、母上には気をつけてくださいね。あの人はこれまでも兄上の婚約者をねちねち虐めて家から追い出してきたのです」
ガ、ガスじゃない。語尾の正しさに息を飲んだ私でしたがマテオの表情は真剣そのものでふざけた返事は口にできませんでした。
「母上はゲス喋りの兄上が気に入らず、僕にばかり肩入れをするのです。ですがどうか兄上をお見捨てにならないでください。兄上は僕と違って本当に立派な男なんです……!」
オルネア夫人が次男にばかり肩入れする? どういうことかもう少し詳しく聞きたくて私はマテオを仰ぎました。しかし結局それ以上のことは聞けませんでした。
「うーん、紅茶のいい香りがするゲスねえ!」
ニコニコ顔のリチャルドの前で不穏な話はしづらいです。しかも彼が傷つく可能性のある話など。
私はリチャルドが食堂に戻った隙に「大丈夫ですよ」と微笑むに留めました。私のほうもマテオに詳細を伝える時間はありませんでしたが。
「確かにオルネア夫人には既にねちねちやられていますが私トラブルには強いんです。今のところリチャルドの好感度も高いですよ。本当に彼と結婚するかは総合的に判断しますが」
私の目をじっと見つめてマテオはこくりと頷きました。
「信じますよ、マゴリーノさん」
なんだか婚約を辞退するハードルが上がったような気がしますが、まあいいでしょう。総合的に判断するというのも嘘ではありません。
ささやかなお茶会を楽しんだ後、私たちは解散しました。マテオが帰ってから聞いたのは、リチャルドがその身に呪いを受けた日に一番側にいたのが彼だという話です。兄弟は二人で遊んでいて、リチャルドだけが災禍の犠牲になったのでした。
「マテオはずっと責任を感じているようでゲス。だからあの子は僕の婚約者にいつも優しくしてくれるゲスし、いまだに呪いを解く方法を探してくれているのゲス」
リチャルドがゲスの呪いにかかったのは十年前、十歳の頃と聞いています。ということは、当時マテオは五、六歳くらいのはずです。兄弟の歴史を感じて私はなんだか神妙な気分になりました。珍奇な効果しかありませんがやはり呪いは人を不幸にするのです。
「あ、そうでゲス。言うのを忘れていたゲスが、東の森には近づいちゃいけないゲスよ。あそこには僕が呪いにかかった泉があって危険なんゲス」
「え!? 森があるのに入っちゃいけないんですか!?」
私は思わず声を乱して問いかけました。庭とか森とかスケジュールの空いた日に散策してみようかなと楽しみにしていたのに。
「昆虫採集……標本作り……」
がっくりと肩を落とすとリチャルドは慌てふためきました。「えっ、そんなに行きたかったゲス?」と尋ねられ、私は素直に頷きます。
「行きたかったです……! 伝手がないと入れない私有地の森、めちゃくちゃ行きたかったです……!」
さめざめと嘆く私を見るに見かねたか、リチャルドは思案の後に言いました。
「わかったゲス。だったら僕が付き合える日に行くでゲス。どこが危険地帯かをナビゲートしてあげるゲス」
「リ、リチャルド……!」
なんていい人なんでしょう。私はすっかり感激しました。昆虫採集に引かないばかりか同行までしてくれるなんて。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
「マゴリーノが喜んでくれるなら僕もとっても嬉しいゲス。明日は父が帰ってくるから行くなら明後日ゲスかね? 楽しみにしてるゲス!」
私たちは森林デートの約束をするとウキウキで食堂を後にしました。
一日中私の周りをうろうろしていた家蜘蛛もぴょんぴょんと跳ねて嬉しそうでした。
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