第2話 マゴリーノと意地悪な義母
さて、公爵家での最初の夜が明けました。私はううんと背伸びをし、ベッドを下りて身支度を始めます。
私の準備は簡単です。顔を洗ったら地味で丈夫で軽いドレスに袖を通し、髪を二本の三つ編みにし、汚れを拭いた丸い眼鏡を装着するだけ。面倒なので化粧はしません。化粧をしない女には映えないのでアクセサリーもつけません。
いつでも部屋を出られる状態になると私は窓を開きました。外はなかなかの快晴です。ルビリアン家の広い庭が遠くまで見渡せます。赤、白、ピンクに紫と色とりどりの花咲く園に蝶々らしきヒラヒラが飛んでいるのを楽しんでいると後ろでコンコンとノックの音が響きました。どうやらリチャルドが迎えにきてくれたようです。
「おはようでゲス、マゴリーノ! 朝食の時間でゲスよ!」
「おはようございます。今行きます」
窓を閉じ、私はドアに向かいました。そのときです。私に追従するように一匹の蜘蛛が壁を伝って同じドアを目指しているのに気づいたのは。
「ふうん? この形状とこの大きさなら
黒っぽく小さな蜘蛛はゴキブリの卵などを食べてくれる益虫です。家の中に虫を入れないというのは公爵家でも不可能なのだなと私はうんうん頷きました。
「マゴリーノ? 大丈夫ゲス?」
と、リチャルドの声が廊下から呼びかけてきます。いけない、いけない。少し足を止めすぎました。私は慌ててドアを開けます。
「大丈夫です、行きましょう!」
私たちは食堂へと歩き出しました。ちらと視線だけ振り返ると、家蜘蛛は壁を這って私の後を追ってきているようでした。
***
そんなこんなで朝食です。私はリチャルドのエスコートを受けてテーブルに着きました。
別邸には昨日からメイドの姿がなかったのですが、食事だけは出張で作りにきてくれているようです。白いテーブルクロスの上には香ばしく柔らかそうなパンやオムレツ、瑞々しいサラダのお皿が並んでいました。
「嬉しいでゲス! 誰かと一緒の食事は久しぶりでゲス!」
向かいに座ったリチャルドはにこにこと上機嫌です。彼の発言が気にかかり、私は思わず尋ねました。
「いつもはお一人なんですか?」
「別邸に住んでいるのは僕だけなのゲス。父は領地と行ったり来たりで留守の日が多いゲスし、母と弟は基本的に本邸でしか食事しないゲス」
なんということでしょう。薄々そんな気はしていましたがやはりこの別邸は彼の住処でもあったようです。跡取り息子なのにボロ屋敷で暮らしているなど気の毒がすぎるので本邸から婚約者のもてなしにきているのだと信じたかったのですが。
「僕が十五歳になった年にここに移り住んだのゲスよ。母上が、僕がゲスゲスと喋るたびにストレスを溜め込んでおられる様子だったゲスから……」
追い出されたわけではなさそうで私は少しほっとしました。とは言え家族の誰も引き留めなかったのかと引っかかりはしましたが。そんな私の表情を見てリチャルドは「あ、いや、」と言い訳のように続けました。
「僕だけ別邸暮らしと言っても家族仲が悪いとかではないのゲス! 弟はよく遊びにきてくれるゲスし、館の管理費もしっかり渡されているでゲス。ただ僕が母上へのプレゼントに使い込んで修繕が間に合っていないだけで……」
なるほど。どうやらリチャルドは使用人の雇用をもケチるほど母親への愛が深いようです。いえ、この場合大変な気遣いをしていると表現したほうが正しいでしょうか。
少しの会話でそうとわかるほどリチャルドは心優しい青年です。ゲス喋りで肉親をイラつかせてしまうなど彼には耐えがたいのでしょう。
「そんなにお母様に贈り物をなさっておいでなんですか?」
「会って話すとがっかりさせてしまうゲスからね。贈り物くらいしかできないのゲス」
リチャルドの台詞からは彼が長く母親とまともな交流を持っていないことが窺えます。ふむ、と私は考え込んでしまいました。
(なんだかこう、根深い問題を抱えていそうな一家だなあ……)
さすがの私も出会って二日目の婚約者に「おうちこじれてるんですか?」とは聞けません。ルビリアン家の実態は地道に把握していくしかないでしょう。まあ手に負えなさそうであれば婚約を辞退するまでです。
「でも僕も、そろそろ後継者として本邸に戻るでゲスよ! 母上から言われているのゲス。無事に結婚できたなら本邸で一緒に暮らしましょうと! だから僕はマゴリーノに素敵な婚約者だと思ってもらえるように頑張るゲス!」
リチャルドはそう言うと「マゴリーノにもプレゼントがしたいゲスね。どんなアクセサリーが好きゲスか?」と尋ねてきました。
「うーん。私は昆虫採集や鉱物採集が好きなので、アクセサリーより箱を貰えたほうが喜ぶと思いますね」
「昆虫採集……!? マゴリーノはアクティブでかっこいいゲスねえ」
話題はそのまま私がどんな標本を持っているかに移っていき、朝食は楽しいひとときとなりました。リチャルドの顔面と語尾の噛み合っていなさには時折くらくらしましたが昨日ほどではありません。美人も三日すれば慣れると言うように、私もそのうち彼のゲス口調に慣れるでしょう。
「ところで君はこのあと母上から夫人教育を受けるんゲスよね?」
「あ、はい。そう伺っています」
「厳しい人だからつらいこともあるかもゲス。そんなときは僕を頼ってほしいゲス。助言できることは助言するゲスし、愚痴だっていくらでも聞くでゲス」
私を安心させようと微笑むリチャルドは十分素敵な人でした。語尾は大問題ですが今までどうして彼が結婚まで至らなかったのか不思議です。貴族というのは見栄を気にする生き物なので語尾がゲスの時点ですべて駄目だったのかもしれませんが……。
「ありがとうございます。頑張ってきます」
「うん! 応援しているゲス!」
私たちが朝食を終える頃、ちょうど本邸から迎えのメイドがやって来ました。
公爵が家と領地を行ったり来たりで不在がちということは本邸で最も力ある人物はオルネア夫人と見ていいでしょう。
初見時の彼女の態度を思い出し、私は小さく嘆息しました。対応の面倒そうな相手です。まあ所詮人間の起こせる面倒などたかが知れていますけれど──。
***
「マゴリーノ嬢、なんなのですかこの書類は? やり直しです。もっときちんとしたものを書いて持ってきてください」
「ええ……またですか? これでもう十回目なんですけど……」
「やり直すべきだからやり直すように指示をしているのです! 口答えするのではありません!」
「はあ、わかりました」
「気の抜けた返事をしないでくださる!? 返事はハイ!」
「はーい」
「だからそのふにゃふにゃした喋り方をおやめなさい!」
「うっ……すみません。気をつけます」
予測に違わずオルネア夫人のレッスンは難しいものでした。まず実務能力を見るということで私は執務室の片隅に机を用意されたのですが、先程から何度同じ書類を修正したか知れません。いえ、内容は単純な計算でたいしたものではないのです。ただ文字が乱れすぎだと永遠にリテイクを食らっているのです。
(厳しいのはわかったけど、厳しくするところはそこじゃない気がするなあ)
私はこそりと肩をすくめ、再び机に戻りました。
帳簿の数字など読めればいいのではないでしょうか。多少汚く書いていても外に出すものではないのですから。レッスンの傍ら公爵家の会計仕事をこなすオルネア夫人本人も、盗み見た限り数字の記入は速さ重視のようですし。
計算は正しいのです。文字も別に曲がったり跳ねたりしていません。けれども夫人は認めてくれず、無為に時間が過ぎていきます。
(疲れてきちゃった。丁寧に仕上げてるふりして適当にさぼっちゃうか)
真面目な令嬢、気位の高い令嬢はこんな初歩的な書類作成でやり直しばかり要求されたら泣くか怒るかするのではないでしょうか。オルネア夫人は今後を見据えて力関係を明確にするべく無茶な指令を出しているとしか思えません。どんなに美しい字で書いても「乱れています」と却下する夫人の苦言はほとんど言いがかりでしたから。
(うーん、やっぱり面倒な人だ。ご家族にはなりたくない)
私はあくびを噛み殺し、机に上がってきた家蜘蛛にペンを向け、床に下りろと追い立てました。その動作に目ざとく気づいた夫人が声を荒らげます。
「マゴリーノ嬢! 何を遊んでいるのですか!」
「すみません。ちょっと蜘蛛がいて」
その後も書き直しは続きました。一枚で済むようなものを百枚は書かされたのではと思います。レッスンはそれだけでなく、歩き方や挨拶の仕方、美味しい紅茶の淹れ方と多岐に渡り、そのすべてにおいてオルネア夫人は小さな欠点をあげつらい、私に何度も同じことをやらせました。
こう言ってはなんですが教育という名の嫌がらせです。新しい知識を授けてくれるならともかく、夫人は私に何をどうすれば正しい作法になるかは教えてくれません。この家に着いたときと同じく説明らしい説明もせず「やりなさい」と命じるのみです。
苦痛極まりないレッスンは日没とともに終了する予定でした。しかしそれは意外な形で切り上げられることになりました。
疲れたなあ。そろそろケーキとか食べたいなあ。午後三時を告げる時計に私がそう項垂れたときです。突然バタンとバルコニーの窓が開き、室内に砂混じりの突風が吹き込んできたのです。
「キャーッ! 目が、目がああぁッ!」
オルネア夫人の叫び声は屋敷中に響きました。なんだなんだとメイドたちが大騒ぎで集まってきます。
私が壁に目をやると家蜘蛛はやってやったぜとばかりに身体を揺らしているところでした。その後すぐに私は治療の邪魔だからと追い出され、思ったよりも早く別邸に帰れることになったのでした。
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