38.月へ
◆
西原を倒し、私達は再び道場へと戻ってきた。
街は相変わらず和やかで、私達がさっきまで命懸けの戦いをしていたとか、あるいは月が本格的に牙を剥いてきてこちらを完殺してくるなど、全く知らずに過ごしている。未来というものを不確かなものを信じて日々を過ごしていられる彼らが……羨ましく、妬ましく、そして愛おしくもある。恐怖は未だに私の中に焼き付いているが、憎しみはだいぶ引いてきた。少なくともすれ違う人間が何も知らないことを怒るよりかは、何も知らなくてよかったと思える。
「で、まあ……とりあえずは西原を倒し、合体事故物件の建築は阻止したわけだが……」
「はい」
まだ最大の問題として月が残っている。
というよりも、この問題を解決するための余計な回り道をしてしまったというのが正確なところだろう。
「……月に乗り込んで、ひたすら俺が宇宙人の悪霊だの、古生物の悪霊だのを倒して回る……まあ、実現性に関しては合体事故物件とどっこいどっこいだろうが……まあ、なんとかなるだろ」
俵さんが大きい顔に自信をたっぷりと乗せて笑う。
私には俵さんを信じることしか出来ない。
何も知らない人たちが何も知らないままに平穏な日々を送れるように、何かを知ってしまうことで他者を蹂躙する怪物になった事故物件一級建築士が二度と現れないように、俵さんが戦ってくれる。
「月に行く手段だけは、僕は用意していたんだ」
そう言って、ギメイさんがタンスから取り出したのはペラペラに折り畳まれた……二枚の雲のようなものだった。
「竹取物語において、月からの使者は雲に乗ってやって来た……竹取物語がどこまで月の真実を描いているかはわからないけれど、少なくとも雲に乗って月の悪霊が地上に降り立ったことだけは事実で……きっと誰かがこの雲に乗ってきた悪霊を討ち果たして、雲を奪ったんだから、色々なことがあって僕のタンスに眠ることになったのだろう」
そう言ってギメイさんが折り畳まれた雲を一枚開くと、ひとりでにふわりと膨らみ、ヘリウムガスの入った風船のように空に向かってどこまでも浮き上がるのではなく、ただ地面から一定の距離を雲は浮き上がって、そこで止まった。
「乗ってみてくれ」
「かぐや姫っていうか西遊記だな」
ギメイさんの言葉に、軽口を叩きながら俵さんは雲の上に座り込んだ。
雲は俵さんの体重を受けて沈み込むでもなく、相変わらずふわりと浮き続けている。
「……よし、後はアンタの願った通りに動くよ」
「……成程ね」
実際、俵さんの乗った雲は上に上がったり、上がった以上に下がったり、あるいは前に進んだりと室内でどこまでも自由に動いた。
「……じゃ、行ってくるか」
俵さんは雲の乗り心地を確かめると、まるで、散歩に出かけるみたいに
本当に無造作にそう言った。
「俵さん!あの……!」
「どうした?」
「いや……その……宇宙服とか、そう、宇宙服とかいらないんですか!?」
俵さんの服装はTシャツにジーンズで、本当に散歩に出かけるような格好で、とても宇宙に行けるものではなかった。こんな格好で月に行って良いはずがない。
「実際、俺さぁ、呼吸って必要ないんだよな……それにしたって肺を破壊されたら苦しくなるし、水下を突かれると息が出来なくなるような感覚になって苦しいのは不思議なんだけどさ。まあ、人間の感覚を死んでも引きずり続けるんだろうな。後はまあ、宇宙環境も行ける。悪霊とかに火を吹かれたらダメなんだけど、なんだろうな、相手の攻撃の意思とか悪意が作用してんのかな。まあ、とにかく俺は大丈夫だから」
そう言って、やはり朗々と笑って見せる。
その笑顔と屈強な肉体、そして雲に乗る姿はどこかの神話に出てくる英雄みたいだった。
「……」
ああ、きっと大丈夫ですね。
そう言いたいのに、言葉が出てこない。
信じています。俵さんならきっと月をなんとかしてくれます。だからやっちゃってくださいね。無事に戻ってきて下さい。言いたい言葉の何もかもが頭の中に留まって、喉まで降りてこない。
「……おかえりって絶対に言いますから」
「えっ?」
「誰かの悪意そのもの家ばっかりめぐらされて、俵さんの始まりだって辛い家で、それで……今からそれこそ地球の全てを救うぐらい、凄いことをするのに……でも、俵さんは戻ることが出来たとしても、また誰かのために戦う……そんなの……良くないですよ……私……誰かの帰る場所は救えるのに、俵さん自身に帰る場所がないのは……いや、そもそも帰れるかどうかもわからないのに……っ……だから……絶対に俵さんにおかえりって言いますからね……」
言いながら私は嗚咽していた。
馬鹿馬鹿しい、本当に戦うのは俵さんで私はただ見送るだけしか出来ない。
私は約束を思い出していた。
いつか、私の家で俵さんにクッキーとクッションを用意して迎えてあげたい。いつかって、いつ。そんな日が来ることをきっと俵さんは信じていないし、私だって信じていない。そんな口だけの約束だなんて嫌だ。せめて、俵さんの帰る場所があってほしい。
信じるとか、いつか、とか約束とか、そんな言葉だけじゃなくて、確かに俵さんに贈ることの出来る何かが欲しい。
「あのさ明子さん……」
俵さんは困ったように笑って、そして言った。
「俺はハッピーエンドの化身みたいなもんだから、全部大丈夫だよ。ま、たまにトチるけどさ。今回なんて全員殴り倒せばいいんだから簡単なもんさ」
「絶対に」
「ん?」
私は小指を俵さんの前に差し出していた。
小学生以来かもしれない、言葉だけは強いけれど誰も信じていないような約束。
「指切りしましょう、俵さんが……絶対に無事に戻って来るって」
「……ああ、約束する」
そして、俵さんは雲に乗って空へと消えていった。
大きな身体が豆粒のように小さくなって、やがて何も見えなくなっても……私は俵さんの姿を追い続けた。
そして、その三日後に地球には金貨の雨が降り注いだ。
【つづく】
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