35.家で過ごす時


 ◆


「俵さん……!俵さん……!俵さん!!」

「よう、元気そうじゃ……ねぇよな」

 何度も呼ばれた名前に俵さんは揚々と手を上げて応じた。


「アンタが例の……」

「噂の俵さんだぜ」

 ずしん、ずしん、とそんなふうに一歩一歩を歩く事に地響きすら聞こえてきそうな大きい身体、しっかりとした足取り。腕も足も丸太のように太い。この世のあらゆる理不尽をぶん殴ってしまいそうな人だ。


「私、俵さんのことを……知ってしまって……それで……」

「まあ、後でいいさ。とりあえずそこの弱点剥き出しの幽霊をぶん殴ってからだ」

「……すみません、もう殴られてます」

 壁まで吹き飛ばされた西原が起き上がり、俵さんと向き合う。

 俵さんと比べればあまりにも貧弱そうに見える身体だけれど、他の人の事故物件を破壊して回れるほどの強さをその身に秘めている。少なくとも悪意に関しては隠しきれていない。


「じゃあ、もう何発でも殴ってやるよ」

 まず気づいたのは凄まじい速さの拳と空気が擦れて発する鋭い擦過音だった。

 俵さんの拳が真っ直ぐに西原の頭部の位置に伸びていく。

 目に追える速さじゃない、コンタクトレンズを付けていなければきっと何も視えなかっただろう。気付いた瞬間には既に俵さんの拳は目的の位置にあった。その拳を西原は身体を前傾にして回避する。そしてそのまま前進し、潜り込むように俵さんのゼロ距離にまで迫った。


「……勘弁してくださいよ、その威力で何発も殴られたら、心臓じゃなくても死んでしまいますよ。俺」

 俵さんの両肩を西原の両手が掴んだ。

 そこを起点に西原の両膝が浮き――俵さんの腹筋に突き刺さる。


「ちっ……」

 俵さんの膝が曲がる――狙いは西原の腹部への前蹴りだろう。

 だが、それよりも早く西原が俵さんの頭部に頭突きを見舞った。


「っ痛ぇ!」

「あっ……やば……」

 俵さんは頭部からダラダラと血を流し、西原の身体はもう一度吹き飛んでいた。

 距離が近すぎる――蹴りというよりはただ、足の平で押しただけになりそうなものを俵さんはその強力で見事に西原に一撃をくれてやったらしい。


 刹那、俵さんの巨体が舞った。

 ドロップキック――助走は殆ど無かったが、両足の平は西原のすぐ前に迫っていた。瞬間、西原の姿が消えた。高速の移動……そんなレベルじゃない、この場から完全に消えてしまった。


「やるのなら、俺の準備が整ってからにしませんか!?」

 その時、窓の外、ビルの階下から声が聞こえた。

 瞬間移動――地球に取り憑いた西原の特殊能力。

 ただ、そんな能力があるなら……それこそ、すぐに決着を着けなければいけない。

 どのタイミングで狙われるかわかったものじゃない。


「各国の事故物件とか、まだ全然集まってなくてですね……それで、出来れば俺も全力を出して貴方と戦いたいんです……如何でしょうか!?」

「勿論、嫌だね!」

 ガラスの破片が粉々になると同時に、俵さんが窓から外へ飛び降りた。

 開ける手間すら惜しんだのだろう。


 ただ、西原は私達に姿を見せているだけで地球を自由自在に移動できるような瞬間移動が出来る存在だ……本気で逃げようとしたら。


 俵さんの接近を許すことすら無く、西原の姿は消えた。

「……チッ」

「俵さん」

 出来れば窓から飛び降りてでも俵さんを追いたかったけれど、流石に無理なので私は階段を駆け下りて俵さんの元へ向かう。


「その……」

 いざ、俵さんを前にするとなんて言えばいいかわからない。

 俵さんにもう一度会えて嬉しいという気持ちもあれば、俵さんの秘密に触れ、そして俵さんの母親を祓ってしまった後悔もある。視界が滲む。ああ、小さい女の子みたいだ。


「ごめんなさい、俵さん、私……」

「明子さんが謝ることなんて何一つとしてねぇよ、ずっと戦ってきたんじゃねぇか」

 俵さんの言葉に、再び瞳から涙が溢れ出した。

 違う。何も出来なかった。ただ、絶望に向かって進んでいただけで、俵さんに認めてもらえるようなことが出来たわけじゃない。

 ああ、嫌だ。

 俵さんに慰めてもらうのが心の底から嬉しい自分が嫌で嫌でならない。

 本当は私が俵さんを助けてあげたいのに。


 ◆


「ギメイです、どうも」

「俵耕太だ、よろしくな」

 とりあえずは、私達はギメイさんの道場に戻ってきた。

 外から来るものを何一つとして遮らない窓からは、温かな光が射し込んでくる。


「とりあえず、まあアレだ……厄介なことになったね」

「敵は、西原とかいう事故物件一級建築士とそいつが作るかもしれない合体事故物件と、そして月、か……」

「……まあ、僕個人としては合体事故物件とやらが月と戦えるなら、それでもいいといえば良いんだが……相打ちにでもならなければ、いつか西原の方が月のポジションに収まりそうだから、まあ……僕としてはアンタ達を応援するよ」

 ああ、そうか。

 あの月の恐怖が終わってくれることばかり考えていて、仮に西原が月をなんとか出来た後のことなんて考えていなかった。それは確かに最悪だ。それでも月とどちらがマシなのかは判断しきれないけれど。


「……月に関してはそもそも行けないが、瞬間移動もキツいな。合体事故物件とやらは……まあ、殴れるならそいつらよりはマシだな」

 そう言って俵さんが笑う。

 その明るい笑い声につられて、私もくすりと笑った。

「月に行きたいなら僕がなんとか出来る」

「え?」「は?」

 ギメイさんの思わぬ言葉に、思わず私達は固まってしまう。

「ただ、今は目の前のことをなんとかしよう」

 とりあえずは西原に関する件か。


「霊視で西原の行き先は把握できませんか?」

「直接視れるならまあ視えづらいがなんとかなるんだが……目の前にいない状態で霊視するのはキツイな、それに視えたところで、アメリカとかに逃げられたんじゃ、こっちも瞬間移動が出来なきゃ逃げられて終わりだ」

「じゃあ……」

 私は西原が道場に置きっぱなしにしていった無数に並んだ事故物件の残骸を見やった。

「この残骸で事故物件の本体の方の位置を把握できませんか?」

「確かに出来るが……」

 ギメイさんはそう言った後、少し考えて「ああ、成程」と言った。


「おいおい、俺を仲間外れにしないでくれよ」

 俵さんがそう言って苦笑する。


「……そもそも西原の目的は月を相手に合体事故物件で戦ってみることなんです、だったら事故物件の建築現場の方には行かなければならない……」

 勿論、実際の建築は業者に任せている場合もあるけれど……もし、そうだったとしても。


「ああ、建築中の事故物件か材料を破壊されそうなら、瞬間移動を使ってわざわざ守りに行かないといけないってことか」

「そういうことです」

「……まだ材料を運んでいる途中だから、こちらの動きを察して建築現場の方を変えてくる可能性もあるが、そうなったらそうなったで、やっぱり霊視の出番になる……けど」

 そこまで言って、ギメイさんが疑念を口にする。


「西原が諦めてしまった場合は、瞬間移動出来るストーカーに殺されるまで付きまとわれることにならないかな?」

「……その時は私がなんとか出来るかもしれません、西原は私に執着しているようなので」

「俺は反対だな、あの変態が自分をアンタに殺させたがっているってなら……俺はアンタがやりたくないことをやってほしくない」

「……何もかも全部、俵さんに任せるわけにはいかないですよ」

「俺は何もかも全部、任されてやりたいよ。出来ればな」

「じゃあ、とりあえずはアドリブということで」

 作戦会議はそんな風に終わり、空はうっすらと赤くなり始めていた。建築現場を襲うなら朝、ということになった。私は夜は月が恐ろしくて動けそうにない。

 というわけで私は家に戻る……ということもなく、道場に残ることになった。私とギメイさん、どちらかが独りになれば西原は容赦なく狙ってくるのかもしれないし、来ないのかもしれない……いずれにせよ、用心に越したことはない。私は会社に「世界平和のためにしばらく休みます」みたいなことをオブラートに包んで伝えると、俵さんと向かい合った。


「……俵さん」

「なんだよ、今更かしこまって」

「ごめんなさい」

 私は床に着くぐらいに深々と頭を下げた。

「やめてくれよ……さっきも言ったけど、明子さんが謝ることなんて何も無いんだ」

「謝らせて下さい、一応は大人なのに子どもを戦わせて……それどころか、そんな俵さんに私は縋ることしか出来ない」

「……ハハ」

「全然おかしいことじゃないですよ」

「そりゃ、確かに俺の享年は子どもだったけどなあ、もう俺が死んでから何年経ってると思ってんだよ」

「……でも」

「そりゃ、確かに俺を助けてくれる忍者はいなかった、それどころか……俺を殺したのは母親だった……まあ、知ったら百人に百人が同情してくれるような悲しい過去だよ」

「……ごめんなさい」

「でも、理不尽に殺された奴がそんな行為を憎んで、理不尽に人を助けちゃいけない……そんなルールはないはずだ。悪霊がいるんだから、俺みたいなやつがいたって良いだろ?」

「はい……」


「事故物件一級建築士は言ってたよな、悪霊は物語に取り憑く……ま、俺はめちゃくちゃ良い奴だけどさ、ただ死んだ瞬間思った。誰か助けて欲しい……なのか、あるいはこんなことになったことへの怒りだったのか、いずれにせよ、俺はそういうものに取り憑いた……サプライズ忍者理論の話したよな、話の途中に忍者が突然現れて大暴れする展開の方が面白いようなら、その脚本は作り直したほうが良い……けどさ、大抵の展開なんてのは忍者が暴れたほうが面白いよな。理不尽な奴が面白おかしく大暴れするんだ。悪霊が出たなら突然現れた寺生まれの霊能者にその悪霊を消し飛ばしてほしいし、女の子が可哀想な目にあっていたら、どっからか現れた宇宙海賊になんとかしてほしい、どうしようもない悲劇があったら、どんだけ無理やりでも機械仕掛けの神に解決して欲しいんだよ……人間にはそういう祈りがある。理不尽を理不尽に吹き飛ばして欲しいっていう祈りだ。俺は死んで、そういうものに取り憑いて……そういうものとして動こうとしている……ま、あんまり上手くはいってないけどな」

 そう言って俵さんは寂しげに笑う。


「俵さん」

「ん?」

「俵さんは私に訪れた理不尽を、理不尽に吹き飛ばしてくれましたよ」

「……ハハ、ありがとな」

「だから、私も俵さんを助けてあげたいんです。誰だってそうじゃないですか」

「あのさ、明子さん」

「はい」

「俺の家行ったのか?」

「……行きました」

「俺はさ、事故物件から誰かを助けるためだけに動ける、そういうルールで動いてる。緩いルールだけどさ。ただ、自分で自分を助けてやることは出来ない。誰かの祈りが俺を動かすことはあっても、俺自身の祈りが俺を動かすことはない」

「……」

「だからさ、アンタがあのクソみてぇなおっさんと……母親をぶっ祓ってくれたっていうなら、俺は可哀想な奴なんかじゃねぇ。ちょっと遅れたけど、俺を助けるために来てくれた奴はちゃんといた。だからそれでいいんだ」

「俵さん……」

「というわけで、張り切っていこうぜ」

「……でも、俵さん」

「でも、でも、だって……だなぁ」

 俵さんが苦笑する。

「悲しいですよ、私。たった独りで誰かのために戦い続けるなんて……それに俵さんはもう死んでるから、もしかしたら永遠に……そういうことをし続けるなんて」

「……独りじゃないさ」

「えっ」

「ここには明子さんがいる……それにギメイさんもな。少し前までは俺より小さい子どもがいたし、よぼよぼの婆さんと一緒にいたこともある。ちょっと助けてすぐに別れる関係性だけど、独りだった時は殆ど無いんだ……だから、まあ、良いんだ……けどさ」

 時々、本当に時々だけ寂しくなるよ。帰るとこもないしな。そう小声で言って俵さんは「内緒だぜ」と人差し指を口の前に立てた。

「俵さん……」

「ん?」

「いつか、もし暇になって……自由に動けるようになったら、私の家にいつでも来て下さい。俵さんのために、クッキーとか焼いて、クッションとか用意して待ってますから」

「……ハハ、そうだな。いつか、そうしようかな」

 実際にそういう日は来ないのかもしれない、そもそも自己満足なのかもしれない。それでも俵さんに伝えずにはいられなかった。多分、俵さんに助けられた私以外の人もそう思っているはずだ。いつか俵さんがゆっくりと休む日が来て欲しい、と。


【つづく】

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